2010年07月19日

読書感想文の本の選び方

えー、7月は1度も更新しないまま、あわわ、いつの間にか夏休みの時期になってしまいました。申し訳ない。
夏休みといえば、そう、読書感想文ですね!
ということで、久しぶりに読書感想文の話題をひとつ。
今回は、基本に立ち返って、
「読書感想文のための本は、どんな本がいいのか」
について考えてみましょう。

読書感想文の書くために、何を読もう‥‥、というとき、
「とりあえず、おもしろそうな本を読んでみよう」
こう考える人は、多いかもしれません。
「おもしろい本を読んで、ドキドキワクワクしたことを、読書感想文に書こう」
と。
しかしこれは安易な考え、いやむしろ大いなる過ちというものでありまして、たとえば、その考え方にもとづいて、
・ハリポタ
・直木賞受賞作
・話題の恋愛小説
・最近のベストセラー
などを読んで、感想文が書けるか。
読んでる間はドキドキワクワクして、読み終わって、あーおもしろかった、さて読書感想文は‥‥、
「僕は、この本を読んで、ドキドキワクワクしました。」
以上、おしまい、です。
これ以上のことは、なかなか書けるものではありません。
それは、あなたに国語の才能がないから、なのではありません。国語の才能がある人も、それどころかプロの文章家だって、こうした小説を読んで読書感想文を書くことは、難しいのです。
それは当然なのでして、なぜならば、そもそも読書感想文とは、
「おもしろい本を読んで、ドキドキワクワクしたことを書くものではない」
からです。
その本来の目的が、最初の最初の第一歩が間違っているというのに、そこから読書感想文を仕立て上げようとするから、苦労することになるのです。

ここで、
「えっ、読書感想文って、おもしろい本を読んで、ドキドキワクワクしたことを書くものじゃないの!?」
と思ったあなた、
「読書感想文、3つの鉄則」
を思い出してください。
(鉄則1)あらすじを書かない
(鉄則2)登場人物の気持ちを考えない
(鉄則3)正しいテーマを探さない
すわなち、
「話と関係ないことを書く」
「自分の気持ちと考えだけを書く」
「自分で勝手にテーマをつくる」
ようするに読書感想文とは、読書を足がかりにして自分のことを書く、という作文なのです(本を読んでどんなにドキドキワクワクしようと、どんなに感動しようと、それは読書感想文とは、まったく関係ないのです)。

そうなると、読書感想文を書くために、どんな本を選べばいいか、おのずと明らかになりますね。
つまり、
「自分のことを書くための足がかりとしてちょうどいい本」
がふさわしい、ということになります。
上に挙げた、
・ハリポタ
・直木賞受賞作
・話題の恋愛小説
・最近のベストセラー
といった作品では、自分の生き方、自分の身の回りのこととはあまりにもかけ離れているがゆえに、その作品を通して自分のことを書く、ということが難しくなるのです。
(もちろん、ふだんの生活の中で、悪の魔法使いと魔法対決を繰り広げているようなかたは、たとえばハリポタを読んで、「ハリーはこのような戦略をとっているが、私であればこのような魔法を使い、このように戦いたいと思います」という感想文を書けばいいと思います。)

さて、それではその、
「自分のことを書くための足がかりとしてちょうどいい本」
とは、どんな本か。
人によってその基準はいろいろあるかもしれませんが、いちばんシンプルなのは、
「自分の日常に近い本」
でしょう。
自分の、この平凡な、ドキドキワクワクのない、ふつうの、ひと夏で大きく成長しちゃったりしない、いつもの日常。
そうしたものが描かれている小説を選べばいいのです。

「えっ、でも、そんな本で、どうやって読書感想文を書くの?」
と思うかたがいるでしょうから、ここにフォーマットを示しておきましょう。
(1)まず、自分の日常を書き連ねる。
最初に、夏休みの日記を素直に書いてみます。たとえば‥‥、
 「夏休みに入ってから、2週間が経った。去年と同じような、平々凡々な日常だ。朝は○時に起きて、○○して、○○して、○○して‥‥。先日は友達の○○君と○○に行って、○○だった。昨日は山形のいとこが遊びに来て、○○して‥‥。」
といったことを、原稿用紙1枚くらい書きます。
そうして、おもむろに、
 「そんな繰り返される日常に、僕はいささか倦んでいた。夏休みというこの何もない日々は、僕にとっては退屈以外の何ものでもなかった。
 だが、そんなある日、僕は、この本に出会った。」
と、一冊の本を示して、次が、
(2)本の内容を書き連ねる。
 「この本は、○○の日常を描いた作品だ。○○が○○して、○○が○○する。ときどき○○が○○して‥‥。」
と、やっぱり原稿用紙1枚くらい、内容を具体的に紹介します。
ここまでが、起承転結の起と承です。
皆さん、本を読んだら、がんばってここまで書いてください。ここまでくれば、後は簡単です。(1)と(2)に続けて、次のようなことを書けばいい。
(3)まとめ
 「ところで、こんな平々凡々たる日常を書き連ねたこの作品を読んでいて、僕はふと思った。作品で描かれている日常は、僕が送っているこの日常、退屈で仕方がないこの夏休みの日々と、大して変わりがないのではないか、と。いや、僕の日常そのままだと言ってもいい。
 しかし、どうしたわけだろう。作中で起こる日々のありふれた出来事ひとつひとつの、なんと輝いていることか。冒険もなければ危険な恋もない、スリルもサスペンスもない、ごくふつうの日常。なのに、その日常が、細部にわたるまで、たとえようもなく尊いものに思えてならないのだ。
 なぜか。
 もしかしたら、それは、作者自身が、そうやって日々の暮らしをいとおしみ、いつくしんでいるからではないだろうか。何気ない日常のひとコマひとコマ、一瞬一瞬を、決しておろそかにせず、大事にしているからではないか。
 作者が描き出すのは、ごく当たり前の日常だ。ハリー・ポッターやミステリや恋愛小説に比べて、本書は何らおもしろみのない小説かもしれない。でも、この一冊を通じて作者は、その当たり前の日常の大切さ、作りごとではない、誰もが自分のものとして生きているこの暮らしのかけがえのなさを、さりげなく示しているのかもしれない‥‥。
 そんな思いを抱きながら、作品を読み終えて本を閉じたとき、僕はふと、一気に視界が明るくなったように感じた。そうだ、日常は、退屈なんかではない。一日一日、一瞬一瞬のそのすべてが、まさに一期一会、二度と繰り返されることのない大切なものなのだ、と。
 夏休みはまだ2週間ある。いや、その先も、僕の日常はずっとずっと続いていく。その日常の一瞬一瞬を、大切にして生きていこう。今、僕はそう決意した。」
さあ、どうでしょうか。
何やらちゃんとした読書感想文っぽくまとまりましたね。
この(3)だけで、原稿用紙2枚分あります。
(1)で1枚、(2)で1枚ですから、原稿用紙4枚なんて、あっという間。
原稿用紙3枚以上、という規定であれば、(1)と(2)を適当に短くすればいいでしょう。
これにて、読書感想文終了!です。

しかしここで、
「ホントにこんな日常のことばっか書いてある小説なんてあるの? 具体的には、何て作品なの?」
という人がいるかもしれません。
「肝心の本が実在しなければ、絵に描いた餅じゃないかよ」
と。

ご安心ください。
そんな日常ばっかり書いてある作品は、ちゃんとあります。
いろいろあるでしょうが、代表的な作家をひとり挙げれば、庄野潤三。
昨年、惜しくも亡くなっちゃいましたが、1921年生まれの、いわゆる「第三の新人」のひとり。遠藤周作や吉行淳之介、島尾敏雄なんかと同じ世代の作家です。
もともと身の回りのことを題材にした作品ばかりの作家なんですが、晩年の「山の上」シリーズが、中でもスゴイ。小田急線向ヶ丘遊園駅が最寄り駅の丘の上の自宅を舞台に、子供たちが巣立った後の老夫婦ふたりの日常を淡々とつづったシリーズです。
これが、もうホントに日常。
近くに住んでる長男や次男、孫たちがたずねてきて、庭にシジュウカラが来て、庭にバラが咲いて、これは兄の英二が引っ越しのときにくれたものの生き残り、だなんてことが出てくるたびに説明されてて、毎日散歩に行って、毎年宝塚見に行って、人が来れば奥さんがまぜ寿司をつくって、近所の山田さんにスズムシもらって、清水さんからは料理のおすそ分け、夜はハーモニカ吹いて、奥さんが歌を歌って、そうして、何かいいことがあるたびに、「うれしい」、「たのしい」、「ありがとう」。と、ひたすら、その繰り返し。そしてその繰り返しが、読むものに喜びを与えてくれるのです。ああ、もう、至芸。
まさに、
「日本文学界のサザエさん」
です。
『貝がらと海の音』にはじまって、『ピアノの音』『せきれい』『庭のつるばら』‥‥、と何冊もあって、出てくる人たちがだんだん年をとっていく以外はどの作品でもほとんど同じことをしているから、
「えーと、これ読んだんだっけ、読んでないんだっけ」
と、いつもよくわからなくなってしまうんですが、そういうところもまたステキ。
ということで、この庄野潤三の「山の上」ものならば、
「自分の日常に近い本」
として、読書感想文にぴったりです。
何作もありますから、1回書いてしまえば、あとはタイトルだけすげかえて毎年同じ読書感想文を使い回せる(かもしれない)という利点もあります。

この庄野潤三以外にも、日常小説としては、尾崎一雄をはじめとする私小説系の作品(ただし、貧乏すぎたり痴情がもつれすぎたりして、わりと非日常なものが多い)、庄野潤三の友人の小沼丹(日本文学界随一の萌えキャラ、おぬまタンです)、あるいは最近の人なら、
椰月美智子『しずかな日々』
丹下健太『マイルド生活スーパーライト』
長嶋有『ねたあとに』
などがありますので、読書感想文に困ってる人は、ぜひ挑戦してみましょう。

(もっとも、実際に庄野潤三でこんな読書感想文書いてる中学生とかいたら、渋すぎてイヤだけど‥‥。)


posted by 清太郎 at 15:28| Comment(10) | TrackBack(1) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月30日

i文学少女

コンテンツについての議論が抜け落ちたまま、電子書籍に関する話題はあいかわらず過熱気味ですね。先日も、電子書籍販売のパピレスの上場に投資家が飛びついてましたし。
短期的な動向はまだまだ予断を許しませんが、しかし長期的には、おおかたのコンテンツが電子書籍の形で読めるようになる、という未来は避けられようがないように見えます。
そしてそうなったとき、音楽におけるiTunesのような存在になれる者はあるのか。電子書籍販売を、巨大な販売サイトが寡占することになるのか。今のところKindleやiBookstoreが一歩抜け出ているのでしょうが、しかしまあ、ニッポンはニッポンらしく、ニッチなところを狙うというのもありのような気がします。
というのが今日の話題。

KindleやiBookstoreでは、表示されるのは、電子書籍だけです。
当たり前といえば当たり前ですが、でも考えてみると、現実の本屋さんであれば、本だけがあるわけではありません。
店員さんがいるし、お客さんもいます。本屋さんには、人がいるのです。
本を選んでいる自分の隣に、やっぱり本を選んでいる文学少女などがいて、棚にある本に手を伸ばしたら、隣の彼女も偶然その本に手を伸ばして、手と手がふれあい、
「あっ」
ということにもなるのです。
KindleやiBookstoreでは、そんなことはできません(今のところ)。

となると、KindleやiBookstoreに対抗するには、それができるようになればいいのではないか。
電子書籍販売サイトだけど、電子書籍だけを売ってるんじゃなくて、ニッポンお得意の、
「美少女」
これを付け加えればいいのではないか。
DSの恋愛シミュレーション「ラブプラス」が人気を呼びましたが、ああいうのを電子書籍販売サイトに応用してみるのです。
具体的には、本の表紙や本棚が表示されているその脇に、本屋さんを訪れている(という設定の)アニメ顔の女子が表示されるのね。画面の中の文学少女、i文学少女です。
女子のバリエーションはさまざま。お客さんですから、入れ替わり立ち代り、いろんな女子が登場します。
定番のセーラー服のメガネっ娘はもちろん、ワンピースの清楚なお姉さまに赤いランドセルの小学生、クールな雰囲気のOLさん、むっちり和服の年増美女‥‥。
現実の本屋さんで、そんな美少女、美女が続々と現れても、本に気をとられて気づかないか、あるいは気づいてもチラチラ横目で眺めるだけですが、ここは電子書籍を販売する仮想書店です。もう、女子に声かけ放題。
「ねー、おねえさん、何読んでるの?」
とか、
「一緒に本を選びませんか」
とか、いくらでも話しかけられます。
そのたびごとに相手の女子は、ポッと頬を赤らめたり、キッとにらみつけたり。
ときには、
「さいきんイーガン読んでSFにはまっちゃったんですけど、何かおすすめ、ありますか?」
などと会話が成立したりする。
と、まあここまでは、無料。別に電子書籍を購入しなくても、ちょっとサイトに立ち寄るだけで楽しめる、ということになっています。
が、もちろん、本当の楽しみは、このサイトで電子書籍を買ってこそ、です。
電子書籍を購入するたびに、女子と会話できる確率が高まるわけですね。会話のキャッチボールもできるようになる。
本を買っていると、たとえば、庄野潤三の作品がカート内に入っているときに、
「あっ、その人、私も好きなんです」
と、女子の方から声をかけられるようにもなります。
彼女たちはそれぞれ、SFファンとか国文マニアとか歴女とか隠れ腐女子とか、本の好みがいろいろ設定されていて、自分の購入履歴を反映して、ジャンルが重なる女子とは、より頻繁に会って、おしゃべりできます。
嗜好の似ている女子と仲良くなるのもよし、あるいは好みのタイプの女子と仲良くなるために、あまり読んだことのないジャンルの本にトライしてみるのもよし、です。

そうしてだんだん親密になると、ついに告白イベント。
「お、お、おつきあい、しませんか」
「‥‥友達からでよければ‥‥」
ということになり、彼氏彼女ということになり、そうしてデート場所はやっぱり、同じ電子書籍販売サイト内。
「じゃあ、こんどの土曜、3時に、考古学の棚の前で待ち合わせね」
と約束して、土曜の3時過ぎに考古学の新刊をチェックすると、いつもの彼女がちょっとおめかしして現れて、
「もー、○○くん、遅いよー。ぷんぷん」
なんて言われたりして、でへへ。
そのまま一緒に仮想書店の中を見て回り、
「あっ、この本、おもしろいんだよ。○○くんも、読んでみれば?」
とすすめられたり、あるいはこちらから彼女にすすめたり。
そうして彼女を自分好みの女に育て上げていくのも、生身の女子相手にはなかなか実現できない、このサイトならではの楽しみです。
最初はラノベにしか興味を示さなかった彼女に、少しずつ少しずつ時代小説の味を覚えさせて、ついには、
「ねえ、この前○○くんが買ってた北原亞以子の新刊、あの、ちょっと、読みたい、かも‥‥」
と、おずおずと言わせた日には! あああ、むふう、もう、たまらん。

そうやってサイトに人気が出てくると、出版社側も積極的に販促に使おう、ということになります。広告費を出して、特殊設定を追加したりするわけです。たとえば、
「発売日から1カ月以内に購入すると、今つきあってる女子と海水浴に行くイベントが発生!」
とかいうのね。
海水浴ということは、本屋さんの中ではぜったい見られない、みみみ、み、水着姿が!!!
ということで、さして興味のない本でも、彼女の水着姿見たさに買う人続出です。
もちろん水着だけじゃなく、浴衣にメイド服、裸エプロン‥‥。本さえ買えば、彼女のいろんな姿を見ることができるとなると、一部の男子は、金に糸目はつけません。

そうして、さらにさらに親密になって、やがては本棚の陰でこっそりとチュー、でもってあまり人の来なさそうな東欧文学のあたりで、そっとスカートをたくしあげて‥‥、わー!!!
ということも思いのまま(年齢制限あり)。ひと通り楽しんだらリセットして、あらためてほかの女子と仲良くなりましょう。
あ、もちろん、女子向け(あるいは一部の男子向け)には、お客さんがみんなステキ男子ばかりのバージョンが用意されてますので、ご安心ください。

ちなみに、生身の彼女や奥さんがいるかたは、メールの新刊通知設定には気をつけましょう。
「○○くん、今週発売の森見登美彦の新刊、一緒に買いに行かない? いつものところで待ってるね!」
なんていうのがうっかり見つかっちゃったら、
「ちょっとアンタ! これ、どういうことよ!?」
と、たいへんなことになります。



posted by 清太郎 at 21:29| Comment(14) | TrackBack(1) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月26日

出会いの場としての書店

ITの発達した現代において、ネットさえつながっていればどこでも仕事ができるにもかかわらず、それでもあえてコストを払って物理的なワークプレイスを維持し、会社という場で仕事をするのはなぜか。言うまでもなく、コミュニケーションのためである。人と人とのフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションから、創造的な成果が生まれる、そのためのオフィスなのである。

それは、書店にもいえることである。
書店という物理的スペースは、単に本を売るだけの場であるか。電子書籍化の果てに、書店は必要なくなるのか。
否、である。ビジネスのIT化がそれでもオフィスを必要とするように、読書界がIT化しても、書店はやはり必要なのである。なぜならば、書店もまた人と人の出会う場所、人と人が出会い創造的な何かが生まれる場所であるからである。
そのことを、書店はもっと声高に主張すべきではないのか。
一介の読書ファンとして、私は今、猛烈にじれったさを感じているのである。書店は何をやっておるんだ、何をうろたえておるのだ、と。みずからのコアコンピタンスを磨かずしてどうするか、と。

物理的な本を販売する場である書店は、同時に、人と人との出会いの場を提供してきた。
本を取ろうとして書棚に手を伸ばしたら、脇から伸びてきた手と触れ合って、
「あっ」「あっ」
「どうぞどうぞ」
「いや、どうぞ」
「えっ、でも」
「いや、あの」
「‥‥(ポッ)」
「‥‥(ポッ)」
そこから芽生える恋‥‥。
書店では、このような出会いが、日々繰り返されてきた。そんな出会いを求めて、幾多の人々が書店を訪れている、といっても過言ではないのである。文系カップルの5組に1組(推計)が、出会いのきっかけは書店であるといわれているのである(総務省調べ)。

しかしながら、そのあたりについて、書店はこれまで本腰を入れて取り組んでこなかった.
並んでいる本同士が有機的につながっているような書棚が、
「魅力的な棚」
といわれ、それをつくる書店員が「名人」などと呼ばれ賞賛されたりすることがあったが、その一方で、人と人が出会いやすい書棚は評価されてこなかった。
本の充実度や書店員のサービス等によって書店がランク付けされることはあっても、そこでどのくらいの出会いがあるかによって書店が評価されることはなかった。
利用者はもっぱら口コミによって、
「あの書店は出会いが多いらしい」
「友達の今の彼は、あの本屋で見つけんだって」
などと書店を選んできた。
出会いを求めて訪れるお客さんに対して、書店からの情報発信はほぼ皆無であったし、一切のサポートをしてこなかった。

だが今、電子書籍化の波が押し寄せてこようとしている今、あらためて書店は、自らのよって立つところを見つめ直さねばならぬのではないか。
単に本を売る、というだけの業態にいつまでも固執していては、今後、電子書籍化が進行する中で、ジリ貧に陥るのは誰の目にも明らかである。であるならば、人と人との出会いの場としての方向へ、軸足を移していくべきではないだろうか。それこそがまっとうな経営的判断というものではないのか。

では、そのために、書店は今、何をすべきか。
早急に取り組むべきこととして、以下のようなことを提案したい。

ひとつは、基礎的なリサーチの実施である。
本の売上や販売部数についての数値的データは蓄積されてきたが、出会いについては、1日に何度出会いがあったか、といった基礎的な数字すらない体たらくである。まずは、実際に書店がどれだけ出会いの場になっているのかを、キッチリとデータとして提示すべきであろう。
・各書店で発生した出会いを日単位で算出
・その出会いの結果、実際にカップルになる割合
・書店内のどこで出会いが発生しているか、また時間帯はいつか
・出会いを発生させたお客さんの年齢、職業等
・出会い発生のきっかけとなった書籍は何か
その他、出会いに関する項目について、精査すべきである。
また、こうした調査を行うことは、
「書店は、本の販売の場から軸足を移し、本気で出会いの場になる!」
ということの公式の宣言ともなる。低迷している書店業界に、世間の耳目が再び集まることであろう。

そして、調査が行われたら、その結果を有効に活用せねばならない。
出会いの多い書店には、どのような理由があるのか、どのような棚づくりをしているのか、立地やインテリアに工夫があるのかなど、徹底的に研究、検証すべきである。さらに、そうして得たものを、一書店内、一チェーン内で秘匿することなく、他の書店にもどんどん広げ、応用し、出会いの場としての書店の力を全国的にベースアップしなくてはならない。
一方で、大々的なPRも必要であろう。書店はもう、単に本を買うだけの場所ではない、人と人との出会いの場、お客さんの出会いをサポートする空間なのです! ということを、世間に知らしめねばなるまい。
そのための手段としては、低迷しているとはいえ、まだまだ雑誌の力は侮れない。「anan」をはじめとする女性誌で、
「恋は書店で生まれる!」
といった特集を組んでもらい、まずは若い女性に対して訴求したい。そこで話題になれば、おのずと男性誌やテレビにも波及していくであろう。

とにかく、事態は一刻を争う。
電子書籍化の完了が先か、出会いの場への転換が先か、書店の未来がその一事に懸かっているのだと、書店人には肝に銘じてもらいたい。
うかうかしていると、いずれiPhoneなどで、
「同時刻に同じ本を買った人と手が触れ合っちゃうアプリ」
などができてしまうかもしれず、そうなってから慌てても、もう遅いのである。



※ちなみに、物理的な書店のもうひとつの強みとして、
「本屋さんにいるとなぜかウンチに行きたくなる」
ということから、
「お通じをよくするためのスペース」
としての業態転換も、業界の一部では検討されていると囁かれていますが、個人的には、どうせ変革するのであれば、お通じのための場であるよりも、人と人との出会いの場として、本屋さんには生き残ってほしいと思っています。本屋さん、がんばって!


posted by 清太郎 at 16:17| Comment(5) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月08日

文学少女を守るデモ

iPadの日本発売を機に、電子書籍についての話題が今までになく盛り上がっております。
斜陽の出版界に対して、電子書籍は福音をもたらすのか、はてまた引導を渡すことになるのか。
業界内では、今、侃々諤々の議論が議論が行われているのであります。

しかし、その議論において、大切なものが忘れられていないか。
出版界を構成するものは、いわゆる「業界」、すなわち出版社、書店、取次だけではないのであります。
それは誰か?
もちろん、
「読者」
である!!
そんな読者不在の議論ばっかしてるから斜陽になるんじゃボケ!

というのは正論でありますが、小生が言いたいのはそういうことではないのであります。
出版社、取次、書店、それから読者。それぞれが生産、流通、小売、消費という役割を担うことで出版界は回っているわけではありますが、しかし、その営みは、単なるビジネスではありません。
それは、そう、文化、なのであります。
出版は、文化なのであります。
そして、文化としての出版を象徴するものは何か!?
それこそ、おお、われらが、
「文学少女」
なのであります!
そうなのであります。電子書籍をめぐる一連の議論において、抜け落ちているもの、それはまさに、文学少女についての視点にほかならないのであります。
何という誤りであるか!
と、小生は、声を大にして言いたいのであります。
文学少女こそ、まさに紙の本なしでは存在し得ないものなのであります。
電子書籍ではない、物理的な本を前提としてはじめて文学少女は存在するのであります。
電子書籍しか出さない出版社があってもいいでしょう。電子書籍しか読まない読者があってもいいでありましょう。
しかし、電子書籍しか読まない、iPadやキンドルやケータイの画面で電子書籍を読んでるだけの文学少女は、それはもう文学少女ではないのであります!

もちろん、文学少女には、さまざまな形態が考えられるでありましょう。
髪は腰までの長いストレートでもいいし、三つ編みお下げでもいい。
眼鏡はかけていても、かけてなくてもいい。
セーラー服でもブレザーでも、白いワンピースでもいい。
しかし、その手にしているものが、iPadであってはならないのであります。これはもう、何があろうと、紙の本でなくてはならぬのであります!
電子書籍が出版界を蹂躙しようとしつつある今、われらが文学少女は、ああ、まさに危急存亡の秋を迎えているのであります!
出版という文化に可憐に咲く花、われらが愛する文学少女。その命は旦夕に迫っておるのであります!

では、今、われわれは何をなすべきなのか。
事態は一刻を争うのであります。
静観している場合ではないのであります。
今、まさに行動が、果敢なる行動が求められているのであります。
しかし、残念ながら、できることは限られているのであります。
金と技術があれば、たとえば日本中に妨害電波を流して電子書籍のダウンロードを阻害する等できるでありましょうが、非力なわれわれにはそれができぬ。
ああ、どうすればいいのか!?
だが、同志よ、安心召され。
ここは日本、われらは日本国民なのであります。
日本国民には、言論と集会の自由という、すばらしい権利があるのであります。
その権利を、今使わずして、いつ使うのというか!?
そうだ! 同志よ、今こそ、決起せよ!
立ち上がれ! そして、集え!
ともに手を取り合い、
「文学少女を守るデモ」
をおこなうであります!!

と、口先ばかりではないのであります。
iPad発売から1週間が経った先日の金曜日、われわれは、東京都渋谷区において、デモを決行したのであります。
東京都ではデモは届出制になっているので、われわれは『貧乏人の逆襲!─タダで生きる方法』(松本 哉、筑摩書房)を参考に、抜かりなく管轄の渋谷警察署に届出を出しておいたのであります。
デモを主催する団体名は、
「文学少女を守る会」
であります。ゆくゆくはNPO法人の認可をとるつもりであります。
暑いくらいに晴れ渡った当日の午後1時半、デモ出発地の恵比寿公園に集合したのは、関東各地から集まった、我輩を含め5名の同志であります。
5名‥‥。
「少ないんじゃないの?」
と思ったそこのキミ! キミは間違っておる!
5名もいれば、たいていのことはできるのであります。戦隊の皆さんだって地球の平和を5人で守っているのであります。
5名でも戦隊であり、5名でもデモなのであります。
われわれは、先導する警察官のかた(ご苦労様であります!)に交通整理をしてもらいながら、
「文学少女を守れ!」
「いま文学少女が危機に瀕している!」
のプラカードを手に手に掲げ、威風堂々、デモ行進をしたのであります。
ルートは、恵比寿駅西口側にある恵比寿公園から、目黒通りを代官山まで行き、北上して線路を越え、青山学院大の脇を通り、青山病院前の通りを抜けて原宿へ向かい、原宿駅前で解散、であります。
あえてケータイ世代の若者に対して、文学少女の価値と希少性を訴えようではないか、という狙いなのであります。

デモ行進のさなか、沿道からは実にあたたかい声援をいただき、何度も励まされたであります。
「なんか知らんががんばれよー」
と応援していただいた見知らぬお兄さんにも、
「これ何の撮影?」
と気にかけていただいた見知らぬオバサンにも、この場を借りて、あらためてお礼を申し上げたい。ありがとうございました。
また、デモ行進中の様子は、随時、twitterで、
「デモ出発なう」
「代官山アドレス前なう」
「道行く女子が写メ撮ってるなう」
などと、実況したのであります。
それに対して、
「ガンバレー」
「文学少女、やっぱり大切ですよね!」
「ボクも参加したかった!」
と、多くのかたがたから返信をいただき、これまた感謝の念に堪えません。
われわれは間違っていなかった! との思いを、さらにさらに深めたのであります。

ただ、一点だけ、遺憾に思うことがないではないのであります。
こうしてわれら5名、誠心誠意がんばった、精魂傾け、声を張り上げ、一所懸命やり遂げた、その行為に対して、当の文学少女本人から、特に何の音沙汰もなかったのであります。
いや、もちろん、われわれは代償を求めてデモ行進をしたのでは、決してない。トキやイリオモテヤマネコを守る会の人たちも、別にトキやイリオモテヤマネコから感謝されたいと思ってやってるわけではないのであります。
同様に、われわれは、何の見返りも求めぬ、誠に清い心でもって、高い志と正義を愛する心のみを糧に、立ち上がり、集い、デモを決行したのであります。
シャイな文学少女のかたがたから、ひと言の感謝の言葉もなくても、われわれは文学少女を守るべく、これからも活動を継続していく所存であります。
ただ、そこで、たとえひとりでも、いや、ただひとりでいい、可憐な文学少女のかたが、ほのかに頬を染め、
「あたしのこと、守ってくれて、ありがとう‥‥」
と、つぶやいてくれたのなら、われわれは、それだけで昇天、いや、勇気百倍なのであります。

そこで、であります。
次なる、第二回文学少女を守るデモ決行に向けて、われわれ文学少女を守る会では、
「守ってほしい文学少女」
を募集したいであります。
全国の文学少女の皆さまに、お願いであります。住所、氏名、連絡先に加え、好きな本のジャンルや作家、それにスリーサイズと写真2枚(全身写真とバストアップ)を同封のうえ、以下の宛先の、
「守ってほしい文学少女係」
まで、どしどしご応募いただきたいであります!
厳正な選考のうえ選ばれし文学少女のかた(若干名)のもとへ、われわれ文学少女を守る会の同志は、ただちに馳せ参ずるであります!
そうして、われわれは、全力でもって、われらが女神、敬愛すべき文学少女をお守りするであります!
文学少女を守るデモをはじめ、文学少女を守るシンポジウム、文学少女を守る読書会、文学少女を守る食事会、文学少女を守る伊豆温泉旅行など、文学少女を守るさまざまな活動を決行していく所存であります。
そのうえで、いずれ、
「会のみんなで守ってくれるのもうれしいけど、‥‥こんど、ひとりで守ってくれますか」
と言われたら、小生としては、えーと、その、やぶさかでないであります。


posted by 清太郎 at 21:51| Comment(8) | TrackBack(1) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月30日

使用済み国語の教科書

えー、更新をさぼっているうちに(最近こればっかだな)、世間ではiPadが発売されて盛り上がったりしてますね。
iPadで不思議なのは、これを使ってできることの一番目に、
「電子書籍」
があがってくること。うーむ、いくらiPadなら電子書籍読みやすいからって、今まで本読んでなかった人がいきなり電子書籍読むことはないでしょう。
京極夏彦の新刊が電子書籍で出たりはしてますが、とりあえず司馬遼太郎の主要作品が電子書籍で安く手軽に読めるようになるまでは、大した変化はないんじゃないかと思います。

ところで、このiPadの話題のひとつとして、教科書をこれで配信しちゃう、というのがありますね。電子教科書として、とってもいいツールである、と。
視覚に障害がある人なんかへのサポートは必要としても、実際、各教科の教科書がすべてiPad1台におさまるのなら、かなり便利になりそうです。当面は一部の高等教育の場だけなんでしょうけど、こうしたスレート型端末がどんどん普及すれば、紙の教科書はすべて一掃されて、小学生があんな大きなランドセルを背負わなくて済むようになるかもしれませんね。
同時にクラウド化もどんどん進むでしょうから、わざわざ端末を持ち運びしなくても、学校では学校の、自宅では自宅の端末にログインすれば、すべてOK。手ぶらで登校しても、何の支障もないような日が来るかもしれません。

おお、なんと素晴らしいことではないか、iPadワンダホー、ITバンザイ!
と、手放しで喜んでいる人が世の中には多いようですが、しかし、本当にそれでいいのか。
電子化によって、便利になるのと引き換えに、われわれはもっと大切なものを失ってしまうのではないか。
いや、失うのではないか、ではない。失ってしまうのです!
われわれは断固として、この電子化の流れに、反旗を翻さねばならんのです!
というのが、今日のテーマです。

では、教科書の電子化によって失われるものとは何か。
まあ、ちょっと、聞きなさい。
iPad教科書で、誰もが喜ぶわけではありません。悲しい思いをする人も、いっぱいいるんです。
もちろん紙の教科書がなくなれば、ランドセル業者や教科書専門の印刷屋さんなどは、悲しむでしょう。でも、そういう話をしているのではありません。
ビジネスではなく心、感情、愛のレベルの問題なのです。

たとえば、教科書の電子化によって悲しむのは、4年2組のケンタくんです。
ケンタくんは、隣の席のユリコちゃんに片思いをしています。
従来の紙の教科書であれば、
「センセーイ、僕、教科書、忘れちゃいましたー」
「あら、ケンタさん、しかたがないわねえ、隣のユリコさんに見せてもらいなさい」
「ハーイ!」
と、隣の席ながらふだんはなかなか話しかけられないユリコちゃんと、一冊の教科書を分け合って、必要以上に密着して、なんかこういい匂いが漂ってきたりして、もうドキドキ。でもって、肩がちょっと触れ合っちゃったりなんかして、さらにさらに、ページをめくるときに偶然を装って、ちょこんと、指を、指を‥‥! ハアハア、もうオレ、今ここで死んでもいい‥‥。
ということができました。
しかし、紙ではなくスレート型端末であれば、そうはいきません。
「センセーイ、僕、教科書、忘れちゃいましたー」
「あら、ケンタさん、しかたがないわねえ、じゃあ学校の備品を使いなさい」
でおしまい。いや、上に述べたようにクラウド化が進めば、「教科書を忘れる」ということがあり得ないシステムにもなるでしょう。
ケンタくん、もうガッカリ。
教科書の電子化によって、ケンタくんは、せっかく隣になったユリコちゃんの肩にも指にも触れることのないまま、席替えになっちゃうのです!

そして、悲しむのは、こうして幼い恋を邪魔されたケンタくんをはじめ少年少女だけではありません。
すでに学校を卒業して久しい、われわれ大人も、大いに悲しむことになるのです。
だって、紙の教科書がなくなってしまうのですよ!
紙の教科書がなくなる、ってことは、算数/数学の教科書や理科、社会の教科書がなくなるだけではないのですよ。
そう、そうです。
国語の教科書、ぼくたちの国語の教科書も、なくなってしまうということなのです!

どうですか、ホラ、そう言われて、思わず青ざめた男子諸君も多いのではないか。
何しろ、国語の教科書なのです。
そこには、ぼくたちの、夢とロマンと愛が、詰まっているのです。
学校、というこの近代が生み出した不条理なシステムにおいて、ぼくたちはそれでも、そこに、人間的な夢を、ロマンを、そして愛を見出してきました。
学校の、どこにか。
そう。
すなわち、セーラー服、スクール水着、体操着、上履き、リコーダー、ピアニカの口にくわえるアレ‥‥。
ああ、なんという夢でしょう、ロマンでしょう、愛なのでしょう!
そして、ぼくたちは、セーラー服やスクール水着、リコーダーなどにおいて、清らかな女子小中学生、高校生の身体的なものの象徴を感じてきた一方で、彼女たちが使った使用済みの国語の教科書に、精神的なものの象徴を感じてきたのです。
たとえば裏表紙に書かれた名前は、粗野な男子とは異なる、繊細で几帳面な、女子ならでは筆跡で。
ちょうどいい塩梅に手垢で黒ずんでいるけれど、ページにあまり折れがないのは丁寧に扱われた証拠で。
何より、お手製のカバーがかけられていたりして。
でも、中を開くと、あちこちにかわいらしい落書きが。
正岡子規はアフロになっていて、芥川龍之介の鋭い目からはなぜか怪光線。
「走れメロス」には、ページの隅に、メロ×セリを二重線で消してその下に花丸囲みでセリ×メロ!!!と書いてあったりしたら、もう悶絶、卒倒。
女子小中学生、高校生の使用済み教科書をめくることで、ぼくたちはたとえようもない夢とロマンと愛を感じてきたのです。興奮と悦びと、そして安らぎを得てきたのです。

そしてそのすべては、紙の教科書であってこそ、なのです。
電子化されてしまっては、それらは決して味わえません!
あのめくるめく興奮が、悦びが、安らぎ、感動、味わいが、失われてしまうのです!
ああ、なんということ!!

と、こう言うと、
「まあ、教科書は、しかたがないよ、あきらめよう。教科書がなくっても、ぼくたちには、ほら、セーラー服が、体操着が、スクール水着があるじゃないか!」
とほざく男子がいるやもしれぬが、キミ、それは間違っとる!
教科書は、端緒にすぎないのです!
教科書の電子化を許せば、どうなるか。
それを皮切りに、学校内のあらゆるものが、次々と電子化されていくことでしょう。
黒板が、掲示板が、名札が、白線引きが‥‥、そしていずれは、紙の教科書が失われたように、布のスクール水着も失われ、
「電子スクール水着」
になってしまうのです!
それでもいいというのか、キミは!!
イカンだろう、ダメだろう、エッ、そうではないのか!?
電子スクール水着じゃ、どうにもならんだろう!
そうです!
電子スクール水着になってしまってから、泣き叫んでも、遅いのです!
そうなる前に、われわれは、先手をうたねばならんのです!
教科書という水際で、電子化を食い止めねばならんのです!
ぼくたちの大好きなスクール水着を電子化から守るために、いざ立ち上がれ! 教科書の電子化、断固反対!!



と、以上、このように、教科書の電子化に対して異を唱えている男子がいたら、それはスクール水着ファンだと思って間違いはないので、女子の皆さんは用心しましょう。


posted by 清太郎 at 20:56| Comment(4) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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