2011年09月03日

俳諧ガールのための雑誌「Haine(ハイネ)」

先日初めて知ったのですが、
「囲碁ガール」
のためのフリーペーパーがあるそうです。
その名も、
「GOTEKI」
“オンナの知的好奇心を刺激する”だそうです。

まあ、それだけでは、ありがちというか、ちょっとおもしろいだけの企画なんですが、いや、侮ってはいけませんよ。
表紙を見て、びっくり。
ウェブサイトにあったVol.4の表紙が、これ。

goteki表紙.jpg

ね、ね、一見、ふつうの女性誌。
ロゴもデザインも、かわいい女子の写真も、まるでふつうの女性誌。
なのに、キャッチフレーズが、
「わたし囲碁ガールになります」
しかも、よく見ると、
「わたし、狙っちゃってもいいですか? 囲碁メン 恋の徹底攻略」
とか、
「碁的恋愛サロン 囲碁恋愛格言講座」
とか、もうたまらなく意味不明でステキ。

各コーナーの詳しい紹介も載っていて、それもいい。
たとえば、

★囲碁ガール的合コン生活。
若手お笑い芸人と囲碁ガールの飲み会を取材。自己紹介代わりにひとまず一局、仲良くなってまた一局、そんな彼女たちの様子を紹介します。

……合コンというか碁コン!? こんなの絶対仲良くなれないと思う!

★囲碁だってキラキラしたい!〜勝負運の上がるWINストラップ〜
ジュエリー会社「アビステ」と碁的のコラボが実現。キラキラなアイテムで気分を上げる。勝負運も上がります。

……え、囲碁って、そんな運頼みでいいの? ていうか、何この胡散臭いタイアップ……。

★碁クササイズ
囲碁で部分やせに効果あり?!碁盤を使った簡単エクササイズをご紹介。インストラクターのお墨付!

……碁盤を使ったエクササイズって、片手で持ち上げたりとか、碁盤の上で倒立とか!?

と、気になる内容ばかり。
サイトからは、電書版とPDF版がダウンロードできるので、ぜひ読んでみてください。


さて、こうなってくると、この「GOTEKI」、ほかでもマネしたくなります。
こういう無茶な女性誌企画、ぜひとも立ち上げたい……。
ということで、昨夏の「オタク俳句(二次元俳句)のすすめ」以来ハマっております俳句で、考えてみました。
雑誌名は、ずばり、
「Haine(ハイネ)」
なんていうのは、どうでしょうか。
表紙は、こんな感じ。

haine表紙縮小.jpg

(拡大画像は、こちらのPDFで表示されます)

気になる今月号の特集は、
「この秋最強!季語使いまわしコーデ」
100とか500とか、そんなにいっぱい季語を覚えられない! そんなアナタに、こっそり教えちゃうこの秋の厳選季語10アイテム&使いまわしテク! これだけ覚えておけば、どこの句会に行っても大丈夫!!
という、意外に実用的な内容です。
さらに、神野紗希、佐藤文香、野口る理といった若手女性俳人を立てた各コーナーをはじめ、占いやダイエット、恋愛や旅といった女性誌にお決まりの内容も揃っています。

そのほかのコーナーとして、

★俳諧ガール的合コン生活。
若手お笑い芸人と俳諧ガールの飲み会を取材。自己紹介代わりにひとまず一句、仲良くなってまた一句、飲み会はいきなり句会に。「そんなのちっともおもしろくない!」と、俳諧ガールたちの厳しい声が飛びます。

★俳句だってキラキラしたい!〜勝負運の上がるWINストラップ〜
ジュエリー会社「アビステ」とハイネのコラボが実現。キラキラなアイテムで気分を上げる。句会運も上がります。これさえあれば、アナタも「天」を取れる!

★俳クササイズ
俳句で部分やせに効果あり?! 俳句を使った簡単エクササイズをご紹介。インストラクターのお墨付!

そういえば、このご時世、付録も必要ですよね。
「アニエスベー×Haine 吟行トートバッグ」
とか。

うーむ、なかなか楽しそうです。
実はひそかに俳句がブームだという今、どこかの出版社がうっかり創刊しちゃったりしないかしら……。





posted by 清太郎 at 17:18| Comment(4) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月30日

「読書感想文は1行読めば書ける!」

えー、皆様、元気にお過ごしでしょうか。
夏が終わろうとしています。
まあぼちぼちと更新を再開したい、などと言いつつ、ウソばっかでした。
2か月も滞っておりました。
もうこのブログもおしまいか、と思っているかたも多いでしょう。
私もそう思ってました。

だが、しかし。
本をめぐる情況がますます流動化し、紙の本の行方も電書の行方も定かではない今(いや、どっちかというと悪い方向に向かってることだけは確かな気がするけど)、小さなブログとはいえ、何かやるべきことがあるのではないか!
という義侠心に駆られたわけではないのですが、今度こそ、本当に、ぼちぼちと再開してみようかと思います。

などといいつつ、本日の更新は、なし。
かわりに、6年くらいほったらかしだった、本家の「本読みHP」のほうを更新してみました。
超久しぶりに、
「読書感想文は1行読めば書ける!」
その番外編として、
「俳句で書いてみる」
です。
読書感想文に呻吟している中高生の皆さん、ぜひ参考にしてくださいね。
(なんていいつつ、ぜんぜん参考にならないけど。)


posted by 清太郎 at 23:41| Comment(5) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月21日

初音ミクが電書店の一日店長になったよ!

えー、東日本大震災の津波で壊滅しちゃった本屋さんはいっぱいあって(もちろん、がんばって立ち直ってる本屋さんもいっぱいあって、応援してますが、それはそれとして)、製紙工場も大変なことになって紙が不足、それからインクも不足で、
「もう紙の本はダメだ。津波が来たらおしまいだ。もう紙はやめよう。脱・紙。これからは電子書籍の時代だ! 本棚はクラウドに限る!」
とばかりに、地震と津波をきっかけに電子書籍化の流れが一挙に加速するかと思いきや、ぜんぜんそんなことのない今日このごろです。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

あの3・11以来、マスコミの話題が津波や原発寄りになっていることもあって、電子書籍のことなんて、なんかみんなどうでもよくなってきてるんじゃないかしら。
ていうか、津波と原発を言い訳に、なんとなくなし崩し的にうやむやにしていって、
「まあ電子書籍って、あれだよね、日本人の国民性に合わなかったんだよね‥‥」
といったところへもっていこうかしらん的なやる気のなさがミエミエのような気がします。
なにしろ、電子書籍元年に続く電子書籍2年も半ばを迎えようとする今になってすら、なお、
「電子書籍を買うのは、めんどくさい」
のです。
電子書籍(まどろっこしいので、以下「電書」)を買うには、いまだにいくつものハードルがあります。

(1)自分がどの電書を読みたいかわかっている
(2)その電書がどこの電書店で売ってるのか知っている
(3)その電書が自分の持っている端末で読めることを知っている
(4)その端末およびビューワーが電書を読むのにふさわしい

と、少なくともこのくらいのハードルがある。
これが紙の本であれば、本屋さんに行くのに、そもそも、
「自分がどの本を読みたいのかわかっている」
という人は、あんまりいないと思います。(たぶん3割くらいしかいない。特に、いわゆる読書家のほとんどは、買いたい本があって本屋さんに行くわけではないでしょう。まあ結局のところ、ネット上の電書ストアの魅力のなさは、それらが「電書を買うためのショッピングサイト」でしかないからだと思います。つまんないもの。)
自分がどんな本を買いたいのかわからなくても本屋さんに行けるのは、とりあえず本屋さんに行けば、規模の大小はあっても、それなりに現在出ている新刊の主だったところがざっくりと並んでいる、とわかってるから。(もちろん、本屋さんによって違いはいろいろありますが、それはそれとして。毎日何軒も本屋さんのハシゴをする人は少ないでしょうし。)
これが電書店となると、そうはいきません。今のところ日本語の電書に関しては、どんな大規模な電書店に行っても、現在出てる主だった電書がざっくり並んでるなんてことはありません。
というのも、もちろん、電書店ごとに扱っている出版社が違ってるからですね。
これはたとえば、家電量販店でいえば、
「うちは家電売ってますけど、冷蔵庫とエアコンは扱ってません」
とか、あるいは八百屋さんでいえば、
「うちは八百屋ですけど、キャベツと大根とトマトとピーマンと牛蒡と茄子とキュウリだけ売ってます」
とかいうようなもので、お客さんとしては、なんともめんどくさい。
要は、楽天やAmazonみたいに、それら電書店をぜんぶまとめた1つの窓口さえあれば、それさえあればいいという実に簡単な話なんですが、まあ何らかの大人の事情のようなものがあって、それができない。

そうした全般的なところだけでなく、細かいところでも、電書店の魅力はイマイチです。
たとえば、本の出版年。
一部の小説家の作品を除けば、本がいつ出版されたのか、というのはけっこう大切な情報です。その本の内容が古いのか新しいのかは、その本を読むかどうかを決める重要な基準のはずです。
なのに、この大切な情報がわからない電書店が多すぎる。
一例を挙げると、本のプロである丸善とNTT Docomoが組んでいる「honto」では、著者名・出版社・ブランド・支払方法・販売開始日・ISBNコード・紙の本サイズはパッとわかりますが、出版年は記されていません。
正直、販売開始日なんて、どうだっていいですよね。むしろ余計。紙の本サイズもPDFでなければ無意味な情報でしょう。
そうしたあまり必要ない情報はすぐわかるのに、出版年がわからない。「honto」で電書を買おうとすると(買ってないけど)、いちおうAmazonなどで出版年を確認してから買わないといけない、ということになります。

あるいは、「棚」の魅力のなさ。
リアル書店では、「棚」がそれなりに重視されますよね。魅力的な「棚」をもつ書店は、それだけで読書家から愛好されます。
話題になるような本屋さんは、それなりにどこも、「棚」のつくり方、本の見せ方に腐心してるわけです。リブロの「今泉棚」のような伝説的な存在になってるものもある。
なのに、電書店は、その「棚」が、何ともお粗末。
売れ筋とか新刊とか、本の表紙が漫然と並んでるだけ。何年も前に電子書籍が初めて出てきたときと、あんまり変わんない気がします。

そして、それより何より、あれがない。
あれです、あれ。
多くの本屋さんで、いつも待っている、あれ。
カウンターの向こうで、あるいは本棚のわきで、いつも一生懸命の……。
エプロン姿がとても似合っていて……。
そう、そうです。
あれです。
書店員さんです!
電書店には、書店員さんがいないのです!
というか、厳密に言うと、
「書店員のおねえさん」
が。
リアル書店にお客さん(男子のお客さん)が足を運ぶのはなぜか。
本を買うため、でもありますが、それは必ずしも多数派ではありません。
キャバクラに行く男性の目的が、お酒を飲むことではなく女の子とおしゃべりすることにある(よくわかんないけど、そうだよね?)のと同様に、本屋さんに行く男性の目的の一部は、ズバリ、
「書店員のおねえさんに会うこと」
であることは、周知の通りです。
当社アンケート調査(2010年)によると、都内の18〜25歳の男子が書店に行く理由(複数回答可)は、
・本を買うため・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21.5%
・ひまつぶし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67.7%
・書店員のおねえさんに会うため・・・・41.3%
・トイレに行くため・・・・・・・・・・・・・・・・・6.2%
なのです。数の上では、本屋さんは本を買うための場所ではなく、むしろ、書店員のおねえさんに会うための場所であるといってもいい。
本が好きな多くの男子が、
「エプロン姿でわたわたと働いてるおねえさんが見たい!」
とか、
「軽やかな手さばきで瞬く間に本にカバーをかけてくれるおねえさんの熟練の技を堪能したい!」
とか、
「そのおねえさんがつけてくれた本のカバーに頬ずりしたい!」
とか、
「レジにエッチな本をもっていったときの、あの毒虫でも見るかのような冷たくキツいおねえさんの視線を浴びたい!」
とか、とにかくそんな熱い希望と期待を胸に、本屋さんに足を運んでいるといってもいい。
なのに、それなのに!
その重要な書店員のおねえさんが、おお、なんということか! 電書店には一人もいないとは、何事か!!
なんという手抜かり!
なんという過ち!
これもまた、電子書籍で一山当ててやろうとか他社に後れをとるなとか、売り手側が自分たちのことしか考えていないことの証左でしょう。
本当にお客さんのことを考えて電書店を開くのであれば、お客さんが本当に求めているもの、すなわち書店員のおねえさんを用意すべきなのです!

しかし、まあ、そこはそれ。
過ちて改めざる、これを過ちという、と孔子もいってます。
これまでの過ちを糾弾してばかりでは、前に進まない。
ミスがわかったら、修正すればいいんです。
これまで電書店におねえさんを置かなかったことを反省し、今日からでも頑張ってプログラムをつくって、電書店員のおねえさんを登場させればいいのです。
どんなおねえさんにするか――リアルっぽい3Dおねえさんにするか、アニメで萌えなおねえさんにするか――は、それぞれの電書店がユーザーの嗜好に合うように知恵を絞ればいい。
あるいは、以前書いた「i文学少女」のように、訪問したユーザーがそれぞれ自分で選べるようにしてもいいですね。
選択肢の中には、
「何よ、また来たの?」
なんていう、ツンデレ書店員さんがいてもいい。
でもって、そんな書店員のおねえさんとのコミュニケーションも、電書店の楽しみになるのです。
リアル書店のおねえさんとは違って、何度も買い物しているうちにだんだん仲良くなれて、やっぱり「i文学少女」のように、いずれは店外デート、同伴出勤、でもって夏は、
「み、みみみ、水着も!!!」
ということになるのだったら、ウブな文学青年は、もう、大興奮間違いなしです。

あるいはまた、電書店オリジナルのおねえさんだけじゃなくて、人気のアニメやゲームのキャラに書店員を務めてもらうのも一案でしょう。
いや、そんなキャラクター書店員こそ、リアル書店では実現不可能な、電書店ならではの魅力となるはずです。
たとえばいきなり初音ミクが一日店長になって、電書を買うと、その電書の最初の10行くらいを歌にしてその場で歌ってくれる、なんていうイベントがあったら、試しに1冊くらい購入してみる人はいっぱいいるんじゃないでしょうか。

まあ僕としては、それほど初音ミクには興味がないので、どうせなら一日店長はガンダムに出てくるセイラさんかエヴァのアスカあたりにやってもらいたい。そうしてわざとエッチな本を買って、毒虫でも見るかのような冷たくキツい視線を浴びせかけてもらいたいです‥‥。


posted by 清太郎 at 21:54| Comment(8) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月19日

俳句とポケモンカード

えー、お久しぶりでございます。
3・11の震災以来、どうも考えることが津波やら原発やらに引っ張られてしまって、ブログのネタになるようなバカなことに思いをめぐらすことができず、更新が滞っておりました。
‥‥というのは、ウソですね。いや、ウソじゃないけど、ホントじゃないですね。だって、震災前の1カ月間も、更新なかったもんね。なんか単にサボってただけかも‥‥。

ということで、まあぼちぼちと、再開したいと思います。
で、とりあえず、リハビリとして、本のバカネタではなくて、俳句についてのわりと真面目な話。
以前の「オタ俳句」で俳句のおもしろさを知って以来、すっかりハマっちゃって、ときどき中断しつつも、俳句をつくり続けてきたのね。
その間、句会にも参加しちゃったりして、今ではすっかり、どこに出しても恥ずかしくない「俳句初心者」になりました。
そうして、俳句初心者として半年間、俳句をつくってみて、まあそれなりに思ったり感じたりしたこともあるわけで、あんまり俳句に興味がない皆様向けに、それをちょっとまとめてみましょう、というのが今回のネタ。

で、どんなことを思ったり感じたりしたのかというと、ひと言で簡単に言えば、
「俳句は、詩よりもポケモンカードに似てる」
ということです。
などというと、句歴五十年の山田さん(65歳)あたりから、
「くわっ、俺の俳句が、ポケモンカードと一緒だってのか!! 俺は人生を俳句に懸けてんだぞ!! ってことは、エッ、何だ、俺の人生がポケモンカードだってのか!! 俺の人生が、紙みたいに薄いってんのか!! エッ、どうなんだ!!」
と怒られそうですが、まあそういう人は、「初心者だから何もわかっとらんのだ、バカめ」と思って聞き流していただきたい。

山田さんには申し訳ないけど、俳句は、ポケモンカードに似てます。
なんで似てるか、その理由は2つありまして、ひとつは、
「俳句は、言葉のコンボである」
ということです。
ポケモンカードの遊び方って、たとえば、単純にピカチュウのカードとキャタピーのカードを出し合って、ピカチュウが強いから勝ち、とかなんじゃないですよね。
キャタピー自体は弱いけど、それに他のカードの能力を付け足したりして、攻撃力を高めたりする。(えーと、私はポケモンカードについて、無知です。さわったこともありませんが、たぶん、そんな感じだよね?)
ポケモンカードのおもしろさは、そんな、
「カードのコンボ」
をキメること、なんだと思います(たぶん)。
で、俳句も、基本はそれと同じなんじゃないかしら。
カードではなく、言葉を組み合わせる、つまり、
「言葉のコンボ」
をつくるのが、俳句。(まあ、それだけではないとしても。)
たとえば、誰もが知ってる芭蕉の名句、
「閑さや岩にしみ入蝉の声」
これがどうして名句なのかというと、ふつう「蝉の声」ときたら、これはもう、うるさかったり騒がしかったり賑やかだったりするのが当たり前。それなのに、いきなり、
「しずかさや」
なんて言っちゃう。エッ、蝉なのに、しずか!? でも、それが、「岩にしみ入る」というのと相俟って、かえって蝉の声を感じさせる。芭蕉以前に誰もが思いつかなかった、そんな一発逆転のコンボが、この句なんだと思います。
使える言葉は、名詞や動詞から助詞、オノマトペまで、日本語の数だけあります(いや、日本語だけとは限らないか)。そこからいかに言葉を選んで、どう組み合わせてコンボをつくるか。
極端な場合は、言葉を2つ並べるだけでも、ステキな俳句になります。
 《カンバスの余白八月十五日  神野紗希》
とかね。
私が俳句をつくるときも、基本は、そんな感じです。
たとえば、「番長」という言葉が思い浮かんだ場合、それと組み合わせるには、どんな言葉がいいか。
「ケンカ」「学ラン」「子分」
といったような言葉は、もともと番長につきものですから、これらの言葉を組み合わせたって、大したコンボになりません。
「番長」を引き立てるような、なんかちょっと発見があるような、そんな言葉を使ったほうが、いいコンボになる。
ということで、
「番長がいきものがかり春隣り」
という句になったりする。
ちなみに、ここで重要なことは、こうして言葉のコンボをつくるとき、私自身の「心情」とか「感動」とかは、一切関係してないっていうこと。
俳句が詩そのものであるとしたら、心情も感動もない単なる言葉の組み合わせでは、
「えっ、何それ? 何その薄っぺらい言葉。それでも詩なの?」
ということになるのですが、俳句は詩よりもポケモンカードに近いですから、別に「心情」も「感動」も必要ありません。
このあたり、私に俳句の手ほどきをしてくれた千野帽子さんが、ずっと以前から、
「俳句は、“自分の言いたいこと(メッセージ)や感動を自分の言葉で表現するもの”なんかじゃない!」
と言っておりまして、大いに賛同してます。

さて、俳句がポケモンカードに近いもうひとつの理由は、
「俳句はゲームである」
ということです。
などというと、またもやさっきの山田さんから、「何!? 俳句がゲームだと!? 俺の人生はゲームだっていうのか!? エッ、どうなんだ!!」とすごまれそうなんだけど、でもねえ、やっぱり俳句って、ゲームっぽい。
ポケモンカードでコンボをつくったら、実践でどれだけ通用するか、バトルに出して試してみたくなるものです。(だよね?)
同様に、言葉のコンボで俳句をつくったら、このコンボがどれだけ通用するか、バトルに出してみたくなるはずです。
そのバトルの場が、たとえば、句会。
匿名で出し合った俳句に、点数をつけ合って、「わーい何点入った」とか「ぐぎー、一点も入らなかった」とか、それってゲームそのもの。
そこには、
「表現というのはその人のオリジナルのものであるから、たとえ不格好でも、その表現ひとつひとつに、魂が宿っているのです。どんな句も全部、すばらしい。みんな違って、みんないい」
なんて甘っちょろい考えは、一切ない。ダメなものはダメ。下手なものは下手。
オリジナルの表現を尊重するどころか、勝手にどんどん直しちゃったりもする。
「ここは○○じゃなくて△△に置き換えたほうが、もっといいよねー」
「あっ、そうか、じゃあ、そうする」
まあでも、そうやって、お互いワイワイ言いながら楽しめるところが、俳句のおもしろさじゃないかなあ、と思うのね。
となると、やっぱり、自分を表現する詩というよりも、みんなで持ち寄って見せ合いっこして楽しむゲームに近いでしょ。
俳句のことを、日本文化でワビサビで芸術だと思ってると、なにやら敷居が高いけど(私も長い間そう思ってたけど)、ポケモンカードに似たゲームだと思うと、なんだか楽しくなってくるはず。
ってことで、みなさん、俳句やってみませんか。

ただし、身近に俳句をやってる人がいないかぎり、句会なんてなかなかできませんよね。だから、代わりにTwitterで。
#otahaiku ハッシュタグでは、褒めたり腐したりワーワー言うようにしてるので、遊びたいかたはぜひ参戦ください。
ちなみに、一から俳句をはじめたい人におすすめの参考書は、藤田湘子『新版 20週俳句入門』(角川学芸出版)、ウェブでは日経ビジネスオンラインの連載「千堀の『投句教室575・別館』 飛び込め! かわずくん」、それから千野帽子さんが私の俳句(と皆さんの俳句)をビシバシ添削しまくるTwitterのまとめ「千野帽子俳句道場」「千野帽子俳句指南」は実践的にすごーく役立つと思います。

と、以上、「俳句はポケモンカードに似てる」という趣旨でここまで書いてきましたが、もしかして、
「ちょっとアンタ! さっきから黙って聞いておれば、何てことを抜かしやがるんだ! ポケモンカードはゲームじゃない! ポケモンカードは、芸術なんだ、アートなんだ!!! 現代日本を代表する文化なんだ!! 俳句なんかよりよっぽど高尚なんだ!! 一緒にしてもらっては困る!!」
と激怒しているポケモンカードファンがいたら、えーと、ごめんなさい。


posted by 清太郎 at 22:03| Comment(5) | TrackBack(2) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月12日

[本]骨狩りのとき(エドウィージ・ダンティカ)




合コンの数合わせなんかで呼ばれた男子が、
「まあどうせオレなんか、刺身のツマだから」
などと卑下することがあるけれど、刺身のツマなら、まだいいのである。
刺身のツマは、まあ言ってみれば、その場限りの役である。パートタイムである。
刺身のツマである大根は、この場合は細く切られてまとめられ、つつましく寄り添っているだけなんだけど、そればかりではないのである。
刺身のツマは、仮の姿。
他の場所であれば、ふろふき大根やら鰤大根やらおでんやら、主役級の仕事をしているわけである。

ところが、似たような立場でも、パセリは違う。
刺身のツマと同様に、料理の添え物として出されるものであるけれど、パセリはどこまで行ってもパセリである。他で主役を張ることはない。
「今日のおかずは、パセリ炒めね」
ということは絶対ない。
たとえば付き合いはじめた彼女から、
「好きな野菜ある?」
と訊かれて、
「大根が好き」
と答えたとしたら、
「じゃあ今度、大根使って、何かつくってあげるね♪」
と笑顔で言われるだろうけど、これがパセリなら、どうか。
「パセリが好き」
なんて言ってしまおうものなら、
「ぎゃっ、パセリが好き? マジ? マジパセリ? ちょっとアンタ、変態じゃないの? そんな変態とは、付き合えません。別れさせてもらいます」
と、即座にフラれること間違いなしである。
あるいはまた、部長から、
「君は刺身のツマのような男だね」
と言われたとしたら、それは場合によっては、
「主役を引き立てる名脇役」
「サポート役として、プロジェクトに欠かせない人物」
というプラスの評価でありうるけれど、
「君はパセリのような男だね」
と言われたとしたら、それはどうあっても、
「いてもいなくてもどうでもいい人」
「っていうか、むしろ、いないほうがいいかも」
ということに違いないのである。

実社会ではそのような手ひどい扱いを受けているパセリだけれど、文学作品に眼を転じてみると、意外にも、貶められてばかりではない。
パセリを題材にした文学作品といえば、真っ先に挙げられるのは、鷹羽狩行のこの一句、
「摩天楼より新緑がパセリほど」
であろう。
一句を構成する13文字中、3文字がパセリ。実に23%がパセリからできているというパセリ文学である。
他にも俳句には、
「焼肉にうすみどりなるパセリかな」(飯田蛇笏)
「たべのこすパセリの青き祭かな」(木下夕爾)
など、パセリが主役を張っているものがいくつもあるわけなんだけど、では小説ではどうか。
パセリ俳句はあっても、さすがに、
「パセリ小説はないだろう」
と思ったあなた。ブー、残念でした。
ちゃんと、あるんです。
パセリ小説が。
それがこれ、エドウィージ・ダンティカ『骨狩りのとき』(作品社)。

何気なくこの作品を読みはじめると、70ページの次の一文に、ガガーン!!と打ちのめされてしまうのである。
《一握りの濡れたパセリで身体をこすっていた。》
えっ!!
パセリで、身体を洗うの!?
パセリで!?
えっ、えっ、パセリって、料理に添えるだけじゃないの!?
あってもなくてもいいような、むしろないほうがいいものじゃ、なかったの!?
しかも、それに続く一パラグラフが、これ。
《私たちはペシ、ペレヒル、パセリ(訳注:ペシはクレオール語、ペレヒルはスペイン語。ともにパセリの意)を使った。その、夏の朝の湿気を含んだ感じ、混じりあった小枝、とげが立ってごわごわして、それでいながら柔らかですなお、味がないけれど噛むと苦く、口の中には甘い風が流れ、葉と茎は違う味がする。このすべてを私たちは食物に、茶に、風呂にと楽しんだ。私たちの外側からも内側からも古い痛みや深い悲しみを取り除き、新しい年が明けるときに行く年のほこりを落とし、新生児の髪を始めて洗い、そして――ゆでたオレンジの葉とともに――亡くなった人の遺体を最後に洗った。》
諸君は、これほど熱くパセリを語った文章に、出会ったことがあるだろうか。
っていうか、パセリ、大活躍じゃん!

しかも、これはほんの序の口ね。
作中、身体を洗うよりももっと重要な役どころとして、パセリは出てきます。
ハイチ人の女性作家によるこの作品の舞台は、1937年のドミニカ共和国。
この年、ドミニカ共和国では、隣国(というか、イスパニョーラ島を分け合ってる、西側の)ハイチからの移民に対する大虐殺がおこなわれたのね。
ハイチはもともとフランス領、ドミニカ共和国はスペイン領で、お隣同士といっても仲は最悪。相対的に富裕だったドミニカ側にはハイチから移民が流入していたんだけど、第二次大戦直前のこのときには、ヒトラーの思想に傾倒していたドミニカ共和国の独裁者トルヒーヨが、民族浄化と国内の不満のガス抜きのために虐殺を指揮し、わずか数日で、2〜3万人のハイチ人移民が虐殺されたのだとか。

その虐殺に際し、ドミニカ人かハイチ人かを区別するために用いられたのが、われらがパセリ、だったんだって。
スペイン語で、
「ペレヒルと言ってみろ」
というのね。
ハイチ人は、
《声を震わせて出すrの音とjの精確な音の繋がり》
をうまく発音できないから、見た目がどれほどドミニカ人っぽくっても、バレちゃう、というわけ。
パセリはまさに、生死を分ける鍵。
人生のこの究極の場面において、これほどまでにパセリが重大な役を負わされたことが、人類史上、このとき以外にあっただろうか!

物語の語り手は、そのハイチ人移民のアマベル。
ドミニカの富豪に幼いころ拾われ、今は「バレンシア奥さま」と呼んでいるその一族の娘と一緒に育ち、サトウキビ畑で底辺の労働者として働くセバスチアンという恋人がいて、まあそれなりに平穏な生活のように見えるんだけど、語り手の気づかないところで時代の背景には黒々としたものが流れていて、たとえば冒頭、バレンシア奥さまが双子を出産したとき(とりあげたのは、ほかならぬアマベルだ)、奥さまの夫で軍人のピコさまは、知らせを受けて思いっきり車を飛ばしてきたせいで、ハイチ人移民をひとり轢き殺しちゃって、でも、悪かったなんて全然思っちゃいない。
そうこうしているうちに、国境あたりではハイチ人移民が虐殺されているという噂が流れてきて、アマベルたちが住む町でも、やがて‥‥。
そして、ハイチへと脱出しようとするアマベルも、国境の町で、ついに若い男たちに取り囲まれ、
《‥‥あごを無理やりこじ開けられ、口にパセリを詰め込まれた。できるだけ早く噛んで飲み込んだけれど、彼らが私の口に押し込む早さにはついていけなかった。
 ‥‥その女にどんどん食わせろと命令している声を聞かないようにしようと努めた。パセリを食べれば生きていられる、と自分に言い聞かせた。
 ‥‥私は咳き込み、噛んだパセリのしぶきを地面に飛ばした。不意に、誰かが私の背中の真ん中を強く蹴るのを感じた。誰かが拳大の石を投げて、あたしの唇と左頬が切れた。私は前にのめり、顔を地面にぶつけた。》
と、パセリは禍々しい悪役として存在感を発揮。
この小説を、「パセリ小説」と呼びたくなるのも、おわかりであろう。

アマベルはどうなるのか、恋人のセバスチアンは!? 彼らと一緒にいた人々の運命は‥‥!? というのは読んでのお楽しみとして(っていうか、そういうのにハラハラする小説じゃないんだけどね)、それはともかく、もしあなたが、昨日部長から、
「君はパセリのような男だね」
と言われて落ち込んでいるのだとしたら、この小説を読めば、
「パセリも、なかなか捨てたもんじゃないな」
と、きっと元気が出ると思います。



【こんな人におすすめ】
・パセリが好きな人
・昨日部長から「君はパセリのような男だね」と言われた人
・「あなたってパセリみたい」と言われて女子にふられた人

【こんな人におすすめしません】
・虐殺小説ファンの人(大虐殺を題材にした小説だけど、残念ながら、そんなに凄惨なシーンはありません)


posted by 清太郎 at 20:20| Comment(11) | TrackBack(0) | おすすめ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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