2009年10月18日

小説イントロクイズ

その昔あった「クイズ・ドレミファドン!」というテレビ番組(今でも特番なんかでたまに見かけるけど)で、歌謡曲のイントロ部分だけ聴いて曲名を当てる「イントロクイズ」が人気でしたが、あれを小説でできないか。
神保町の古本まつり(今年は10月27日〜 11月3日です)か何かの会場に、特設ステージを用意して、壇上には読書ファンなら誰もが知っている書評家さん、本読みがズラリ。クイズ王も参戦。
「それでは皆さん、お待ちかねの『クイズ・アイウエオン!』が始まります!」
わー、わー、パチパチパチパチ。
「それでは、一問目‥‥」
かたわらのお姉さん(朗読カフェのバイト歴2年半、朗読には自信があります)が、高らかに読み上げます。
「あほう‥‥」
「ピンポーン! ハイッ」
「おっ、早いっ、では回答をどうぞ!」
「内田百ケン、『第一阿房列車』」
ピンポンピンポンピンポーン!
「おおーっ」
会場から、どよめき。
「さすがですねえ。第一阿房列車。『阿房と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考えてはいない』、ですね。では、第二問」
「あさ‥‥」
「ピンポーン! 太宰の『斜陽』!」
ブブー。
「残念、お手つきは一回休みです」
「あさ、めをさます‥‥」
「ピンポーン! 『世界の中心で、愛をさけぶ』!」
ブブー。
「ざんねーん、セカチューは、『朝、目が覚めると』です。もう一度最初からいいますよ」
「あさ、めをさますときのきもちは、おもしろい」
「ピンポーン! 太宰治『女生徒』!」
ピンポンピンポンピンポーン!
と、こんな感じ。

まあ別に、小説の冒頭数文字からその作品名を当てたところで、書評家としても読書家としても、何の自慢にもなりません。和歌の研究者や歌人が百人一首のカルタ大会に強いわけではないのと同じです。
「こんなの出たところで、しょーもないんだけどねー」
というのが本音ではあるんですが、とはいえ、衆人環視、しかも優勝賞金(図書カード10万円分)がかかっていますから、眼の色はけっこう本気です。
「腹上死だった‥‥」
「ハイッ、酒見賢一『後宮小説』!」
「第三のコース‥‥」
「ハイッ、『火宅の人』!」
「無人島に持っていく五枚のレコード‥‥」
「ハイッ、ホーンビィの『ハイ・フィデリティ』!」
もちろん、ステージの回答者がわからない問題も、多々あります。4、5行分くらい読んで誰も答えられないと、観客席で、
「あっ、僕、わかった!」
と手を挙げる人がいて、
「おっ、お客さんがおわかりになったようですね、はーい、では、どうぞー」
なんて。お客さんが正解したら、その場で500円の図書カードを進呈。この時点で、優勝賞金は図書カード9万9,500円分となります。
回答者は、
「いやあ、わかんないもんですねえ。ハハハ。あ、でも回答されたかた、スゴイッ」
なんていいながら、眼はぎろりと鈍い光を放ったりして、意外にヒートアップするかもしれません。

しかしこれ、回答者だけでなく、出題者の見識も問われますね。
誰もが知ってるような有名な書き出しではつまんないし(たとえば、「我輩は猫‥‥」とか「国境の長いトンネルを‥‥」とか「木曽路はすべて山の中‥‥」とか)、知らなくてもいきなりタイトルがわかっちゃうような書き出しもダメです(たとえば、「ロリータ‥‥」とか「セバスチャン・ナイトは‥‥」とか「この自伝を、僕は『フェルマータ』と名付ける‥‥」とか「西の魔女が死んだ‥‥」とか)。
もちろん、誰も知らない小説だったり、とりたてて特徴のない、おもしろみのない書き出しでも、観客席からブーイングの声が上がります。
そこそこ知られた作品で、わりと印象的な書き出し、でもって正解すると「おおー」といわれるような、そんな問題じゃないといけない。

試しに、いくつか挙げてみましょうか。本棚から、てきとうに見つくろってみます。(ちなみに、私自身、ちっともわかんないと思います。)

(1)一杯のカクテルがときには人の運命を変えることもある。
(2)今日は、陸軍大臣が、おとうさまのお部屋を出てから階段をころげおちた。
(3)父さんが熊を買ったその夏、ぼくたちはまだ誰も生まれていなかった――
(4)一月一日 曇 もぐらと一緒に写真をとる。
(5)これは完全に調和した、みずみずしくも、アメリカそのものの、美しい図書館である。
(6)はたちの誕生日を前にして、とくべつ欲しいものはなかったが、父が死に、不動産とハムスターを一匹もらうことになった。
(7)猫が飛び降りる時、安全に着地出来るのは、どのくらいの高さが限度なのだろう。
(8)眠い――といえば高校生の頃は、朝起こされる時本当に眠かった。
(9)いつから私はひとりでいる時、こんなに眠るようになったのだろう。
(10)この海に浮かぶ道路は、いったいどうやって造ったのでしょう。










どうでしょうか。
正解は、以下の通り。おわかりになりましたか?
(1)佐藤正午『ジャンプ』
(2)武田泰淳『貴族の階段』
(3)ジョン・アーヴィング、中野圭二訳『ホテル・ニューハンプシャー』
(4)川上弘美『椰子・椰子』
(5)リチャード・ブローティガン、青木日出夫訳『愛のゆくえ』
(6)栗田有起『ハミザベス』
(7)山田詠美「シャンプー」(『姫君』所収)
(8)北村薫「織部の霊」(『空飛ぶ馬』所収)
(9)吉本ばなな「白河夜船」
(10)シュペルヴィエル、永田千奈訳「海に住む少女」

とはいえ、このイントロクイズ、実際にやってみると、どうなんでしょう。イベントとして、果たしてちゃんと盛り上がるのか。
年をとってくると、
「50ページくらい読んだところで、“あっ、これ、読んだことのある本だった”ということに気づく」
というのが珍しくなくなることを考えると、結局のところ優勝するのは、クイズ王のような気もします。


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2009年10月12日

アニメ「青い文学シリーズ」

当日になって初めて知ったんですが、去る10月10日から、「青い文学シリーズ」というアニメ番組が始まってます。日本テレビで、とりあえず関東だけの放映みたい。(まあどうせ、youtubeやら何やらで、どこでも見られると思いますが。)
第1回は「人間失格」で全4話構成、その次が「桜の森の満開の下」、その後「こゝろ」「走れメロス」「蜘蛛の糸」「地獄変」、ということで、そう、あれです。「ナツイチ」です。

《大好評を博した集英社の「ナツイチ」で展開されている文豪たちの名作の表紙を、「DEATH NOTE」や「バクマン。」の小畑健、「BLEACH」の久保帯人、「新テニスの王子様」の許斐剛ら人気漫画家たちが描き下ろしたスペシャルカバーが、 TVアニメ「DEATH NOTE」や劇場用アニメ「サマーウォーズ」を手がけた日本屈指のクリエイター集団「マッドハウス」の手により、前代未聞のアニメーションとなって登場する!》(日テレ公式サイトより)

ということなのね。
おお、そんな話が水面下で(というほど隠してたわけじゃないんだろうけど)進んでいたのね! なかなかやるじゃないのよ、集英社。

そんなわけで、当ブログでもそんな企画はぜひとも応援せねばなるまい、ということで、以下、第1話をまとめてみました。

人間失格タイトル.jpg

冒頭は、「人間失格」の(あまり知られていない)最初の一行の場面から始まります。
《私は、その男の写真を三葉、見たことがある。》
ですね。

人間失格写真.jpg

こんな可愛らしく見える男の子だった主人公・大庭葉蔵ですが、成長すると、
《恥の多い生涯を送って来ました。》
ということになります。

どのくらい恥が多かったかというと、

人間失格チャック.jpg

「イタタタ、チャックに挟まった」




人間失格お店.jpg

「じゃあこのお兄さんにドンペリ3本」
(あ、あの、そそそんなお金、ないんですけど‥‥)




人間失格毛はえ薬かえない.jpg

(どうしても恥ずかしくて、毛はえ薬が買えない‥‥)




人間失格またぐら.jpg

「ちょっとアンタ、どこに顔つっこんでんのよ!」
「す、すみません、間違えました」

と、このように恥ずかしいことばかり。
まさに人間失格です。
(って、「人間失格」ってこんな話だったかな。)

しかし、恥辱にまみれたそんな葉蔵の人生が、大きな転機を迎えます。
ある日、葉蔵は、あれを拾ってしまったのです。
あれ。
そう‥‥。


人間失格デスノート.jpg

デスノート!!!

おおー、そうか、「DEATH NOTE」の小畑健とのコラボというのは、こういうことなのね!
オーソドックスな文学アニメだと思っていたら、まさに驚愕の急展開。
うわー、俄然、おもしろくなってきました!

デスノートを手に入れた葉蔵は、もちろん、もとが人間失格野郎ですから、夜神月くんのように世界をよくしてやろうなんてことは微塵も考えません。
ただひたすら、おのれの欲望を満たすためだけに、ノートを使います。
まずは、子どもの頃に自分をいじめた男を殺し、

人間失格男殺し.jpg



自分をバカにした女を殺し、

人間失格女殺し.jpg



デスノートの力で、やがては、金も、

人間失格金.jpg




女も、

人間失格女思いのまま.jpg




毛はえ薬も、

人間失格毛はえ薬文字つき.jpg

思うがまま!

僕が新世界の神になる!とばかりに、ほくそ笑む葉蔵。

人間失格笑い.jpg

まったくホントに人間失格です。

だが、しかし。
彼はやはり、
《人間の営みというものが未だに何もわかっていない》
のでした。
自分がその代償を払わねばならないときが、近づいていたのです。
ある日、いい気になって油断していた葉蔵は、うっかり、デスノートに自分の名前を書いてしまったのです。

人間失格名前.jpg

な、なんということ!

「ぼ、ぼ、僕は何てことを、してしまったんだ‥‥!?」

人間失格手を見る.jpg

どうなる、葉蔵!
このまま死んでしまうのか!?
でもあと3話分あるぞ!
起死回生の策はあるのか!?

ということで、第2話へ続く。

人間失格お化け.jpg

気になるかたは、次回ぜひ視聴してみてください。









そしてもちろん、以上は半分ウソです。
アニメになってるのはホントですが、デスノートは出てきません。
必ずしも小説どおりではありませんが、もっとオーソドックスな構成になっていますので、あしからず。


posted by 清太郎 at 10:24| Comment(6) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月04日

若山三郎を悼む

先日、丘の上の庄ちゃんこと庄野潤三が死んじゃってガッカリでしたが、10月1日には、こんどは若山三郎が死んじゃいました。

《若山 三郎氏(わかやま・さぶろう=作家)1日午後1時19分、肺炎のため東京都板橋区の病院で死去、78歳。新潟県柏崎市出身。自宅は東京都練馬区貫井2の24の3の1101。葬儀は近親者のみで行い、後日、しのぶ会を開く予定。喪主はいとこの安中重義(あんなか・しげよし)氏。
 ミステリーや大衆小説、実業家の伝記など幅広いジャンルで活躍。主な作品に吉永小百合主演で映画化された「大空に乾杯」や「ドカンと一発!!」「政商」など。日本作家クラブ理事長。》

なのだそうです。
もうとっくに現役を退いてるのかと思ってたら、日本作家クラブの理事長なんてのをやってたのね。驚きです。(っていうか、若山三郎が理事長になれる日本作家クラブって何!? どうやら昔は「捕物作家クラブ」で、野村胡堂や江戸川乱歩、子母澤寛、長谷川伸をはじめ錚々たるメンバーが加入していたらしいけど、そのあたりの人たちが死んじゃった後は、まあある種の同好会みたいなものになってたみたい。)
そうかぁ、若山三郎、死んじゃったのかぁ。
あの若山三郎が‥‥。
ああ‥‥。
などと言っていると、
「えーと、あの、お取り込み中のところ、つかぬことをおうかがいしますが、その、若山三郎さんというのは、いったい、どなたさまでしょうか」
とお尋ねになるかたがいるかもしれませんが、ちょっとアナタ、何寝ぼけたこと言ってるんですか!
若山三郎といえば、あれですよ、あれ。
かつて、昭和40年代、一世を風靡した、かどうかはよくわかんないけど、今は(ほとんど)なき春陽文庫において、城戸禮の「三四郎シリーズ」とともに「春陽文庫の双璧」と称された、かどうかはわかんないけど、とにかく当時大人気、だったかもしれない、王道大衆小説作家です。
ちなみに、城戸禮の「三四郎シリーズ」とは、ずいぶん前にホームページで書いたとおり(→「今こそ『大暴れ快男児』を読まねばならぬのだ!」)、直球勝負の豪放痛快単純無双快男児小説。
・かけだし三四郎
・旋風三四郎
・竜巻三四郎
・無鉄砲三四郎
・よしきた三四郎
・ぶっ飛ばし三四郎
・つむじ風鉄腕三四郎
などといったタイトルを眺めるだけで、なにやら熱く血潮が煮えたぎってくるわけですが、若山三郎の「お嬢さんシリーズ」も、それに勝るとも劣らぬ、まさに双璧と並び称された(かもしれない)だけのことはあるタイトルがズラリ! なのです。
春陽堂書店のホームページにある「春陽文庫の作家たち」に載ってる一覧をそのまま引用すると‥‥。

 お嬢さんと腕力学生
 お嬢さんは意地っぱり
 お嬢さんは喧嘩好き
 お嬢さんの冒険
 お嬢さんはお目が高い
 お嬢さんは恋愛主義者
 青春会議
 大空に乾杯
 乾杯! 若社長
 ドカンと一発!!
 お嬢さんの求愛作戦
 おこりんぼ大将
 お嬢さんと一等社員
 天国は青春にあり
 男ならやってみろ!!
 お嬢さんごめんあそばせ
 お嬢さんは婚約中
 お嬢さんは江戸っ子娘
 お嬢さんの恋愛修行
 お嬢さんとドラむすこ
 青春へまっしぐら
 青春バンザーイ!
 おてんばお嬢さん
 青春をやりぬこう
 お嬢さん社長
 お嬢さんとちゃめ紳士
 お嬢さんは脱線好き
 お嬢さんに乾杯!
 青春に賭けろ
 恋人はおてんば娘
 青春大作戦
 けんか青春記
 お嬢さん待ってます
 台風お嬢さん
 ちゃっかりお嬢さん
 けとばした青春
 パーフェクト青春
 お嬢さんは適齢期
 青春をぶっ飛ばせ
 結婚への招待状

単純にして明快、カラリサッパリ、力強く逞しく、なおかつ(昭和的な)ユーモアにあふれたタイトルばかりではないか。
ああ、もう、眺めているだけで、めまいが‥‥。

そして、この素晴らしい表題を飾る表紙のイラストも、これまたクラクラするようなものばかり。
こんなときのためにと本棚の奥にしまっておいた作品群を並べてみると‥‥、ええい、どうだどうだ!!

wakayamasaburou.jpg

ああ、もう、たまりません。
思わず、卒倒してしまいそう‥‥。
そして、その内容ときたら、これまた、もう‥‥。
ためしに一冊、「お嬢さんはガンコ者」の表紙の見返しにあるあらすじを見てみると、こんな感じ。

《二十八歳の好青年塩屋省吾は、失業と失恋の痛手にもめげず、新しい職場につきすすんでいった――。それは、彦沢農機社長・彦沢徳蔵つきの自家用車運転手の仕事であった。
 省吾の人がらをみこんだ彦沢社長の期待にこたえて、省吾もガンコ社長によく仕えた。
 ふとした自動車事故で知り合うことになった森戸勝平、朝美の父娘も、彦沢社長に一歩もあとにひかないガンコ者であった。美人娘の朝美に省吾の心はひかれていくが‥‥。
 ガンコ者どうしがまきおこす愛と笑いのこころよい物語――
 お嬢さんシリーズの最新作。読者待望の人気作家若山三郎が軽妙な筆にのせてくりひろげる青春サラリーマン小説の痛快編『お嬢さんはガンコ者』!》

ああ、なんということでしょう!
これを読むだけで、ストーリー展開が丸わかり、といっても過言ではありません。
しかも、それはこの一冊だけではない。
上に列挙した作品すべてが、細部は違えど、ほぼ同様の展開なのです。
まさに、獰猛な熊を相手に敢然と立ち向かった剛勇無双の金太郎をかたどった金太郎飴のごとし!
もちろん、結末はすべてハッピーエンド。どんでん返しもあっと驚く展開もありません。
まさしく、磐石、泰然、安心、安全。
そう、そうなのです。若山三郎の作品には、現代のわれわれが失ってしまったすべてのもの(たとえば、将来に対する根拠のない明るい希望、まっとうに生きていればそこそこ幸せになれるはずという人生に対する安心感、女性に対する幻想、オヤジギャグを素直に笑えるセンスなど)が詰まっているのです。
若山三郎が死んだ今、あらためて彼の作品を読み、ノスタルジーにひたるというのも、またひとつの読書のヨロコビでありましょう。

ということで、
「なんか、ちょっと、あたし、若山三郎読みたくなってきちゃった」
という人は、ぜひ実物を手にとってみてください。
地方の古本屋さんの店頭のワゴンを根気よく探せば、見つけることができるでしょう。
たぶん、1冊20円くらいです。


posted by 清太郎 at 12:22| Comment(4) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月27日

番線印帳

書店業界の謎用語のひとつに「番線」というのがあります。
正確にいうとなるとよくわかんないんだけど、まあようするに、取次から各書店に割り振られた流通用コードのようなものです。
この番線に加えて、店名やら地域名やら何やらよくわかんない番号やらが一緒に記されたスタンプを「番線印」(あるいは書店印とか)といいます。
たとえば、本屋さんが出版社に注文を出すときに、ファックスするスリップに捺したり、出版社から来た営業さんがその場で注文書に捺してもらったり、そんなふうに使われています。

本屋さんの情報が詰まった番線印、ふだんこれを目にしているのは、本屋さんと出版社の人と取次の人くらいです。一般のお客さんには、あまり関係がありません。
まあ、目にふれたところで、四角い枠の中に数字や文字が入っているだけの事務的なハンコですから、味も素っ気もない、つまんないものです。
でも、この番線印、ちょっと手を加えてみると、おもしろいかもしれません。
単に数字と文字を入れるだけじゃなくて、地域の名物の絵を入れるとか、キャラクターをあしらうとか、あるいは数字と文字だけであってもデザインに凝ってみるとか‥‥。
「そんなことして、何になるの」
という書店関係者がいるかもしれないけど、まあ、見ていなさい。
はじめは、そんなのを気にする人は、出版社の人くらいでしょう。
ジジジ‥‥、と届いたファックスに捺してあった番線印に、大仏様の顔があしらってあるのを見つけて、
「へー、珍しいハンコだなー、‥‥おー、朝屋ブックス東大寺前店、なるほどねー、だから大仏様かー」
まあ、だからといって別にどうかなるわけでもなく、
「ふーん‥‥。さて、仕事しよーっと」
と、それだけで終わるかもしれません。
けれど、こうしたイラスト付きのデザイン番線印がポツポツと舞い込むようになると、ある日、ふと思うかもしれない。
「‥‥この番線印集めたら、おもしろいかも」
と。
そう、そうなのです。
一般的に、スタンプとは、人を熱狂させる何かを秘めているものです。
お寺の「御朱印」しかり、鉄道の駅スタンプや観光地の記念スタンプしかり、そしてちょっとマニアックなところでは、郵便局の「風景印」(単なる日付だけの消印じゃなくて、風景入りのかっこいい消印)しかり。
これらのスタンプを集めるために、何千、何万という人が、全国各地をめぐっているのです。帳面にぎっしり捺されたスタンプを眺めては、深夜ひとりほくそえんだりしているのです。
書店業界にもせっかく「番線印」という立派なスタンプがあるんだから、これを使わない手はない。秘蔵の番線印に磨きをかけて、スタンプ界に乗り込んではどうでしょうか。

これまでのシンプルなものに代わって凝りに凝った番線印を新調したら、実務的には、さほど手間ではありません。
本屋さんでレジに立っていると、たまにお客さんが、
「あのー、こちらに番線印、捺してもらえますか」
と、帳面を差し出してくるので、それにポン、と捺印するだけ。
「それだけじゃ、金にならないよー」
などと思ってはいけませんよ。お客さんの多くは、番線印だけ捺してもらうのは気が引けるので、ついでに週刊誌くらいは買ったりするはず。少なからず売上にも貢献します。
しかも、この番線印ファンは、必ずしも従来の顧客と重なるものではないのです。
本が好きで、いつも本屋さんで本を買っています、他にコレクションとかの趣味はありません、なんて人は、番線印がどうなろうと、あまり興味を引かれないはず。
むしろ、ふだん本屋さんで本買ったりしないけど、趣味で鉄道の乗りつぶししてます、あるいは郵便局めぐりしてます、などという鉄ちゃん、郵ちゃんあたりが、
「駅めぐりと鉄道めぐりのついでに、本屋めぐりも」
ということになります。必ずなります。
すなわち、書店業界としては、顧客層の拡大を見込めるのです。
さらに、伸張するネット書店やコンビニとの差別化もはかれるでしょう。

そして何より、地方の小さな書店にとって、起死回生のチャンスになるはず。
駅から離れた、さびれた商店街の一角にある、狭くて小さな、おばあちゃんがひとりだけでやってる、このおばあちゃん死んだら閉店、というような小さな書店。この店で買える本はすべて、駅前の新しいチェーン店で買えます、というような小さな書店。そんなお店にもちゃんと番線があって、番線印があるわけです。もちろん、このお店だけにしかない、唯一無二の番線印です。
そして番線印さえあれば、それを求めて、番線印ファンは必ずやって来ます。
来店して、番線印捺してもらって、ついでに雑誌か文庫本を1冊買っていく。
さらに、そのお店の番線印が、四角ではない、全国でも珍しい五角形の枠の番線印だったりしたら、ファンの間で話題になること必然。鼻息荒く、遠くからはるばる足を運ぶお客さんが絶えないことでしょう。
そうして、ひと通りマニアが一巡して、客足がにぶってきたところで、
「おばあちゃん引退、娘(といってももう還暦)がお店を継ぎました。ついては番線印のデザインも新調します」
ということになれば、そのニュースは瞬く間に番線印ファンの間をかけめぐり、ああ、コレクターの悲しいサガ、どんな辺鄙な場所にあるお店だろうと、再訪しないではいられません。
番線印趣味がなかったら、このお店は確実に、おばあちゃんの代で閉店していたことでしょう。
まさに番線印さまさま。地方書店の未来は、番線印にかかっている、といっても過言ではないのです。

‥‥といいつつ、この番線印集めの趣味が一般化するまでに、そんな個人経営の零細書店のあらかたは潰れちゃってるような気もしないではないけど‥‥。



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2009年09月22日

痴漢冤罪防止ブックカバー

えー、シルバーウィーク真っ只中ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。すっかり更新が滞ってスミマセン。

それはさておき、先週9月14〜18日は、警視庁の痴漢被害防止週間でした。朝のプラットフォームでおまわりさんの姿をいっぱい見かけて、なんだなんだ!? と思ったわけですが、しかしこうして警察を頼りにする以前に、痴漢にウハウハな現場を提供し続けている鉄道会社は真面目に対策を考えるべきだと思います。(もしかしたら鉄道業界と痴漢業界が裏でつながっているのかもしれないけど。)
車内の痴漢については、以前書いた通りです(→「痴漢に間違われないためには」)。痴漢冤罪を防止するためには、本を読んでいるのがいちばんなのです。
だというのに、本業界が痴漢冤罪対策キャンペーンをおこなった、なんて話をちっとも聞きません。今回の痴漢被害防止週間でも、少しも話題になりませんでした。
いたずらに出版不況を嘆いてるひまがあったら、少しくらい行動しなさいよ! と、もういい加減イライラしてきたので、本日、ついにワタクシ自ら立ち上がることにしました。

ということで、ジャジャーン、
「痴漢冤罪防止ブックカバー(男子向け)」
(画像は見本です。ダウンロードはこちらから。

chikan_mのコピー.gif

読んでいる本にこれをつけておけば、
・痴漢に間違われることがない
・これを見た男性が「あっ、そうか、痴漢に間違われないためには本を読めばいいのか!」とひと目でわかる
・「そうか、この人は痴漢冤罪防止キャンペーンのためにがんばってるんだな!」と思われるので、ぎゅうぎゅうの満員電車の中で本を読んでいても、迷惑がられない
という一石三鳥の優れものブックカバーです。
プリントアウトしてお使いください。(A4の用紙に印刷してください。外側の線で折ると新書用、内側の線で折ると文庫用のブックカバーになります。)

女子のかたは、こちらをどうぞ。
「痴漢冤罪防止ブックカバー(女子向け)」
(画像は見本です。ダウンロードはこちらから。

chikan_fのコピー.gif

さあ皆さん、これらのブックカバーの利用を通じて、車内読書をさかんにし、書籍需要を高めましょう。

あ、もちろん、いくらこのブックカバーを使って本を読んでいたとしても、以下のような場合には痴漢と間違われてもしかたがないので、お気をつけください。
・本の中身が、「団地妻ムチムチ大作戦」だった
・本の中身は「カラマーゾフの兄弟」だけど、ズボンとパンツを履いていなかった


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2009年09月03日

読書週間の標語が意味するもの

読書週間の歴史にあって、昨年が大きな転機だったことを以前指摘しました(こちらを参照)。
で、今年はというと、果たして、その路線を踏襲するものだったといえます。
今年の読書週間の標語は、これ。
「思わず夢中になりました」
どうでしょうか。
昨年同様、本にまつわる言葉を排した、つまり読書週間じゃなくとも通用するコピーです。この標語なら、釣り週間でも切手収集週間でも覚醒剤取締り週間でも、何にでも使えるわけです。
ここに、読書週間の方向性はほぼ固まったといっていいでしょう。

このことについて、巷の読書ファンの間で、毀誉褒貶かまびすしいと聞きます。
反対派は、本にまつわる言葉を抜くとはケシカラン、と主張しています。まったく日本男児らしからぬ、正々堂々と勝負せよ、それとも何か、え、本のことを、隠したいと思ってんのか!? 恥ずかしいのか! エッ、コラ!! と、言葉は荒いですが、むしろその心は乙女のごとく繊細。本の力と価値を心から信じている、ロマンチックな理想主義者です。
賛成派は、より現実路線です。もう黙っててもお客さんがくる時代じゃない、正々堂々なんかしてると、売れるものも売れないのだ、むしろ敷居を低く低く低くして、っていうか読書とはわからないようにして、
「思わず夢中にって、何のことかしら? もしかして、もしかして‥‥、ムフフ」
などとうかうかしていると、いつの間にか、
「うわー、読書のことだった」
と絡めとられてしまう、という搦め手戦法にしかわれらが生き残る道はないのです、というのです。

私は、これらどちらの意見にも、くみするものではありません。
むしろ、事態は今や、正々堂々か搦め手か、などといったレベルをはるかに超えたところまで達している、と考えています。
「思わず夢中になりました」
この一見して凡庸かつ何気ない標語には、私の喝破するところ、読書界上層部の壮大な野望が隠されているのです。
どういうことか、説明しましょう。
読書界上層部は、おそらく、以下のようなシナリオを思い描いていると考えられます。
まず、読書週間の標語の文言から、本にまつわる言葉をなくします。現在の段階です。
これが何年も続いて、当たり前のものになったころ、第二段階として、「読書週間」のネーミングを変えます。
「愛書週間」とか何とか、そんな感じにします。
読書も愛書も、まあ見た目そんなに変わらないですから、特に耳目を集めることもないでしょう。
そうしてそのまま、
「素敵な出会いをしてみたい」
とか、
「からだが火照ってしまいます」
とか、
「一晩中むさぼっていたい」
とか、毎年そんな標語を連ねた挙句、最終段階として、愛書週間の「書」の字のほうも取っ払っちゃう。
取っ払っちゃって、どうするか。
読書とは何の関係もない、
「恋愛週間」
にするんです。
日本人は愚かなので、
「あれ? 今気づいたけど、この週間って、昔から恋愛週間だったっけ?」
「なんか違う週間だった気もするんだけど」
「でも、標語は『一晩中むさぼっていたい』だしなあ」
「そうだよね、気のせいだよね。昔から恋愛週間だったよね」
ということになります。
そうです。読書界上層部は、これら三段階の漸進的改革により、読書界を丸ごと恋愛界にシフトしてしまおうとしているのです。

何たる由々しきこと!
と、一読書ファンとしては戦慄せざるをえない事態ではあるのですが、しかし常識的に考えて、この判断は至極妥当なものだといえます。
構造的な出版不況、さらにリーマンショックに端を発する経済危機、デフレスパイラルの懸念、少子化による市場の縮小。こんな時代にあって、従来のような、地道に本をつくって刷って(あるいは電子化して)売る、という業態が限界に来ていることは明らかです。
そうなると、いつまでも本にしがみついているのは愚の骨頂。読書界にとって、ついに、その始まりから共に歩んできた本と決別すべきときが来たのです。まさに変革が、イノベーションが求められているのです。
そして、イノベーションの筋道として考えうる方策が、読書から恋愛へ、という業態の転換に他なりません。
IBMがパソコン販売からソリューションビジネスへと転換したように、また富士フイルムが写真フィルムから医療分野へと事業の基軸を移しつつあるように、読書界も大きく変わらねばならない。変わらねば、生き残れないのです。
そうした背景を鑑みるに、自動車や電機、金融など他の産業に比べて伝統的に読書界が強みとしてきた「恋愛」の分野に経営資源を集中させる、という読書界上層部が企図は、きわめてまっとうな判断といわざるをえません。
おそらく、将来的には、恋愛コンサルティングや恋愛サポート、恋愛システム構築といった恋愛サービスから、さらに恋愛デリバティブ、恋愛先物取引など、次々と市場を創出しつつ、恋愛界を一手に牛耳ろう、といった青図が描かれているのでしょう。(少子高齢化社会における内需拡大をもくろむ政府の後ろ盾があるかもしれません。)
恋愛化に対応できない中小出版社や地方の書店などは、読書界では本を売ってればいいと思っていたらいつの間にか梯子をはずされ、「えー、恋愛? そんなの聞いてないよー」などと騒ぎつつバタバタとつぶれてしまう、ということになるかもしれませんが、一面ではそれは業界の不良資産の一掃を意味するものでもあり、長期的には業界の発展に利することになるでしょう。

かつてブラッドベリは、「華氏四五一度」を通じて、政治的な事由によって本が読めない社会を描きだしました。
しかし、われわれが向かおうとしているのは、経済合理的な理由から、本を読まない社会なのです。(おそらく、誰もが恋愛を謳歌する、それはそれで幸せな社会でしょう。)
今はまだ読書週間の標語くらいにしか、その兆候は見えませんが、しかし、いずれ、たとえば駅前のあゆみブックスの店名が、
「あゆみラブックス」
などになったら、読書ファンとしては、覚悟したほうがいいと思います。


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2009年08月16日

きこりの泉

きこりが泉に落としたのが、斧でよかった。
これが本だったとしたら、たぶん、女神は困ったはずだ。
水面からゆらゆらと本が落ちてくるのを見て、いつものルーチンで対応すればいいかと、
「きこりよ、そなたが落としたのは、この金の本であるか? それともこちらの銀の本であるか?」
などと言おうものなら、
「ちょっと何それ、金の本と銀の本? それって、本の形をした単なる置物じゃないですか。僕が落としたのは、置物じゃなくて本なんです」
と、感謝どころか顰蹙を買うのがオチである。

まあそういわれてみればその通りなので、マニュアル通りにしちゃったあたしってばおばかさん、自分ゲンコツ、ポカン、と、あらためて、
「きこりよ、そなたが落としたのは、この本であるか?」
と、きこりが落としたものとは比べ物にならないような高価な本、えーと、たとえば河出書房新社の池澤夏樹世界文学全集全24巻(あわせて6、7万円くらい)あたりを提示すると、
「ちょっと何それ、僕が読んでた本はそんなんじゃないですから。っていうか、そんなの、あんまり興味ないし」
と、きこりは不貞腐れるだけ。

やだわぁ、なんかめんどくさい客に当たっちゃったかも、と思いつつ、
「きこりよ、そなたが落としたのは、この本であるか?」
と、きこりが落としたくたびれた本の代わりに新品をあげようとすると、
「ちょっと何それ、僕が落としたのは初版本なんですけど。古書価が高いわけじゃないけど、それなりに貴重なんですから。女神様、もしかして、僕のことバカにしてるんですか?」
と、きこりの額にはイライラの気配。

思わずドンヨリ気分になりながら、だってしかたがないじゃない、落としたものをグレードアップして返すのがあたしの仕事なんだから。そのまま返したら、あたし、女神じゃなくて、泉の底に潜んでたただの美女になっちゃうじゃない、とブツブツ言いつつ、それでも顔には輝くような営業スマイルを浮かべて、これなら文句ないでしょ、とばかりに、
「きこりよ、そなたが落としたのは、この本であるか?」
と、きこりが落とした初版本を、それが出版された当時のままの新品の状態にして差し出すと、
「ちょっと何それ、女神様、あんた、なんてことしてくれるんですか。僕が落とした本、著者のサイン本なんですよ、そんな新品にしちゃったら、意味ないじゃないですか。あんた、本のことわかってるの? もしかして、本とか読まないヒト?」
と、きこりの顔はもはや苛立ちから軽蔑へ。

まあいずれにせよ、落とした本の代わりに何を出したところで、最後には、こう言われるに決まっている。
「そんな濡れた本じゃなくて、乾いたのにしてください」

この話の教訓。
本なんか読まないほうが、たぶん不満のない幸せな人生を送れる。


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2009年08月02日

金融魔法小説

「魔法+科学」
のファンタジーというと、
「魔法の世界に科学を持ち込んだ(あるいはその逆)」
といった、たとえば「ドラえもん のび太の魔界大冒険」のような設定か、あるいは、
「魔法と科学のキメラ的世界」
といった感じの、まあRPGでよくあるような設定(剣や弓と並んで、銃などの火器が売ってるとか)がありがちです。
が、いずれにしたところで、こうしたファンタジーの文脈で用いられている「科学」とは、自然科学というより応用科学、それも機械工学の分野に偏っているような気がします。

科学の裾野ははるかに広大です。物理学も生物学も天文学も科学。
だから、「魔法+科学」のファンタジーには、もっとバラエティがあっていいはずです。
なのに、機械工学以外の科学と魔法の組み合わせ、といわれると‥‥、うーん、何かあったっけ。今パッと思いつくのは、ファンタジーじゃないけど(っていうか小説でもないけど)、山本義隆「磁力と重力の発見」(みすず書房)くらい。(離れたところにある物体に作用する磁力や重力は、当初はむしろ魔術的なものだったのです。)
つまり、従来の「魔法+科学」系ファンタジーは、その点において公正を欠いていたといわざるを得ないのです。
まあ、だからといって、安直に魔法と科学をくっつければいいというものではないかもしれません。たとえば、数学と魔法を融合した痛快数学ファンタジー、
「フェルマーの最終定理を魔法で解決! テケレッツノパーで、ほら、あっという間に証明終わり〜!」
ということになったら、これ以上物語を広げるのは困難です。
では、機械工学以外なら一体どんな分野で魔法ファンタジーが可能なのか。
ということでいろいろ考えたのですが(というか、最近、今野浩「すべて僕に任せてください!―東工大モーレツ助教授の悲劇」を読んだので思いついたネタなんだけど)、とりあえず「金融工学」ではどうか。「工学」というけど、まあ応用数学です。これを魔法とうまく組み合わせられないか。
ということで‥‥。

19歳のマイケルは、マサチューセッツ工科大学の学生にして、金融工学の天才。ある日彼は交通事故に巻き込まれ‥‥、たと思ったら、ふと気がつくとなぜか魔法が支配する異世界にいるのだった(いい加減な設定です)。
途方にくれたマイケルを保護してくれたのは、大手証券会社を営むモブソン家だった。魔法の世界にも、証券会社も金融もあるのだ。
おお、証券会社、これなら自分にも手伝いができる、と喜んだマイケルだが、しかし‥‥。
「ちょ、ちょっと、こんなデリバティブ、ありえないでしょ!!」
リスクも信用も確率も魔法でコントロールできるこの世界では、マイケルの常識は通用しなかった。
いや、それどころか、よく見るとお店で売ってる商品は、値段がバラバラ。
「ちょ、ちょっと、需要と供給の関係は、どうなってんの!!」
混乱するマイケルに対して、モブソン氏の娘メアリは、こともなげに言う。
「需要と供給? 何おかしなこと言ってるの。供給が多すぎれば神様が買ってくれるし、少なすぎれば神様が売ってくれるに決まってるじゃない」
ああ、なんと、この世界の市場を支配するのは、「神の見えざる手」ではなくて、
「神の見える手」
だったのだ!
などといってるうちに、その神様の介入によって、モブソン家は倒産の危機に!
恩義のあるモブソン氏のため、そして美しいメアリのために、マイケルは立ち上がった!
魔法が幅を利かせる世界で、頼みのコンピュータもなし、しかも相手は神様。この三重苦に対して、マイケルの武器は、最先端の金融工学理論、そしてフィナンシャルエンジニアとしての超人的な頭脳のみ。
マイケルは果たしてモブソン家の危機を救えるのか!?
現代金融工学は魔法に打ち勝てるのか!?
全能の神様を出し抜くことができるのか!?
そしてマイケルの恋の行方は!?
すべてが終わったとき、マイケルが選んだ道とは!?
‥‥という感じで、それなりに物語になりそうなんだけど、しかしリーマンショック以前ならともかく、金融工学悪玉論が横行する今では、あんまり売れそうにないよね‥‥。
この案、ダメでした。

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2009年07月20日

燃える! 読書マンガ

少年とは純粋なものなので、「キャプテン翼」を読んではサッカーがしたくなり、「SLAM DUNK」を読んではバスケ部に入りたくなり、「ヒカルの碁」を読んでは碁を打ちたくなり、「テニスの王子様」を読んではテニススクールに通いたがってきました。
現今におけるこうした競技の興隆の何割かは、マンガによるところが大きいといえます。少年に対するマンガの影響とは、かくも甚大なものなのです。
少子化にともなう競技人口の減少を危惧する各種競技団体は、マンガの題材に取り上げてもらおうと、日夜「少年ジャンプ」編集部に足を運び、盆暮れには付け届けをし、接待し、あるいは政治家を通じて圧力をかけ、脅し、なだめ、すかしているといわれています。
しかし、そんな影響力をもちながら、これまで少年マンガは、自らの足元に対してあまりに無自覚だったのではないでしょうか。他の業界に貢献している暇があったら、むしろ自らが拠って立つ出版業界を振興すべきではなかったのか。
若者の本離れをどうしよう、出版不況どうしよう、などとオロオロしてないで、とにもかくにも、「SLAM DUNK」や「テニスの王子様」のような熱く燃える、
「読書マンガ」
をつくるべきなのではないか。
これまで数々の作品で培ってきたノウハウを用いれば、少年マンガのプロにとって、難しいものではないはずです。
たとえば‥‥。

四月の初め。玉南高校3年生の本田ヨミが、学校に向かうバスの中で本を読んでいると、隣に新入生らしい男子が立つ。
本を読みつつ、ちらと横目で見るともなしに見ていると、どうやら彼、聴いていたiPodの充電がいきなり切れてしまったらしい。で、暇つぶしにケータイをいじろうかとしたけど、どうやら家に忘れてきてしまったようだ。
プッ、ドジな子。
みじめに落ち込んでいる彼が、ふとかわいそうになったので、ヨミはカバンの中から1冊の本を取り出した。(今読んでる本と次に読む本、いつでも2冊持ってるのは、文藝少女のたしなみです。)
「ねえキミ、よかったら、これ、読む?」
「えっ‥‥、あ、ありがとうございます!」
少し頬を赤らめながら、本を受け取る少年。
ふふ、よっぽど手持ち無沙汰だったのね、と手元の本に目を戻したヨミは、たいへんなことに気がついた!
彼女が今読んでいるのは小杉天外「魔風恋風」の上巻。ということは、少年に手渡した「次に読む本」は、その下巻だった!
悪いことしちゃったわ‥‥、とわびようとしたヨミは、思わず瞠目した!
下巻であるにもかかわらず、少年は平気な顔をして読んでいたのだ!
(も、もしや、この子‥‥)
と、いきなりバスが急ブレーキ!
もんどりうって倒れる、ヨミも少年。
そのとき、倒れながらヨミが目にしたものは‥‥。
バスの車内で回転しながら、それでも本から目を離さない少年の姿だった!
しかも、
(あの体勢は‥‥、ま、まさか‥‥!)
仰け反って宙を舞いつつ、典雅に本を読むその姿は、
(もしや、あれは、幻の‥‥、“飛天円舞の読み”‥‥!?)
驚いたヨミは、少年に問いただす。
「キミ、いったい何者!? その読法は、どこで覚えたの!?」
ところが少年は、きょとんとした顔で、
「えっ、ドクホウ? 何のこと?」
どうやら、彼は読書に関してはまったくの素人、“飛天円舞の読み”は、彼の桁外れの集中力と運動能力がなせる偶然だったらしい‥‥。
でも‥‥、
(この子がいれば、全国も、夢じゃない‥‥)
ヨミは、少年に迫る。
「どう、キミ、うちの部に入らない?」
実は彼女、玉南高校読道部の部長だったのだ!
「読道部? それって、文芸部のことですか? 俺、部活は運動部系にするつもりなんで‥‥」
「だーいじょうぶ、うちも運動部だから。読道は、立派な武道なんだから!」
こうして、何やらわけもわからぬままに主人公・読谷理人(りーど、と読みます)は読道部に入部することになる。
だが、部室に連れてこられた理人を待っていたのは、部員たちからの冷たい仕打ちだった。
「フッ、素人が‥‥」
と冷笑するのは、二宮金吾。二宮金次郎の子孫である彼は、薪を割りながら本から目を離さなかった金次郎が編み出したという二宮流読法の達人である。
「‥‥」
理人を無視して本のページを撫でているのは、波那輪チホ。彼女は、わずか数ミクロンのインクの厚み、あるいは活字による凹みを指先で感知し読書をする、盲目の天才美少女読書家だ。
だが、そんな彼らも、厳しいトレーニング(本を読みながら腕立て伏せ、懸垂、ジョギング、スパーリングなど)に音を上げずについてくる理人を、少しずつ見直すようになるのだった。
一方、当初は基本的な本の持ち方(「左手は添えるだけ」)すらままならなかった理人も、次第に読書の楽しみを知るようになっていった‥‥。
そして迎えた、読道大会関東予選。
初の予選突破を目指す玉南高校の前に、強豪たちが立ちはだかる!
特訓の成果は!?
予選を勝ち抜き、天下一読道大会への出場を果たせるのか!?
本田ヨミの奇策とは!?
理人は再び“飛天円舞の読み”を繰り出すことができるのか!?
徐々に明らかになっていく金吾の悲しい過去、さらに二宮一族との因縁とは!?
チホのウブな恋の行方は!?
そして、激しい戦いの果てに、理人が見たものとは‥‥!?

‥‥と、こんな感じのマンガなら、純粋な少年が興奮し、
「うわあ、なんだかオレ、本読みたくなってきた!」
となること、間違いなし(まあ、もうちょっとマシな設定のほうがいいだろうけど)。
読書人口急増、作中に出てきた作品の売上も急増、「若者の活字離れ」ともサヨナラです。
(ただし、小学生男子の間で、
「飛天円舞の読み!」
とか、
「秘技・円月読法!」
とか、変な格好で教科書の朗読をすることが流行るかもしれないけど、それには目を瞑りましょう。)
あとはただ一点、、
「読書で、どうやって戦うか」
ということだけ解決すれば、すぐにでもマンガ化できるはずです。

ちなみに、少年に対してはこうした読書マンガで読書熱を煽るとして、少女に対しては、
「本を読めば、キレイになる!」
「読書で恋がかなう!」
とか何とか、そっちの方面から攻めればいいと思います。

posted by 清太郎 at 06:25| Comment(10) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月11日

ノルウェイに森がない

「1Q84」が売れているようですね。
すでに200万部突破だとか。出版不況も何のその、さすが村上春樹です。
その村上春樹、人気なのは日本でだけじゃありません。この前はイスラエルで賞もらってましたが、もっと近い国、中国でも大人気らしいです。
とくに「ノルウェイの森」は、それが中国の現代文学あるいは若者の文化に与えた影響ははかりしれないのだとか。今でも、たとえば川上弘美の「センセイの鞄」のような日本の人気作品が翻訳出版されるときに、
「21世紀の『ノルウェイの森』!」
なんていうキャッチコピーがつけられるそうです。

ということを、「図書館情報メディア研究」という雑誌に載ってた王海藍「中国における「村上春樹熱」とは何であったのか : 2008年・3000人の中国人学生への調査から」という論文を読んで、初めて知りました。へー。
で、同論文にあったんだけど、村上春樹人気があまりにすごいので、2004年には「ノルウェイの森」の続編も出てしまったのだとか。タイトルは、
「ノルウェイに森がない」
作者は村上春樹本人ではなく、彼の“秘密の愛人”、福原愛姫。(なんじゃ、このベタなペンネームは。)
語り手のワタナベをはじめ「ノルウェイの森」の登場人物がそのまま出てきて、中国の春樹ファンは、「ついに続編が!!」と騒然としたらしいです。

などという話を聞くと、今の日本人は、
「中国ってホントに‥‥」
「さすが、『ハリー・ポッターと中国帝国』を出した国wwwww」
と冷笑侮蔑しがちなんだけど、いや、でも、考えようによっては、これはとってもステキなことです。
まあ多少正統性に問題があるとはいえ、このとき中国の春樹ファンは、日本の春樹ファンがだれひとりとして読んだことのなかった「ノルウェイの森の続編」を読めたのです。(王海藍によると、プロットもしっかりしてたらしい。)
なんともうらやましい話ではありませんか。
もしかしたら現在の中国では、たとえば、日本では作者が死んで未完が確定してしまった「グイン・サーガ」の続きが読めるかもしれない。(個人的には、どっちかというと、グインよりも「魔剣」の続きを読みたいのだけど。)
あるいは作者が飽きたのか日本では続きが出ていない田中芳樹の「創竜伝」などの続きが出てるかもしれない。
芥川龍之介「邪宗門」や「大菩薩峠」やゴーゴリ「死せる魂」やフロベール「ブヴァールとペキュシェ」など錚々たる未完作品(と日本では考えられている作品)が、ちゃんとおしまいまで読めるかもしれない。
さらに、「SLAM DUNK」の1年後、赤木や三井が抜けた穴を新入生のリー君(中国人留学生)が埋めて、ついに湘北バスケ部は全国を制覇してるかもしれない。「HUNTER x HUNTER」のアリ編はとっくの昔に終わっていて、今はクラピカと旅団の最終決戦終盤戦になっているかもしれない。
うーむ、考えれば考えるほどうらやましい中国出版界の続編事情。
そんなわけで、ここでは、あったらうれしい続編をいくつか考えてみました。

北村薫「スキップ」の続編。
「リピート」
高校2年生からいきなり42歳へとスキップしてしまったわたし一ノ瀬真理子。夫と17歳の娘がいる高校の国語教師・桜木真理子としての生活に次第に慣れてきて半年たった9月のこと。大雨で運動会の後半が中止になった夕方、わたしは家の八畳間で一人、レコードをかけ目を閉じた。目覚めるとわたしは、72歳になっていた! わたしは一体どうなってしまったのか‥‥。でも、わたしは進む。心が体を歩ませる。顔をあげ、『わたし』を生きていく‥‥。老年文学に爽やかな息吹を吹き込む、感動長編!

「博士の愛した数式」の続編。
「ルートが恋した図形」
今や数学教師となったルート。ある日、ちょっとした交通事故の翌朝、ふと目覚めると世界が一変していた。なぜか、身の回りのものが何なのか、わからないのだ。高次脳機能障害による失認。それにより、ベッドもイスも時計も野球帽も、ノートも鉛筆も、そして三角も円も、目には見えていても、それが何なのか認識できないのだ。絶望に沈むルート‥‥。
でも、彼には、博士との思い出があった。身の回りのすべてのものにメモを貼り付けていた博士に習って、すべてのものに付箋を貼って対処していこうとするルート。彼を支える妻と息子、そして母。再び数学教師として教壇に立てる日はやってくるのか。ひたむきなルートの姿が、癒しと感動を呼ぶ!

「剣客商売」最終話。
「秋風の賦」
90を過ぎたある日、病に倒れた小兵衛。おりしも、かつてない巨悪が江戸を襲おうとしていた! 大治郎は単身、小兵衛の力を借りることなく、難敵を打ち破る。
「みたろ、父上。勝ったんだよ、ぼく、ひとりで。もう安心して逝けるだろ、父上」
思い残すところ無く、安らかな笑顔で逝く小兵衛。
「父上が逝ったら、部屋ががらんとしちゃったよ。でも‥‥すぐに慣れると思う。だから‥‥、心配するなよ 父上」

「走れメロス」の続編。
「走れディオニス」
メロスが走ったあの日から、25年の歳月が流れた。セリヌンティウスは若くして死んだが、かつての暴君、今や名君の誉れ高いディオニスは、臣下メロスと親友以上の関係を続けていた。だがある日、侵入した隣国の王により、メロスが捕われてしまう! 三日後の日没までに刑場にたどりつかねば、メロスは処刑されるというのだ!
かつてメロスを走らせたディオニスが、こんどはそのメロスのために、走る、走る! 暴河を渡り、山賊を打ち倒し、老骨に鞭打ち、一心にひた走る! そしてその先に‥‥!
13億の同志諸君、涙せよ!

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2009年06月24日

【太宰治生誕百年記念】太宰治フィギュア

フィギュアといえば、数年前までは一部のマニアのものでした
フィギュアと聞いて思い浮かぶのは、綾波レイ1/8スケールとか、セーラーマーキュリー1/12スケールとか、そちら方面ばかり。
部屋にフィギュアが飾ってあるなんて女子にバレようものなら、変質者扱いされたものだといいます。
それが今や、フィギュアなんて食玩として当たり前のものになり、女子も喜ぶかわいいフィギュアが巷間にあふれ、たとえ綾波レイが机の上に載っているのが見つかっても、変質者扱いされることは少なくなりました。マンガ単行本の初版のおまけなどにフィギュアがついてることも、珍しくありません。

せっかくそんな時代になったんですから、われらが小説界も、これに便乗しない手はありませんよね。
なんたって、今年は太宰治生誕百年なんです。
先日、太宰の故郷である五所川原市(旧金木村)で、マント姿の太宰の銅像が完成した、なんてことがニュースになってましたが、銅像だなんて、なんというアナクロ。誰がこんなの見たいと思うの。田舎役場の貧困企画とそしられてもしかたがないでしょう。
銅像なんて建てる予算があったら、フィギュアをつくればよかったのです。

太宰治フィギュア。1個300円(税込)。
写真でお馴染みの頬杖をついた太宰や、バー・ルパンのスツールに座る洋装の太宰など、あこがれの太宰治を手の平サイズで立体化!
‥‥と、それだけではぜんぜんおもしろくありませんから、太宰治の小説作品から、登場人物を立体化します。
たとえば‥‥。
・「人間失格」の主人公(小畑健バージョン)
・「カチカチ山」のさえない中年男タヌキ
・同じく「カチカチ山」の小娘ウサギ
・「右大臣実朝」のニヒルな実朝
・「駆込み訴え」のユダ
・「斜陽」冒頭のスウプをすっと吸うお母さま
・「津軽」ラストの桜の花をむしるたけ
・「満願」の白いパラソルをくるくるっと回す若奥さん
・セーラー服の「女生徒」
・入浴中の「女生徒」
・「富嶽百景」の放屁なさる井伏鱒二

1個300円のお手軽価格ですが、ガシャポンだったり箱に入ってたりで、開けてみるまで何が当たるかわかりません。
「走れメロス」の、
・刑場に走りこんだ全裸メロス(汗みずくで、頬は上気)
・縄を打たれて吊り上げられるセリヌンティウス
このペアをそろえるまで、
「1万円費やしました」
という腐女子のかたも出てくるに違いないでしょう。

そして、いちばんのレアアイテムが、「美少女」に登場する、
・コーヒー茶碗一ぱいになるくらいのゆたかな乳房を持つ全裸入浴美少女
であることに、異論はないでしょう。
これをゲットするために何箱も大人買いするコアなダザイストも少なくないはず。
従来の太宰グッズでは考えられないような売り上げが見込めます。
今からでも遅くはないので、太宰治生誕百年の関係者の皆さんには、ぜひ検討してもらいたいものです。

posted by 清太郎 at 19:07| Comment(5) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月14日

算数の文章題を楽しむ

小学生のころ、
「算数の文章題が苦手だった」
という人は少なくないでしょう。
(11+23)×(58+13−21)
といった式だけの問題ならバリバリ解けたけど、文章題となると途端に、
「萎えちゃったんです」
「わけわからなくなっちゃったんです」
「気分が悪くなっちゃったんです」
という人。
大人になった今でも、文章題なんて思い出したくもない、ああやだやだ、
「幼稚園に通ってる娘が、いずれ小学校5、6年生になって、ある日いきなり算数の問題集を手にして『ねえパパ、つるかめ算がわかんないの。ちょっと教えて』ということになったらと思うと、今から心配で心配で‥‥」
というお父さんも、いるかもしれません。(でもだいじょうぶ、小学校5、6年生になった娘さんは、もうパパなんかにものを尋ねたりはしません。口もきいてくれません。)
翻訳家の岸本佐知子も、エッセイ集『気になる部分』(白水社)の中で、こう書いています。

《私も最初から数学がまるでだめだったわけではない。すくなくとも「さんすう」の段階までは、まだ何とか息があった。テストでも、単純な計算問題の部分はむしろ解くのが楽しかった。が、これが設問形式となると、もういけなかった。》

とはいえ、大人になって多少強くなった今ならば、文章題は案外おそるべきものではないかもしれません。
いつまでも傷を抱えたままではしかたがない。
思い切って、幼き日のトラウマと向き合ってもいいのではないでしょうか。

そうしてあらためて文章題を見てみると、そのシンプルさに気づかされます。
余計な修辞を省き、最小限の情報だけを提供する、簡潔にして平明な文章。
そのシンプルさゆえに、小学生だった岸本佐知子嬢は、思わず妄想してしまったものでした。同じエッセイで、先の一節に続けて、彼女はこう書いています。

《たとえば「ある人が、くだもの屋さんで20円のリンゴを7こ買おうとしたら、10円たりませんでした。その人はいくら持っていたでしょうか」というような問題があったとすると、私はその“ある人”のことがひどく気の毒になりはじめるのである。この人はもしかして貧乏なのだろうか。家にそれしかお金がなかったのだろうか。リンゴが7個買えないとわかった時に“ある人”が受けたであろう衝撃と悲しみは、いかばかりだったであろうか――。どうかすると、同情が淡い恋心に変わってしまうことさえあり、(“ある人”ったら、うふふ……)などと思いを馳せているうちに、「はい、鉛筆おいてー」という先生の声が響きわたってしまうのだった。》

そう、ここに、文章題に向き合うためのヒントがあります。
算数以外の要素を極力排したシンプルな文章。
だからこそ文章題には、
「書かれていないこと」
を想像する余地がたっぷり残されているのです。
文章題には、無限の可能性が秘められている、といってもいいでしょう。
文章題とは、もしかしたら、驚嘆すべき波乱万丈のドラマの、そのごく一面を算数的に切り取っただけなのかもしれないのです。
そして、もはや小学生ではない皆さん、制限時間内に問題を解く必要のない皆さんならば、書かれざる文章題のディテールを心置きなく味わうことができるはずです。
さあ、めくるめく文章題の世界へ‥‥。

たとえば、さっきの岸本嬢の問題。

「ある人が、くだもの屋さんで20円のリンゴを7こ買おうとしたら、10円たりませんでした。その人はいくら持っていたでしょうか」

彼女が想像したように、この“ある人”は貧乏なのかもしれません。
貧乏なうえに、実は“ある人”は16歳くらいのセーラー服美少女だった、というのもいいかもしれません。
そうして、くだもの屋さんはとんでもないヒヒオヤジで、10円足りなくて頬を赤らめて戸惑っているセーラー服16歳美少女の“ある人”に向かって、
「そうさなあ、まあ10円ばかり、まけてやってもいいんだがなあ‥‥、そのかわり‥‥ゲヒヒ、なあ、わかるだろう、お嬢さん?」
といいながら、“ある人”のむき出しの太ももへと、ねっとりとしたなめくじのような視線を這わせたのでした‥‥、とか。

ただ、これではちょっとありきたりすぎるので、私としては、もう少し意外性のある設定をおすすめしたいところです。
たとえば、こんな感じ。

「ある人が、くだもの屋さんで20円のリンゴを7こ買おうとしたら、10円たりませんでした。その人はいくら持っていたでしょうか。ちなみに、ある人は全裸でした。」

どうでしょうか。
何気ない日常シーンが一転、にわかに手に汗握る状況へと変貌するはずです。
「“ある人”は露出マニアなのかしら」
「全裸で130円を握りしめていたのかしら」
「“ある人”は、男子なのか女子なのか」
「この“ある人”に対して、くだもの屋さんはどのように応対したのか」
「意外にも、くだもの屋さんも全裸だったりして」
ここに至って我々は、文章題に内包された危険なまでの前衛性、平明さの仮面に覆われた欲望や暴力を、意識しないではいられないのです。

同様に、どんどん全裸にしていってみましょう。
「えんそくにこどもが76にんと、せんせい12にんいきます。ぜんぶでなんにんでしょうか。ちなみに、ぜんいん全裸です。」
「れいこさんは家から学校までの道のりの3分の1を歩きました。残りは400mあります。家から学校までは、何mあるでしょう。ちなみに、れいこさんは全裸です。」
「周囲の長さが1000mの池をケンタくんとアオイさんが反対方向に進みます。ケンタくんが分速120m、アオイさんが分速80mで進むと、2人は何分後に出会いますか。ちなみに、ふたりとも全裸です。」

もちろん、全裸ばかりでは食傷気味ですから、ほかにも、
「ちなみに、Aさんは女の子のかっこうをしていますが、実は男の子です。」
「ちなみに、太郎くんはたかしくんのことが好きでした。」
「ちなみに、ユキオくんはクニコさんの本当のお兄さんではありません。」
このように、ちょっとした工夫で、文章題はどんどん楽しくなることがわかります。

かつて、見るのも苦痛だったあの文章題。
あの文章題に、こうしたわずか数十字の一文と、ちょっとしたイラストがついていれば、もしかしたら算数嫌いにならなかったかも、と思う人もいるかもしれません。
算数嫌いにならず、理系に進んで、今ごろは研究者かエンジニアになっていたかも。こんなニートじゃなくて‥‥。



少子化が進む現在、参考書・問題集を扱う出版社は、ますます小さくなるパイを奪い合うばかりという状況です。
新たな読者層を獲得するためにも、以上のことをヒントに、問題集やドリルのコンセプトを見直してはいかがでしょうか。
たとえば、
「絵でわかる文章題(小学四年生)」
文章題1問ごとにイラストを付けた、ビジュアル満載の問題集にするのです。
算数が苦手な子どもでも、興味を持ってページを開き、文章題に取り組むことができるでしょう。
そればかりか、お父さんや一部のお母さん、いや、子どものいないおにいさん・おねえさんが読んでも楽しめる内容になること、間違いなし。
っていうか、むしろ、子どもが見ちゃいけない本になりそうですが‥‥。
posted by 清太郎 at 08:56| Comment(10) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月03日

国営メイド喫茶

2009年度補正予算案に計上されている「国立メディア芸術総合センター(仮称)」が、
「国営漫画喫茶」
などと呼ばれて批判されてましたね。(民業を圧迫できるほどの国営漫画喫茶なんてものをつくれるんだったらつくってみろ、と思わないでもないけど。)
いっそのこと大幅に規模を縮小したうえで、マンガ喫茶ではなくて、
「国営メイド喫茶」
にしてしまえば、それなりの支持が得られると思うのですが、どうでしょうか。

何しろ、国営ですからね、ここで働いているメイドさんは、当然、国家公務員ということになります。(業務は民間に委託とか、スタッフはバイトとかはダメです。)
でもって、メイドで国家公務員、ということなると、それだけで何やら旧ソ連的というか冷戦的というかアニメやラノベにありがちな設定的というか、
「外見はかわいらしいメイドさんだけど、実は秘密の工作員で‥‥」
「こう見えて、実は地獄の選抜試験と悪夢のような猛訓練(福井晴敏の小説に出てくるような)を受けていて‥‥」
「スカートをこう、たぐり上げると、太もものところに拳銃が‥‥」
「胸の谷間にはナイフが‥‥」
というような独特の陰影が立ちこめてくるわけです。
でもって、国営の施設である以上、政治家の人も秘密の会合の際には、料亭なんかじゃなくて、この国営メイド喫茶の奥の個室なんかを使うんでしょ、ということになる。
当然、政治家でメイドで秘密の会合とくれば、
「政治家のヒヒオヤジが、無垢なメイド相手にあんなことを‥‥」
「こんなことも‥‥」
ということになり、いっそう事態は濃厚になってきます。
でもって、そうなると当然、海外の諜報機関も注目せざるをえませんよね。
「外見はかわらしいメイドさんだけど、実は北から送り込まれた‥‥」
「政治家のヒヒオヤジをトリコにする四十八手の秘技を身につけ‥‥」
ということになるのは時間の問題です。

いや、実際にそんなことにならなくてもいいのです。
「国営メイド喫茶」
という響きには、それだけのイメージを喚起させるだけの力がある、ということなのです。
この国営メイド喫茶の内情が、実際は一から十まですべて民間の一般的なメイド喫茶と同じだとしても、かまいません。
たとえそうだったところで、人員が国家公務員であるという担保がある以上、
「メイドさんというのは仮の姿で‥‥」
という可能性を否定し尽くすことはできない。公的にどんな発表がなされようと、ここで働くメイドさんたちは、
「実はこう見えて国家の秘密諜報機関の一員かもしれず、夜は政治家のヒヒオヤジ相手にいかがわしいサービスをしているかもしれず、しかも実は某国のスパイかもしれないメイド」
なのです。
入店したお客さんは、
「ぼ、ぼくの目の前の、こ、この笑顔のかわいいメイドさんが、も、もしかしたら、もしかしたら‥‥」
と、次々鼻血、続々卒倒。
となると、日本中でここだけにしかいない、そんな唯一無二のメイドさんたちを目当てに、国内外からお客さんが殺到するは必至。景気対策にはならずとも、国の会計に幾ばくかのプラスをもたらすに違いないと思うのですが、どうでしょう。
きたる衆議院選挙に向けて、ぜひとも検討してもらいたいと思います。

ただ、もう予算通しちゃったんだし、今さらそんなこといわれても困る、とりあえず4階建てくらいの建物をつくらなきゃゼネコンとかそっち方面に示しがつかん、というのであれば、そうですね、1階はメイド喫茶にして、2階は執事喫茶(国家公務員の執事!)、3階は耳かきカフェ、4階は‥‥、えーと、とりあえず、この前考えた「読み聞かせカフェ」にでもしておけばいいと思います。


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2009年05月26日

本チラ

えー、不況だろうと経済危機だろうと、そんなことに関係なく、ずいぶん前からひたすら退潮するばかりのわれらが本業界。
何とか盛り上げるすべはないかと、このブログではたびたび建設的な提言をおこなってきたわけでありますが、このほど、正攻法ではなく搦め手から攻めてみる、こんな方策を考えてみたであります。
ずばり、
「本チラ」
を導入する。

などといっても意味不明でありましょうが、簡単にいうと、
「パンチラ」
これの本バージョンを創造してはどうか、ということであります。
小生思うに、こんにちのパンツ業界の興隆は、ひとえにパンチラがもたらしたものであるといって過言ではないのであります。
仮にパンチラなかりせば、女子のパンツがチラリと見えたところで別に何の感慨もわかないとしたら、わが国人口の半分を占める男子が、パンツに関心を持つことは金輪際なかったでありましょう。
パンチラがあらばこそ、パンツは、女子にも男子にも支持される存在となりえたのであります。

ところで、チラリと見えるといえば、われらが本もまた、同様であります。
電車の中で隣に座った人が読んでいる本が気になること、あるいは前に立った人が開いている本の中身がチラリと目に入ることは、よくあることでありましょう。
そんなときに、われわれは、どう感じるか。
「ヘー、この人、『ユダヤ警官同盟』読んでるのか、ふーん」
従来は、この程度で終わっていたわけであります。

たとえば昨晩、電車の中で、小生の隣に座った女子が文庫本を開いておりましたので、ちょっと気になってチラリと一瞥すると、
「コマドリさん」
という固有名詞が目に入ったのであります。小生、ハテ、何の小説だろうと思い、帰宅してからググってみたところ、朝倉かすみの短編集『肝、焼ける』の「コマドリさんのこと」らしいことが判明したのであります。
小生は、
「あー、そういえばこの人の『田村はまだか』を図書館で予約中だった」
と思い、それ以上、何の興奮も感動も感じなかったのでありますが、しかしながら、仮にここで「本チラ」が導入されていたら、どうなっていたでありましょうか。

小生はおそらく、隣の女子が手にする本の中身が見えるか見えないか、目を血走らせ鼻息を荒げ、ハアハアしながら、しかもそれを決して気取られぬよう、蝶のようにさり気なく、しかし蜂のごとく素早く盗み見し、チラリと一瞬、その白い紙面がかいま見えたことを大いに喜び、感激し、本の神様に感謝し、こぶしで小さくガッツポーズ、加えて、嗚呼何たる僥倖か、ページを埋める文字の中に「コマドリさん」などという特徴的な言葉を見出し、ぐおおおお、こ、これで、その本が何か同定も可能だ! この女子が何を読んでるか、わ、わ、わかってしまうんじゃあゴルァ!! と息は上がり身体は震え、血潮熱くたぎって、もうガマンならん、フウフウ、と興奮は絶頂に達し、帰宅してとるものもとりあえずパソコンを立ち上げて「コマドリさん」で検索、そしてそのコマドリさんが出てくる作品が、「40歳をすぎても処女のまま王子様との出会いを待っているコマドリさんの物語」であることを知って、
「ぐわわわ、な、何てことだ、それを初めから知っていれば、あの現場で、リアルタイムに、さらにさらにさらに大興奮できたのにいいいぃ、俺のバカバカバカ!」
と地団駄踏んで、「読書量がぜんぜん足らんのだ、もっと本読まねば!」と、いっそう本を読むことを誓ったはず、なのであります。
そうなのであります。本を読んでいてこそ、本チラをさらに楽しめる。その必然の帰結として、人々はいやがうえにも本を読むようになるでありましょう。

もちろん、導入といっても、本チラは制度やモノではない、嗜好であり感覚なのでありますから、一朝一夕のうちにできるものではありますまい。
とりあえず電車の中などではこっそりと、角度にして30度ほどだけ開いて本を読むようにしてはどうでありましょうか。
そうすれば、やがて、他人の読んでいる本がチラリと見えるということが少なくなっていくのであります。
そして、物事というのは、隠されれば隠されるほど、見たくなるもの。また隠せば隠すほど、ふと見られてしまったときに恥ずかしく感じるものであります。
いつしか、他人が何を読んでいるのか見たい、知りたい、という偏執的な欲望が人々の間に芽生え、ついには本チラに対する、歴史上かつてなかったフェティッシュな感覚が誕生することでありましょう。

そうなると、本チラをめぐる人々の欲望はエスカレートするばかり。
ネット上には、
「本チラ画像掲示板」
「本チラ動画サイト」
などが氾濫するようになり、男子高校生が、
「今朝のバスの中で、俺、テニス部の先輩のタカダさんの本チラを見てしまった! しかも、中身は、け、『剣客商売』だったんだぜ!」
「うおおおおぉー、すっげえぇ!」
「でもって、こっそり、‥‥写メ撮っちゃった」
「ぐぎゃおー、見せて見せて!」
「ほれ」
「ぶふっ、あ、鼻血鼻血」
ということになり、教室の片隅でコジマさんがこっそり文庫本を読んでいると、向こうからダダダダと駆けてきたハナヤマくんが通りすがりにヒョイと手を伸ばし本を開いて一瞥、
「見ーちゃった、見ーちゃった、今日のコジマの本は、『いちご同盟』」
「いやぁん、ハナヤマくんのえっちぃ」
ということになり、
「電子書籍じゃ、本チラが見られん」
という理由から紙媒体が見直され、
「ちょっと黄ばんだ古本の本チラよりも、やっぱり新刊の純白の本チラのほうがいい」
という理由から新刊本が注目され、
「いや、でも、古本の、ちょっと染みがついてたりする本の本チラは、それはそれでたまらんぜよ」
というマニアックな反論も巻き起こり、なんやかんやで本業界は盛り上がり、息を吹き返すことができると思うのでありますが、どうでしょ?

以上の提言に賛同する、本業界の未来を憂う女子とイケメン男子は、さっそく今日から、
・公共の場で本を読むときは、中身が見えないようにこっそり読む
・読んでいる本の中身を他人(とくに異性)に見られたら、頬を赤らめて恥ずかしそうに本を閉じる
この2点を実行するよう、心がけるようにするであります。

まあ、ひょっとしたら、
「本チラ見られるのイヤだから、あたし、もう電子書籍しか読まない!」
「っていうか、本読まないことにした!」
ということになるかもしれませんが‥‥。
posted by 清太郎 at 21:49| Comment(3) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月10日

学術雑誌の連載マンガ

先日の「百花争鳴! 女子百家」、連載するなら「歴史街道」あたりかと思ったのだけど、「史学雑誌」などでもいいかもしれません。
考えてみると、論文を掲載する「史学雑誌」のようないわゆる学術雑誌に、連載マンガってありませんよね。
当然といえば当然なんだけど、しかし今やJapanのmangaがcoolだmoeだ、などと欧米で評価されている時代なのです。マンガのひとつやふたつ、連載していたほうが、海外から、
「OH! mangaを連載しているとは、このmagazineはcoolでcutting edgeに違いない、WOW!」
などと高評価を受けるのではないか。
それに、そもそも学術雑誌なんてトップレベルのもの以外は、投稿した人と一部のマニアしか読んでないでしょうから、少しでも読者が楽しめるページがあったほうがいいはずです。

ということで、「史学雑誌」で連載が始まった「女子百家」をマネして、各分野の学術雑誌、学会の機関誌、果ては大学の研究紀要などにもマンガが連載されるようになるわけです。
(大学の紀要の場合は、特に予算もないし、絵心のある助手や院生に無理やり描かせたりするのね。
「ちょっとキミ、次の紀要に載せるアレ、描いといてくれたまえ」
「えー、先生、オレ実験で手一杯なんスけど、勘弁してくださいよー」
「あ、そうなの、そんなことをいうの。ふーん、ま、いっけど。ところで、今度のキミの論文ね、あれ、ちょっといいと思ってたけど、やっぱりね、うーん‥‥」
「せ、先生、オレ描きます、マンガ描きます!」
とかいって。おかげで、たいしておもしろくないうえに、どこかで見たようなネタのオンパレードになったりするんだけど、でも、それがいいのです。)
たとえば‥‥。

「社会学評論」に連載されるのは、「かる☆すた」。
「ねえねえ、チョココロネって太いほうと細いほう、どっちがあたまでどっちがしっぽだと思う?」
「あたまとしっぽですって!? それは漁撈文化圏の発想よ!」

「西洋古典学研究」には、「アルファ×ガンマ」。
「ちょっと、アルファ、あんた、ベータをカッパらったんだって!?」
「そうなの、そしたらねー、イプシロンしちゃったの。てへ」

理化学研究所「RIKEN RESEARCH」には、「でんじばと!」。
「おー! スプリングエイトマン、またきたな!」
「また!? よく出るの!?」
「どっちが陽子でどっちが反陽子だかわかるまいー!」
「おのれー」
「あはは、バカだ‥‥」

‥‥というのを見て、
「何これ? 意味不明なんスけど。チョーつまらん」
と思ったあなた。
それを口に出してはなりませんよ。
意外にも原案は、学界を牛耳っているあの先生だったりするので、うかつに、
「今月号の『ガラスの二次曲面』、つまんなかったよねー」
などともらしたりすると、後でひどい目にあいます。

posted by 清太郎 at 18:03| Comment(3) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月09日

本を売るために、なすべきこと

今年のゴールデンウィークの目玉といえば、やはり「高速道路一律千円」で、結局のところこれが景気浮揚に役立ったのか、儲かったのはサービスエリアとETC関連だけなんじゃないのか、っていうか二酸化炭素と窒素酸化物を撒き散らして環境立国ニッポンでいいのか、などといろいろ疑問や批判があるわけですが、まあそれはそれとして、せっかくですから、次はこの施策、われらが本業界にも適用してほしいものです。
ずばり、
「単行本、一律千円で」

しばらくの間、千円を超えるどんな単行本も、すべて千円で購入できます。
千円を超過する分は、高速道路同様、税金で補填されますから、出版社や書店のふところはいたみません。
ふだん本買わない人も本を買い、売れなかった高額な学術書の在庫は一掃、活字離れには歯止めがかかり、読書家は喜び、子どもの学力も上昇して、お母さんもニッコリ。
‥‥ということになるんですよ、と業界一丸となって声を上げてはどうなのか、と思うのですが、どうなんでしょうか。
理屈でいえば高速道路千円と大して違いがあるわけでないし、むしろタテマエ的には「国民が本を読むようになります」などという、「国民が高速道路を使うようになります」よりもよほど立派な御旗を掲げられるわけだし、何とかなるような気もするんだけど。ダメ元でいいから、日本書籍出版協会あたりが主張してもいいんじゃないかしら。(著作権のことばかり議論してないで。)

と、本業界の押しの弱さに、物足りないものを感じてしまうこのごろです、というのが今日の話題。散漫としてますが、あしからず。
そういえば定額給付金も、他業界では1万2,000円宿泊プランやら1万2,000円福袋やらいろいろ知恵を絞って便乗しようとしてるっていうのに、本業界の欲のないことといったら!
「ゴールデンウィークに本を読もう!」
と、数冊組み合わせて合計約1万2,000円にした、
「徹夜パック」
「号泣パック」
「教養パック」
などを用意してもよさそうなのに、そんな「定額給付金フェア」が、まったく見られないのが残念です。(もしかしたら、私の行きつけの本屋さんでやってないだけなのかしら。)

あるいは、本屋大賞もいいですが、フランスの高校生ゴンクール賞みたいなものをつくろう、という動きはないのでしょうか。
(高校生ゴンクール賞についてはわりと誤解があるみたいですが、「高校生が選んだ、十代向け小説のベスト」じゃありませんよ。候補作はゴンクール賞と同じです。フランス全土から選ばれた50数校の高校のクラスが、候補作を全部読んで、クラスで討論して自分たちのベスト3作を決め、それを持ち寄って各地方のベスト3作を決め、最終的に各地方を代表する13人の高校生が議論して1作を選ぶ、というもの。しがらみにまみれた大御所作家たちが密室で選ぶゴンクール賞よりも、ある意味で公平かも、ともいわれています。)
辻由美「読書教育 フランスの活気ある現場から」(みすず書房)によると、高校生ゴンクール賞はもともとレンヌ市の国語教師が個人的に始めたものなのだそう。それが回を重ねるにつれて大規模になったのね。各校へ配布する新刊書や経費については、協賛している大手書店チェーンのフナック書店が面倒を見てます。
直木賞・芥川賞をはじめ、日本では出版社が後援する文学賞が主流ですが、このフナック書店をまねて、書店と学校が組んだ文学賞が生まれてもいい。とりあえず、「読書の街」として売り出そうとしてる地方自治体に話を持ちかけて、十年くらいの中長期的な視点で取り組みを始めたら、おもしろいんじゃないかしら。
対象とするのは、直木賞じゃアレだし、芥川賞じゃパンチが弱そうなので、谷崎賞+野間文芸賞あたりで。(ただし、「高校生谷崎潤一郎賞」ではネーミング的にパッとしないけど。)
「高校生にそんなの読めるわけない」
と思う人がいるかもしれないけど、たぶん大丈夫です。ちょっと前に、「日本の学力低下」が問題になったPISAの「読解力」テストで、日本が15位だったのに対しフランスは23位だったんだし。

まあそんな遠大なものはさておき、もっと日常的なところで、本屋さんにはもっとがんばってもらいたいと思います。
「がんばれ」などという日本的なぐだぐだした表現ではどうしたらいいのかわからない、といわれたら、そうですね、とりあえずは、もっと俊敏になってもらいたい。
先述の定額給付金フェアもそうですが、たとえば、このゴールデンウィーク直前に、人々の興味が向かっていたのは、
・草ナギくんの全裸
・豚インフルエンザ
の2点だったといえるでしょう。
これらがニュースとして話題になった翌朝には、本屋さんの店頭に、
「全裸フェア」
「豚フェア」
などと、ドドンと関連書籍を並べたフェアを設けるくらいの勢いがほしいところです。
ブックオフの素人バイトとは違う、本の専門家たる書店員さんならば、これくらいの選書はできるはず。時間をかけて企画したフェアも大切でしょうが、本との偶発的な出会いを提供できるリアル書店として、こういう思いつきのテキトーフェアも必要だと思います。
もちろん、これは本屋さんだけの努力でできることではありません。草ナギくんが全裸泥酔で捕まったときに、書店員さんがすぐに「全裸フェア」を設けられるよう、出版社側も日頃から、
「全裸で読む老子」
などの書籍をそろえておくべきだと思います。

posted by 清太郎 at 11:54| Comment(6) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月30日

女子百家

エイプリルフールの「全裸で読む老子」でついでに考えた「天然ばくはつ! 老子たん」が気になっています。

老子たん表紙.gif

「無為自然」
をモットーとするからには、老子が萌えキャラ化した老子たんは、思いっきり天然キャラに違いないのです。
「あーっ、もう、老子たんったら、また、お金だけ払って、商品もらうの忘れて!」
「てへへ、またやっちゃった。でも、ほら、“取らんと欲する者はまず与えよ”ってゆーし」
「そんなの、あんたが言ってるだけでしょ!」
「しょぼん(´・ω・`)」
などということになります。

老子たんを叱ってるのは、老子なんかとまったく異なる立場の、えーと、たとえば法家の韓非子、いや韓非子ならぬ、
「韓ピコちゃん」
です。
実務的でキビキビした性格の韓ピコちゃんは、
「はにゃ〜」
などとぽわぽわしている老子たんに、いつもイライラさせられています。
「韓非子」の有名な故事、野良仕事をしていた人がある日、走ってきた兎が切り株でころり転げて思いがけず兎を手に入れることができ、それから野良仕事をやめて毎日切り株を見張ることにした、という「守株」の話も、友達の老子たんがモデルだったのかもしれません。いや、老子たんなら、大いにありそうです。
「きゃ〜、やだあ、韓ピコちゃんったら、あたしのこと、書いちゃダメぇ、恥ずかしい〜。ポカポカ」
「ふんっ、このくらいの余得がなけりゃ、あんたとなんかつきあってらんないわよ」
ということだったのでしょう。
老子たんの友達には、このように、孔子とか孟子とか韓非子とか墨子とか、春秋戦国時代のあのあたりの、いわゆる「諸子百家」の人たち(の萌えキャラ化)が勢ぞろいしているのです。

たとえば孔子たんは、背が高くてダイナマイトボディで、だからバレー部の部長あたりで。家では愛犬シロを飼ってます。
「論語」の中で、弟子の顔淵が嘆じる一節、「これを仰げばいよいよ高く、これを鑽(き)ればいよいよ堅し」と一見近寄りがたいように見えて、でも「夫子(ふうし)、循々然としてよく人を誘う」ということで、これはもう、わかりやすいツンデレキャラ。
顔(がん)ちゃんから、「部長のためなら、あたし、どんな恥ずかしいことも、できます!」などと、崇拝されてます。

孫コたんは兵家だけに積極的なイケイケキャラかと思いきや、実は慎重派でダウナー系。
「もう、孫コ、いい加減、コクっちゃいなよー、孫コならぜったいだいじょうぶだって!」
「まだ、ダメ」
「えー、どうしてよー、孫コ、あの人のこと、調べ尽くしてたでしょ」
「あの人のことは、わかった。でも、彼を知り己を知らば百戦してあやうからず。わたし、まだ自分のことを、知り尽くしていない」
見るに見かねた友達(縦横家の張儀たん)が、孫コたんの片思いの相手を引っ張ってきて、
「あたしが、自慢の弁舌で言いくるめて、連れてきてあげたわよ! ほら、もう観念して、コクっちゃいなさ‥‥、あれ? 孫コ、どこ? どこに行ったの?」
孫コ「‥‥三十六計、逃ぐるに如かず」

墨子はもちろん、
「ボッコちゃん」
ですね。夜は水商売関係のバイトをしてるミステリアスなセクシー美女なんだけど、難攻不落でどんな口説きにも落ちたことがない。実はロボットだといううわさもあります。
老子たん「ねーねー、ボッコちゃんって、どんなバイトしてるの?」
ボッコちゃん「‥‥水商売関係よ」
老子たん「水‥‥、上善は水の如し! なんかよくわかんないけど、すごい! 善なお仕事なのね゚:*。(*゚д゚)っ。*:゚」
韓ピコちゃん「老子たん、いや、それ、違うから、別に善じゃないから」

ということで、
「百花争鳴! 女子百家」
なんてタイトルで、「らき☆すた」っぽい四コママンガのシリーズ(掲載誌は「歴史街道」あたりで)にすれば、アニメ化も夢ではない!(かも。)
(ちなみに、これが当たったら、次は西洋哲学をネタに。ちょっと乱暴者のニーチェたんあたりをヒロインにして‥‥。)

posted by 清太郎 at 08:15| Comment(7) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月22日

上たんと中たんと下たん

岩波文庫の「罪と罰」、「アンナ・カレーニナ」、「トリストラム・シャンディ」。
ソフトバンク文庫のケン・フォレット「大聖堂」。
新潮文庫の隆慶一郎「影武者徳川家康」。
講談社文庫の宮城谷昌光「重耳」。
河出文庫のマンゾーニ「いいなづけ」。
いずれも、上中下の三巻本です。
スピードと効率性が求められる現代、三巻本というだけで、
「えっ、ちょっと‥‥」
と尻込みする人も多いことでしょう。
「3冊かけてひとつの作品を読む時間があるなら、一巻完結の3作品を読んだほうが効率的」
という意見も耳にします。

しかし、まあ、ちょっと待ちなさい。
上中下の三巻本だと思うから、いかめしいのです。尻込みしちゃうんです。
本ではなくて、たとえば、セーラー服の女子高生だと思ってみてごらんなさい。(女子高生じゃなくても、女子中学生でも女子小学生でもいいけど。)
三巻本ではなくて、
「三姉妹」
だと思うのです。
そうなると、
「三巻本は遠慮したいけど、三姉妹ならば、やぶさかではない‥‥」
という人も多いのではないでしょうか。
全3巻の作品には、一巻完結の作品では見ることのできない、めくるめく世界が広がっているのです。

上中下のそれぞれについて見てみると、まずは上巻あらため「上ちゃん」(「上たん」でも「上りん」でも「上ぴょん」でも何でもいいから、愛称で呼ぶといいでしょう)は、三姉妹の中ではいちばん愛嬌があります。比較的開けっ広げで、社交的な性格。
彼女のモットーは、
「本は見た目が9割」
第一印象にすべてをかけてます。
おかげで、上・中・下と似たような感じの3冊が並んでいても、ほぼ100%の人が、中身も読まずに、
「では、まず、上巻から」
と、上ちゃんに手を出します。それも、
「中も下も捨てがたいけど、うーん、やっぱり上にしよっかな」
などと逡巡することも、迷うこともない。
このことについて上ちゃんは、尻軽だのアバズレだの、
「誰にでもすぐページを開く」
だの、
「ちょっとめくられて、読み逃げされることが多いくせに」
だの、陰口を叩かれることもあるといいますが、まあそれはやっかみというものでしょう。
しばらく関係を結んだら、後腐れなくサッサと手を切る、そのサバサバとしたところも好印象です。

一方の下ちゃん(「下たん」でも「下りん」でもいいですが、おすすめの愛称は「しーたん」です)は、上巻とはまるで正反対で、一見したところ、なかなか近づきがたい。
上巻も中巻も読んでない間は、
「ちょっとアンタ、上も中も読んでないくせに、このあたしに声かけるつもり?」
と、取りつく島もありません。
それが上も中も読んだとなると、
「えっ、読んだの? 上も? 中も? あたしに、会うために‥‥?」
と、打って変わって、いきなり恥じらいの表情。
こちらも上と中を読破した勢いにまかせて、鼻息荒く、押しの一手。
「ああ、そんな、もっと、ゆっくり‥‥」
などというのもかまわず、一気呵成に最後まで読んじゃったりなんかして。
しかも三巻ものの結末は、わりと感慨深いものが多いから、読み終わってしばらくは愛しげに見つめちゃったりして、でもって、最後のあたりをまた読み返しちゃったりして、
「あ、やだ、読み終わったばかりなのに、また‥‥」
などということになって、少し前までのあのツンツンぶりはどこへ行ったのか、というほどに情愛こまやかなところを見せてくれたりして、その意味で下巻は意外にツンデレ。
「やっぱり、しーたんがいちばんです」
というファンが多いのも首肯できます。

これら上ちゃん・下ちゃんに比べて、真ん中の中ちゃんは些か影が薄いように思えます。
そそっかしい人などは、上のあとに中を飛ばしていきなり下を読んじゃって、読み終わってから、
「あれ? この小説、中もあったんだっけ? どうりで話が飛ぶなあと思ったんだよ。でも、まあ、いっか、もう読み終わっちゃったし」
ということも、ときどきあるそうです。
とはいえ、逆に、そうした奥ゆかしさこそが、中たんの持ち味であり、魅力なのです。
影は薄くとも、実力は上巻や下巻に決して引けを取りません。中巻がなければ、たとえば岩波文庫の「アンナ・カレーニナ」のアンナは出産しないし、マンゾーニ「いいなづけ」なら暴動に巻き込まれたレンツォがどうなったかわかんないのです。でも、その実力をあえてひけらかさないのが、中たんのいいところ。
キャラの立った上と中の間に挟まれて、ひっそり目立たずはかなげで、無口で小柄で色白で、
「思わず、守ってあげたくなっちゃうんです」
「中たんこそ、真の萌えキャラ!」
「いっときは中たんと別れて、しーたんと付き合ったこともあるけど、やっぱり中たんのことが忘れられない」
と熱く語る中巻ファンも、少なくありません。

※ただし、以上はあくまで上中下の3冊をセーラー服の女子高生(もしくは女子中学生、または女子小学生)だと見た場合の話であって、これが女子ではなく男子だと考えた場合、
「上巻と下巻の間に挟まれた中巻を見ると、ムラムラしちゃうんです」
「思わず中巻総受け本をつくっちゃいました」
「いや、むしろ中巻ヘタレ攻めで」
というBLファンも多いと思います。

ということで、次に上中下の三巻ものの長編を読む機会がありましたら、上巻・中巻・下巻ではなく、「上たん・中たん・下たん」だと思って読んでみてはいかがですか。
あるいは、いきなり下たんから読み初めて、
「ちょっとアンタ、いきなりあたしからって、何様のつもり?」
と、きついことを言われて悶える、というマニアックな読書もいいかもしれません。
posted by 清太郎 at 07:17| Comment(5) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月15日

活字離れ反対デモ

活字離れ、本離れと、さんざんいわれていますが、そう主張している業界の人の声がいまひとつ本気に聞こえない理由のひとつが、
「デモをしてない」
ということだと思います。
本当に真剣に人々の活字離れを憂い、このままでは本業界は危うい、いや、それどころか日本の将来も危ういのだ、日本の未来のために活字離れを断固阻止せねばならぬ、今こそ立ち上がるときだ、俺がやれねば誰がやる!
などと本気に思っているなら、
「国民よ、本を読め!」
「活字離れ、ハンターイ!」
と、威勢よくデモのひとつやふたつ、やってもいいのではないか。
ほら、北方領土とか米軍基地移転とか、よくわかんないけど、ときどきデモをしてますよね。ああいうのを見ると、まあその主張の当否はさておき、
「おつかれさん」
くらいは思うわけです。
それに対して、いかにネット上で、あるいは新聞・雑誌の誌上で「活字離れを憂う!」なんて書いてあったところで、そんなこといって、どうせ空調のきいた部屋の中でぬくぬくしながら書いてるんでしょ、などとその切迫感、差し迫った感は一向に伝わってこない。
デモ行進やってる人は、炎天下、あるいは寒風吹きすさぶ中、自分の足で歩いて、主張しているではないか、真に活字離れを憂いているのなら、自分の体を張ってみろ!と、思ったりもするのです。

「でも、そうは言っても、そんなデモなんてできるの?」
と思うかもしれないけど、いちおう日本国民の権利のようだし、その気になりさえすれば、実はわりとかんたんにデモはできる。
ということが、松本哉『貧乏人の逆襲』(筑摩書房)に書いてあります。これによると、デモだからって、いっぱい人集めて行列にする必要なんて全然ない、
「3人デモ」
でいい、というから(3人だけのデモでも、ちゃんと警察官が交通整理などしながら先導してくれる。おまわりさんに感謝しましょう)、飲みの席などで、
「よーし、デモするぞー!」
「おー、俺も行く行く」
「俺も俺も」
などと言質をとってしまえば、あっという間にメンバーはそろう。
そうして、
「活字離れ反対!」
「本離れを断固阻止せよ」
「本読まぬ輩を糾弾せよ」
などと書いたプラカードを高々と掲げ、あるいは垂れ幕をびらびら垂らし、拡声器を手に、
「活字離れハンターイ!」
「ハンターイ!」
「国民よ、本を読めー!」
「本を読めー!」
「本を読まないと、バカになるぞー!」
「バカになるぞー!」
と威風堂々、デモ行進を行うのです。

「で、それに何の意味があるの?」
と思う人がいるかもしれませんが、いや、あなた、これは単なるきっかけにしかすぎないのですよ。
だって、衰えたりとはいえど、世の中の巨大メディアの一角は、新聞と雑誌。彼らも、活字離れを危惧していることには変わりない、つまり同じ穴のムジナなんです。
たとえ参加者が3人だろうと、ひとたび活字離れ反対デモを行えば、新聞では、
「活字離れ反対デモ開催!」
と社会面でデカデカと、雑誌なら、
「時代は今、活字離れ反対デモ!」
などと緊急特集を組む勢いで、記事になること間違いなし。
すると、それを読んだ、何も知らない地方の書店経営者の団塊世代などが色めき立ち、
「昔取った杵柄、デモ行進なら、まかせとけ!」
とばかりに、ヘルメットと角棒を片手に立ち上がり、にわかに全国各地で活字離れ反対デモが勃発、志ある者がわれもわれもとデモ隊に身を投じ、その勢いはさながら燎原の火のごとく、もはや誰にも止められはせぬ。さらに情勢を察したレコード店あたりが、これに乗じて、
「CD離れ反対! 音楽ダウンロードなんかしてないでCDで聴けデモ」
などを組織し、テレビ業界も、
「テレビ離れ反対デモ」
を、クルマ業界も、
「クルマ離れ反対デモ」
を、ほかにも、
「若者の相撲離れ反対」
「若者の海外旅行離れ反対」
「学生の理科離れ反対」
「タバコ離れ反対」
「浮世離れ反対」
などなど、各地で多彩なデモが入り乱れ、そのうち活字離れ反対デモとクルマ離れ反対デモが街頭でぶつかったりなんかして、
「本なんか読んでたらクルマ乗れるかー!!」
「クルマ乗ってたら本が読めねーだろ!!」
と激高した双方が乱闘騒ぎを巻き起こして死者多数、などということになっても‥‥、たぶんおおかたの国民は、ケータイでそんなニュースでも見ながら、「ふーん、おつかれさま」など思うだけで、結局のところ活字離れは改善されない気がします。
posted by 清太郎 at 07:03| Comment(5) | TrackBack(1) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月01日

[本]全裸で読む老子

前回に引き続き、おすすめ本です。

全裸で読む老子.gif

「全裸で観るオリンピック」「全裸で釣るマグロ」「全裸で学ぶJava」などに続く春眠書房の「全裸で」シリーズ第8弾。
今回のテーマは、ズバリ、
「老子の読み方」
です。
「生まれたままの姿で畑仕事をしてこそ、本当の意味での無農薬有機野菜ができる」
と訴える「全裸で作る有機野菜」や、
「震えながら全裸で編んでこそ、本当に暖かなマフラーが編める」
と主張する「全裸で編むマフラー」と同様に、
「無為自然を説く老子は、服を脱ぎ、全裸で読んでこそ、理解することができる」
というのがテーマ。毎度のことですが、強引です。

注意してもらいたいのは、本書を読んだだけでは、老子の思想がどういうものなのか、ちっともわからない、ということです。
これまでのシリーズと同じく、本書に書いてあるのは、
「老子の思想とは何か」
ではなく、
「老子の思想はどうすれば理解できるか」
なんですね。
どういうことか。例を挙げればわかりやすいでしょう。
たとえば、よく知られている老子の言葉のひとつ、
「上善如水(じょうぜんはみずのごとし)」
この言葉について本書は、これがどういう思想的な意味を持っているのか、少しも解説していないわけです。
代わりに書いてあるのは、以下のようなこと。

《「上善は水の如し」、すぐれた善は水のようである、といわれても、何を言っているのだか、すぐには理解できないだろう。
 なぜ理解できないのか、それは、そもそも「水のようである」ということが、理解できていないからだ。
 では、どうすれば「水のようである」ということが理解できるか。
 諸君には、もうおわかりのことだろう。
 さあ、「老子」を片手に、近くの川や湖(できるだけ自然に近い場所がいい)に出かけ、服を脱ぎ捨て、全裸になり、思い切りよく水に飛び込んでみよう。
 あなたの全身の肌を通して、「水のようである」とはどのようなことか、そして「上善は水の如し」とは何を意味するのかが、きっと理解できるはずだ。》

これが右ページに書いてあって、左ページには、湖の中に腰のあたりまで浸りながら「老子」を読んでいる全裸の女子の写真。
こんな調子で、たとえば、
「禍福はあざなえる縄の如し」
のところは、《「あざなえる縄」がどのようなものか、あなたの肌で試してみよう。》と、全裸で縄を綯っている女子と、その縄で全身をがんじがらめに縛られている全裸の女子の写真。
ほかにも、「人を知る者は智、自らを知る者は明」では、《自らを知るとはどういうことか、それを理解するには、まず自ら虚飾を脱ぎ捨て、全裸になることから始めよう》、「取らんと欲する者は先ず与えよ」は《与えるということの真の意味は、全裸にならなくてはわからないだろう》など、読みすすめているうちに、なんだか「老子」は本当に、全裸で読んでこそ真に理解しうる言葉で満ちているように思えてきます。うーむ、なるほど‥‥。

老子について興味があって、「タオのプーさん」とか入門的な本をいろいろ読んでみたけどいまひとつよくわからない、という人は、一度この本を参考にしてみてはどうでしょうか。
などといって、どうせ、これまでのシリーズ同様、おそらくマニアックな全裸ファンしか買わないと思うのだけど。
ただ、欲を言えば、無為自然の老子の思想にこだわっているせいか、全裸の女子がみんな本当に何も身につけていないのが、ちょっと残念。全裸だけど眼鏡だけかけてるとか、全裸だけどネックレスだけしてるとか、そんな写真があってもよかったような、いや、これは私が残念だという意味ではなくて、そのほうがいいという全裸ファンも多いだろうなあ、ということですので、ゆめゆめ誤解なきよう。

【こんな人におすすめ】
・チャレンジ精神旺盛な人。
・本を読んでいる全裸の女子が好きな人。

【こんな人にはおすすめしません】
・こんな本が本当にあると思ってしまったウブな人。
(上の本の画像のリンク先もご覧ください。)

posted by 清太郎 at 08:21| Comment(11) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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