2011年09月25日

読書週間の標語「信じよう、本の力」

東日本大震災と津波、そして福島原発事故は、本業界にも大きな影響を及ぼしました。
・被災地の本屋さん壊滅
・紙不足などによる雑誌の刊行遅れ
・本の売り上げのさらなる落ち込み
・原発・放射能本ブーム
などです。
その影響はまだ続き、きたる10月27日〜11月9日、今年の読書週間にも、震災は影を落としています。

過去の記事で指摘してきたように、ここ数年、読書週間の標語は、素朴な読書推進から自己目的的な広告コピーへ、そして「脱・本」へと歩みを進めてきました。
(過去の記事は、こちらを参照。→2005年2006年2007年2008年2009年2010年
一昨年は、
「思わず夢中になりました」
昨年は、
「気がつけば、もう降りる駅。」
でしたから、地震さえなければおそらく今年の読書週間の標語は、
「いつの間にか、ホテル」
などになっていたことでしょう。
だが、しかし。
3月11日、地震が、津波が、原発事故が起こってしまいました。
そして、読書週間の標語はどうなったか。
今年、第65回読書週間の標語は、これです。
「信じよう、本の力」

3月11日以来、われわれの生活は一変しました。日本中がひとつになって(というか、ひとつになったような気分になって)、地震や津波、原発事故という苦難に耐えてきました。
われわれは、口々に言いました。
「信じよう、日本の力」
と。
そうしてお互い励ましあい、がんばってきました。
そしてそれは、本業界においても同じでした。
日本中がみんなでがんばっている。われわれにも、本というものを通じて、何かができるのではないか。本によって、あるいは本とともに、われわれは立ち直ろうではないか。本というわれわれのこの原点に立ち戻り、そこを拠り所にしようではないか! そうして明日へ、新しい日本へと、目を向けようではないか!!
そうだ、みんなで、
「信じよう、本の力」!!!
ということになったんでしょう。
「思わず夢中になりました」やら「気がつけば、もう降りる駅。」やら、すかしたコピーライターがやっつけ仕事でつくったような近年の路線から大きく舵をきった、まさに質実剛健、地に足をどっしりつけた、標語らしい標語、といえるかもしれません。

とはいえ、冷静に考えてみると、この標語、ちょっと、どうなのか。
「信じよう、本の力」
といわれて、「はい、信じます」ということになったとしても、震災後というこのとりわけ困難な時代にあって、具体的に本にはどんな力があるというのか。実際のところ、本には何ができるのか。
と、つらつら考えてみると、本は‥‥、
・地震を防げない
・津波を防げない
・原発のメルトダウンを防げない
・放射能拡散も防げない
・復興に役立たない
・景気の浮上にも役立たない
このように現実的には、本には何もできないのです。
「本の力」
とかいいつつ、本に力なんて、ありはしないのです。
「信じよう、本の力」
なんて威勢のいいことをいっておきながら、空虚な号令でしかない。
「信じよう」
「本の」
「力」
と一見したところ力強い言葉を並べているように見えて、今年の読書週間の標語は、この数年の標語に勝るとも劣らぬスカスカっぷりなのです。

とはいえ、もしかしたら、この標語の意図は、そうしたところにはないかもしれません。
標語が高らかに謳いあげている「本の力」は、震災後の日本をどうにかしよう、なんていう崇高なものではまったくないのではないか。
というのも、津波や原発に対して無力な本も、われわれの心には絶大な威力を発揮するからです。
読書はわれわれの心を、頭脳を、別世界へといざなってくれます。
本によって、われわれは現実では味わえないハラハラを、ドキドキを、涙を、笑いを、あるいは鋭い洞察を、理解を、得ることができます。
一冊の本は、ひとつの異世界への扉なのです。
どんなに苦しいことがあっても、つらいことがあっても、一冊のすばらしい本があれば、その苦しくつらい現実から逃れることができる。
その意味では、本には力が、信じるべき「本の力」があるんです。
そうです。みんなで、今年の読書週間は、
「本の力」
を信じましょう。
本の力を信じて、読書をしましょう。
そうして、読書週間の2週間、この震災後の復興もままならず原発どうするかわからず経済はさらにどうなるかわからず政治も混迷して明日も見えない沈鬱でどんよりとした日本の現実から、読書によって逃避しようではありませんか!
本さえあれば、どんな現実も怖くない!
ビバ! 本の力!!
信じよう、本の力!!


posted by 清太郎 at 20:30| Comment(6) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
言語は、考えるための道具である。
それぞれの言語には、固有の特色がある。
日本語には、時制がない。それで、未来時制もない。

日本人には未来のことが鮮明には考えられない。構文がないので常に未来の内容は混乱している。
結論も決断も下すことができない。
決断を慎重にするためではなくて、不鮮明で結論が得られないためである。

自分から考えることもできず、他人から伝えられることもない。
未来の内容そのものが、社会に存在しない為である。

未来の内容が脳裏に展開できないので、不安になる。
政治家も一般国民も理想社会の予測が立たない。
政治指導者の指導もない。

金の切れ目が、縁の切れ目としか信じられない。
人は信じられない。金を信じるしかない。
1500兆円の個人金融資産も社会資産となることなく宝の持ち腐れになっている。
金はあっても保育所には入れてもらえないようなものである。

英語の時制は、現実と非現実の内容を分けて考える作業に役立っている。
この作業は、英米の高等教育の課程で行なわれている。
現在時制の内容は現実であり、未来時制の内容は非現実である。

非現実の内容がなければ、人は無哲学・能天気になる。
神の意思に導かれることもなく、政治指導者の構想に導かれることもない。
大人になっても12歳の子供の精神状態にとどまる。
目先・手先にまつわる事柄ばかりを考えて生活することになる。
襲い来る放射性物質に関して、「ただちに健康に影響はない」とだけ説明するのは、ナウな感じのする至言てある。

構想がなければ、備えあれば憂いなしとはゆかない。危機管理は、難しい。
一旦、問題が起これば、無為無策で閉塞感を味わう。
そのうち、何とかなるだろう。と見守る。
何とかならないことを見届けると、諦観に入る。
自決では、生きる力は得られない。
ああ、この世はむなしい。と漏らす。

こうした繰り返しが日本人の一生である。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
Posted by noga at 2011年09月25日 21:56
ひとつだけ疑問。
英語って、そもそも「未来時制」ってありましたっけ?

「行く」の英語は「go」、過去形は「went」、あと現在分詞として「gone」はありますが、未来を表す動詞形はなかったように思うのですが・・・。

それとも、私の「時制」のとらえかたが違う?
Posted by 八方美人男 at 2011年09月26日 20:34
イタリア語には未来時制があった気がします。

閑話休題。

そうです、本は異世界への扉なのです!
でもそれなら、数学だって異世界への扉なのです!
ボクは数学の問題を解いていると、よく現実を忘れます!
現実では得られない、ハラハラやドキドキ、そして新しい知見を得られます!
信じよう、数学の力!

……ってわけで、何でも「○○の力」にこじつけられそうな気がします。
Posted by 黄黒真直 at 2011年09月26日 20:59
nogaさん。
なんか難しいけど、
>「ただちに健康に影響はない」とだけ説明するのは、ナウな感じのする至言
というのはツボでした。うまい!

八方美人男さん。
なんだか久しぶりですね。ご無沙汰しております^^;

黄黒さん。
でも、そういうことばかり言ってると、そのうち、
「あたしと数学、どっちが大切なのよ!」
と詰め寄られることになるので、要注意ですよ。。。
Posted by 清太郎 at 2011年09月26日 21:57
ご無沙汰しております。ツィッターとかフェイスブックとか新しいおもちゃにかまけてブログを休眠しておりました。
また気がむいたらそちらにも遊びに来てくださいね。
Posted by 樽井 at 2011年10月20日 14:16
樽井さん。
ご無沙汰です。そういうことだったんですねー。
あらためてよろしくです^^
Posted by 清太郎 at 2011年10月20日 21:26
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。