2010年12月04日

量子書籍

えー、2010年、またの名を国民読書年、じゃなかった(国民読書年なんて、もう誰もおぼえちゃいないよね)電子書籍元年もいよいよ大詰めとなってまいりまして、村上龍とかが独自で電子書籍制作販売会社を設立したり、こんどの10日にはTSUTAYA GALAPAGOSがオープンしたり(3年後くらいに端末ともどもなくなってるかもしれないサービスにどれだけお金を出せるか微妙だけど)、いよいよKindleの日本版サービスが始まるらしいと噂されてたりと、電子書籍界隈は日々大賑わいなんですが……。
しかし、一読者として、なんか、もう、どうでもいいんだよねー。
電子書籍電子書籍って、騒いでるわりには、何も変わってないじゃん。
いまだに新刊の新書がぜんぶ電子書籍で読めるわけでもないし。
電子書籍か紙の本かでいまだに議論してたりとか。
結局のところ、読者のことなんて、ぜんぜん考えてないじゃん。
ていうかさー。
電子書籍ってあれだけ騒いでて、それが何? 流行語大賞にノミネートすらされてないしwww いいザマwww
っていうか、なんかさー、もうホトホト、あきれたっていうか。
バカじゃないの?
だいたいねー、そもそも、電子って、いまどき、どうよ!?
電子書籍とかいって、さも新しいみたいなこといってるけど、電子よ、デ・ン・シ!
電子なんて、しょせん、20世紀の産物じゃん?
電子戦隊デンジマンなんて、1980年よ!
それを、この21世紀になって、電子書籍スゴイとか電子書籍ヤバイとか、マジそう思ってるわけ?
電子とか、いまどき、ありえなくない?
今なら、せめて、量子じゃない?
新しいっていうんなら、「量子書籍」くらい言ってよねー。

というわけで、われわれ真の読書人としては、電子書籍ではなく、むしろ量子書籍に着目せねばならないのである。
電子書籍と違って、量子書籍は、本当にスゴイ。
なにしろ量子なんである。量子。
量子といえば、
「シュレディンガーの猫」
である。量子の世界では、よくわかんないけど、猫は死んでる状態と生きてる状態の重ね合わせなんである。
ということは、である。
『吾輩は猫である』の猫は、読み始めるまでは、中の猫は死んでる状態と生きてる状態の重ね合わせ、ということなんである。
読んでみるまで、吾輩の猫は死んでるか生きてるかわかんない、というか、死んでいてかつ生きているんである。
でもって、読み始めたとたん、
「吾輩は、死んでいる。完」
ということにもなるのである。あるいはまた、物語の最後で猫が水に溺れることもなく、延々と生き続け、猫の物語も延々と続き、ついには苦沙弥先生のほうが先に逝去、ということもありうるのである。

いや、『吾輩は猫である』に限ったことではないし、また生き死にに関わることばかりではない。
たとえば、ポオ「黒猫」の猫は壁の中に死体と一緒に塗りこめられないかもしれず(だから、完全犯罪が成立する)、『夏への扉』のピートは家中を回って「夏への扉」を探さないかもしれなくて(だから、タイトルが『夏への扉』じゃなくなる)、小沼丹『白と黒の猫』の猫は大寺さんのところにやって来ないかもしれず(こちらもタイトル変更)、多和田葉子「ころびねこ」のコチトラは知らない間に入れ替わってるかどうかさらに不明になり、内田百ケン『ノラや』のノラはある日突然いなくなったりしないかもしれず、グーグーだって猫であるかどうか怪しいものになり、ていうか、猫以前にむしろ、「吾輩は河馬である」とか、そういうことになってるかもしれず、もうとにかく、よくわからないことになってしまうんである。
しかも、である。
それは一回限りのことではない。
読むたびに、読み始めるたびに、その何やらよくわからぬことが起きるのである。
さらにさらに、それは、あなたと私とではまったく別のものになる。
同じ作品をもとにしながら、昨日私が読んだのは手に汗握る冒険活劇の『吾輩はパンダである』であったのに、今日あなたが読むのは紅涙絞る悲恋ドラマ『吾輩はモモンガである』ということにもなるのである。
ということは、である。
ああ!!
そう、そうなのである。
量子書籍、というこの書籍の臨界点において、おお、神よ照覧あれ、文学はついに、テキストの呪縛から解き放たれるのである!!
口承文芸から文字に書かれた文学へという転換にともない、作者の書いたテキストという牢獄に閉じ込められて久しい文学が、嗚呼、再び、自由を手にするときが到来したのである!
おお! ついに文学は、無限の可能性を手に入れることができるのである!!
量子書籍において、文学は、まったく新たな段階へと、進化を遂げるのだ!!

ということで、以上のことからわかるように、新時代の量子書籍の登場によって、文学はまったく新しい地平へと飛翔し、大きな変革を遂げますが、実質的には、量子書籍のフォーマットで出版されるのは、ごく一部の作品にかぎられるでしょう。
多くのエンターテインメント、とりわけ殺人事件の解決を楽しむようなミステリなどは、量子書籍で出版することは難しいはずです(殺人事件が起こらないかもしれないから)。
小説以外の多くの実用書、専門書も、量子書籍では扱えません。
そんなわけで量子書籍は、書籍の最先端を行くものであるにもかかわらず、紙の本とじゅうぶん共存できるのです。
電子書籍と違って、本屋さんも出版社も取次もひと安心。
出版界の皆さんは、電子書籍なんかにかかずらってないで、はやいとこ量子書籍化を考えるべきでしょう。
そして来年を、記念すべき、
「量子書籍元年」
とするのです!!


ちなみに、最も量子書籍化にふさわしくないものが、
「かわいい子猫の写真集」
であることは、言うまでもありません。

posted by 清太郎 at 09:18| Comment(4) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
生きているか死んでいるか開くまでわからないかわいい仔猫の写真集!!!!
ドキドキしすぎて開けませんっ。
 
テキストの呪縛から解き放たれたそれははたしていったい「書籍」なんだろうか。新しい文学の可能性っ。誰とも共有できないっ。
語りえない幻の文学ですね。ロマン〜。
Posted by シキ at 2010年12月04日 21:31
マジレスすると、
「あの感動をもう一度!」
って出来ない書籍は嫌です!

でも、開くたびに内容が変わるのであれば、
飽きなくていいかもしれません。
っていうか、それ1個買っちゃったら、
物語に関する限り、もう新しい書籍を買う必要がなくなっちゃうんじゃ……。
Posted by 黄黒真直 at 2010年12月05日 00:10
いけません、量子書籍。
日本の美しい伝統文化である読書感想文が死んでしまいます。
そして何よりも、とあるHPの傑作コンテンツ、「読書感想文は1行読めば書ける」が意味をなさなくなってしまいます。
Posted by すずめの巣 at 2010年12月05日 14:09
こんばんは。レス遅くなってすみません‥‥。
ていうか、レスつけたつもりが反映されてないの気づかなかった‥‥。

シキさん。
そんなわけで、ここにいたって文学は書籍という檻から抜け出るのです!
まさにこれは、幼年期の終わり。
文学の可能性は無限です‥‥。
それに、そもそも、よく考えると、今あるテキストに関しても、それを本当にわれわれは共有しているのだろうか? と、深く考えるとよくわからない認識論にもなるので、量子書籍くらい共有不可能なほうがいっそのこと潔くていい気もします。

黄黒さん。
たしかに、1個買ったらもうおしまいのような気もするけど、いや、でもたぶんこれは確率的な話なので、少し変化するのは読むたびにありうるけど、大きな変化(たとえば、『罪と罰』的な話が『若草物語』的な話になるとか)は、あんまり起こらないと思うのです。

すずめの巣さん。
いや、そのときはそのときで、学校の先生もがんばって量子書籍向けの読書感想文の宿題を用意すると思うので、私もがんばって量子書籍向けのコンテンツを作成します。
って、よくわかんないけど‥‥。
Posted by 清太郎 at 2010年12月14日 23:22
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