2010年05月30日

使用済み国語の教科書

えー、更新をさぼっているうちに(最近こればっかだな)、世間ではiPadが発売されて盛り上がったりしてますね。
iPadで不思議なのは、これを使ってできることの一番目に、
「電子書籍」
があがってくること。うーむ、いくらiPadなら電子書籍読みやすいからって、今まで本読んでなかった人がいきなり電子書籍読むことはないでしょう。
京極夏彦の新刊が電子書籍で出たりはしてますが、とりあえず司馬遼太郎の主要作品が電子書籍で安く手軽に読めるようになるまでは、大した変化はないんじゃないかと思います。

ところで、このiPadの話題のひとつとして、教科書をこれで配信しちゃう、というのがありますね。電子教科書として、とってもいいツールである、と。
視覚に障害がある人なんかへのサポートは必要としても、実際、各教科の教科書がすべてiPad1台におさまるのなら、かなり便利になりそうです。当面は一部の高等教育の場だけなんでしょうけど、こうしたスレート型端末がどんどん普及すれば、紙の教科書はすべて一掃されて、小学生があんな大きなランドセルを背負わなくて済むようになるかもしれませんね。
同時にクラウド化もどんどん進むでしょうから、わざわざ端末を持ち運びしなくても、学校では学校の、自宅では自宅の端末にログインすれば、すべてOK。手ぶらで登校しても、何の支障もないような日が来るかもしれません。

おお、なんと素晴らしいことではないか、iPadワンダホー、ITバンザイ!
と、手放しで喜んでいる人が世の中には多いようですが、しかし、本当にそれでいいのか。
電子化によって、便利になるのと引き換えに、われわれはもっと大切なものを失ってしまうのではないか。
いや、失うのではないか、ではない。失ってしまうのです!
われわれは断固として、この電子化の流れに、反旗を翻さねばならんのです!
というのが、今日のテーマです。

では、教科書の電子化によって失われるものとは何か。
まあ、ちょっと、聞きなさい。
iPad教科書で、誰もが喜ぶわけではありません。悲しい思いをする人も、いっぱいいるんです。
もちろん紙の教科書がなくなれば、ランドセル業者や教科書専門の印刷屋さんなどは、悲しむでしょう。でも、そういう話をしているのではありません。
ビジネスではなく心、感情、愛のレベルの問題なのです。

たとえば、教科書の電子化によって悲しむのは、4年2組のケンタくんです。
ケンタくんは、隣の席のユリコちゃんに片思いをしています。
従来の紙の教科書であれば、
「センセーイ、僕、教科書、忘れちゃいましたー」
「あら、ケンタさん、しかたがないわねえ、隣のユリコさんに見せてもらいなさい」
「ハーイ!」
と、隣の席ながらふだんはなかなか話しかけられないユリコちゃんと、一冊の教科書を分け合って、必要以上に密着して、なんかこういい匂いが漂ってきたりして、もうドキドキ。でもって、肩がちょっと触れ合っちゃったりなんかして、さらにさらに、ページをめくるときに偶然を装って、ちょこんと、指を、指を‥‥! ハアハア、もうオレ、今ここで死んでもいい‥‥。
ということができました。
しかし、紙ではなくスレート型端末であれば、そうはいきません。
「センセーイ、僕、教科書、忘れちゃいましたー」
「あら、ケンタさん、しかたがないわねえ、じゃあ学校の備品を使いなさい」
でおしまい。いや、上に述べたようにクラウド化が進めば、「教科書を忘れる」ということがあり得ないシステムにもなるでしょう。
ケンタくん、もうガッカリ。
教科書の電子化によって、ケンタくんは、せっかく隣になったユリコちゃんの肩にも指にも触れることのないまま、席替えになっちゃうのです!

そして、悲しむのは、こうして幼い恋を邪魔されたケンタくんをはじめ少年少女だけではありません。
すでに学校を卒業して久しい、われわれ大人も、大いに悲しむことになるのです。
だって、紙の教科書がなくなってしまうのですよ!
紙の教科書がなくなる、ってことは、算数/数学の教科書や理科、社会の教科書がなくなるだけではないのですよ。
そう、そうです。
国語の教科書、ぼくたちの国語の教科書も、なくなってしまうということなのです!

どうですか、ホラ、そう言われて、思わず青ざめた男子諸君も多いのではないか。
何しろ、国語の教科書なのです。
そこには、ぼくたちの、夢とロマンと愛が、詰まっているのです。
学校、というこの近代が生み出した不条理なシステムにおいて、ぼくたちはそれでも、そこに、人間的な夢を、ロマンを、そして愛を見出してきました。
学校の、どこにか。
そう。
すなわち、セーラー服、スクール水着、体操着、上履き、リコーダー、ピアニカの口にくわえるアレ‥‥。
ああ、なんという夢でしょう、ロマンでしょう、愛なのでしょう!
そして、ぼくたちは、セーラー服やスクール水着、リコーダーなどにおいて、清らかな女子小中学生、高校生の身体的なものの象徴を感じてきた一方で、彼女たちが使った使用済みの国語の教科書に、精神的なものの象徴を感じてきたのです。
たとえば裏表紙に書かれた名前は、粗野な男子とは異なる、繊細で几帳面な、女子ならでは筆跡で。
ちょうどいい塩梅に手垢で黒ずんでいるけれど、ページにあまり折れがないのは丁寧に扱われた証拠で。
何より、お手製のカバーがかけられていたりして。
でも、中を開くと、あちこちにかわいらしい落書きが。
正岡子規はアフロになっていて、芥川龍之介の鋭い目からはなぜか怪光線。
「走れメロス」には、ページの隅に、メロ×セリを二重線で消してその下に花丸囲みでセリ×メロ!!!と書いてあったりしたら、もう悶絶、卒倒。
女子小中学生、高校生の使用済み教科書をめくることで、ぼくたちはたとえようもない夢とロマンと愛を感じてきたのです。興奮と悦びと、そして安らぎを得てきたのです。

そしてそのすべては、紙の教科書であってこそ、なのです。
電子化されてしまっては、それらは決して味わえません!
あのめくるめく興奮が、悦びが、安らぎ、感動、味わいが、失われてしまうのです!
ああ、なんということ!!

と、こう言うと、
「まあ、教科書は、しかたがないよ、あきらめよう。教科書がなくっても、ぼくたちには、ほら、セーラー服が、体操着が、スクール水着があるじゃないか!」
とほざく男子がいるやもしれぬが、キミ、それは間違っとる!
教科書は、端緒にすぎないのです!
教科書の電子化を許せば、どうなるか。
それを皮切りに、学校内のあらゆるものが、次々と電子化されていくことでしょう。
黒板が、掲示板が、名札が、白線引きが‥‥、そしていずれは、紙の教科書が失われたように、布のスクール水着も失われ、
「電子スクール水着」
になってしまうのです!
それでもいいというのか、キミは!!
イカンだろう、ダメだろう、エッ、そうではないのか!?
電子スクール水着じゃ、どうにもならんだろう!
そうです!
電子スクール水着になってしまってから、泣き叫んでも、遅いのです!
そうなる前に、われわれは、先手をうたねばならんのです!
教科書という水際で、電子化を食い止めねばならんのです!
ぼくたちの大好きなスクール水着を電子化から守るために、いざ立ち上がれ! 教科書の電子化、断固反対!!



と、以上、このように、教科書の電子化に対して異を唱えている男子がいたら、それはスクール水着ファンだと思って間違いはないので、女子の皆さんは用心しましょう。


posted by 清太郎 at 20:56| Comment(4) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ずいぶんとご無沙汰しております。
 iPad大人気のようですが、購入は数ヶ月先かな^^
 まぁよこしまな話はあれとして、女子の方々が本を読んでいる姿というのはそこはかとなく知性と教養と純真さがにじみでているようで、そこに眼鏡なんかかけていてくれると二倍増しくらいに魅力的になるような気がします。それがIPadになっちゃうと、仕事のデータ見ているのか、インターネットしているのかわかんないですからね。
 本を読む姿、というのがポイントですからね。
 まぁ、最近はそういう目の保養には縁遠くなりましたがね^^  
 
Posted by 樽井 at 2010年05月30日 21:26
樽井さん。
おお、お久しぶりです。
iPadにはiPadにふさわしい美しい読書スタイルというのができるといいんですけどね。
日本文学少女愛好会などからの提言が待たれるところです。
Posted by 清太郎 at 2010年05月31日 07:46
しかし日本文学少女愛好会からどのような提言がなされても、
「少女が電子機器を持っている姿萌え!」
「勉学も趣味も恋も電子で済ませるスマートさ萌え!」
「いや寧ろ少女が電子機器だ!」
「わいわい」
「がやがや」
なサイバー少女愛好会とは一悶着起きそうですね。
Posted by ama at 2010年05月31日 14:11
amaさん。
おー、サイバー少女愛好会ですか。
モビルスーツ少女愛好会と重なるところがありそうですね。
長い髪をそっとかきあげて、首の後ろのジャックにケーブルを差し込んだりするのね。
Posted by 清太郎 at 2010年05月31日 22:54
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