2011年02月12日

[本]骨狩りのとき(エドウィージ・ダンティカ)




合コンの数合わせなんかで呼ばれた男子が、
「まあどうせオレなんか、刺身のツマだから」
などと卑下することがあるけれど、刺身のツマなら、まだいいのである。
刺身のツマは、まあ言ってみれば、その場限りの役である。パートタイムである。
刺身のツマである大根は、この場合は細く切られてまとめられ、つつましく寄り添っているだけなんだけど、そればかりではないのである。
刺身のツマは、仮の姿。
他の場所であれば、ふろふき大根やら鰤大根やらおでんやら、主役級の仕事をしているわけである。

ところが、似たような立場でも、パセリは違う。
刺身のツマと同様に、料理の添え物として出されるものであるけれど、パセリはどこまで行ってもパセリである。他で主役を張ることはない。
「今日のおかずは、パセリ炒めね」
ということは絶対ない。
たとえば付き合いはじめた彼女から、
「好きな野菜ある?」
と訊かれて、
「大根が好き」
と答えたとしたら、
「じゃあ今度、大根使って、何かつくってあげるね♪」
と笑顔で言われるだろうけど、これがパセリなら、どうか。
「パセリが好き」
なんて言ってしまおうものなら、
「ぎゃっ、パセリが好き? マジ? マジパセリ? ちょっとアンタ、変態じゃないの? そんな変態とは、付き合えません。別れさせてもらいます」
と、即座にフラれること間違いなしである。
あるいはまた、部長から、
「君は刺身のツマのような男だね」
と言われたとしたら、それは場合によっては、
「主役を引き立てる名脇役」
「サポート役として、プロジェクトに欠かせない人物」
というプラスの評価でありうるけれど、
「君はパセリのような男だね」
と言われたとしたら、それはどうあっても、
「いてもいなくてもどうでもいい人」
「っていうか、むしろ、いないほうがいいかも」
ということに違いないのである。

実社会ではそのような手ひどい扱いを受けているパセリだけれど、文学作品に眼を転じてみると、意外にも、貶められてばかりではない。
パセリを題材にした文学作品といえば、真っ先に挙げられるのは、鷹羽狩行のこの一句、
「摩天楼より新緑がパセリほど」
であろう。
一句を構成する13文字中、3文字がパセリ。実に23%がパセリからできているというパセリ文学である。
他にも俳句には、
「焼肉にうすみどりなるパセリかな」(飯田蛇笏)
「たべのこすパセリの青き祭かな」(木下夕爾)
など、パセリが主役を張っているものがいくつもあるわけなんだけど、では小説ではどうか。
パセリ俳句はあっても、さすがに、
「パセリ小説はないだろう」
と思ったあなた。ブー、残念でした。
ちゃんと、あるんです。
パセリ小説が。
それがこれ、エドウィージ・ダンティカ『骨狩りのとき』(作品社)。

何気なくこの作品を読みはじめると、70ページの次の一文に、ガガーン!!と打ちのめされてしまうのである。
《一握りの濡れたパセリで身体をこすっていた。》
えっ!!
パセリで、身体を洗うの!?
パセリで!?
えっ、えっ、パセリって、料理に添えるだけじゃないの!?
あってもなくてもいいような、むしろないほうがいいものじゃ、なかったの!?
しかも、それに続く一パラグラフが、これ。
《私たちはペシ、ペレヒル、パセリ(訳注:ペシはクレオール語、ペレヒルはスペイン語。ともにパセリの意)を使った。その、夏の朝の湿気を含んだ感じ、混じりあった小枝、とげが立ってごわごわして、それでいながら柔らかですなお、味がないけれど噛むと苦く、口の中には甘い風が流れ、葉と茎は違う味がする。このすべてを私たちは食物に、茶に、風呂にと楽しんだ。私たちの外側からも内側からも古い痛みや深い悲しみを取り除き、新しい年が明けるときに行く年のほこりを落とし、新生児の髪を始めて洗い、そして――ゆでたオレンジの葉とともに――亡くなった人の遺体を最後に洗った。》
諸君は、これほど熱くパセリを語った文章に、出会ったことがあるだろうか。
っていうか、パセリ、大活躍じゃん!

しかも、これはほんの序の口ね。
作中、身体を洗うよりももっと重要な役どころとして、パセリは出てきます。
ハイチ人の女性作家によるこの作品の舞台は、1937年のドミニカ共和国。
この年、ドミニカ共和国では、隣国(というか、イスパニョーラ島を分け合ってる、西側の)ハイチからの移民に対する大虐殺がおこなわれたのね。
ハイチはもともとフランス領、ドミニカ共和国はスペイン領で、お隣同士といっても仲は最悪。相対的に富裕だったドミニカ側にはハイチから移民が流入していたんだけど、第二次大戦直前のこのときには、ヒトラーの思想に傾倒していたドミニカ共和国の独裁者トルヒーヨが、民族浄化と国内の不満のガス抜きのために虐殺を指揮し、わずか数日で、2〜3万人のハイチ人移民が虐殺されたのだとか。

その虐殺に際し、ドミニカ人かハイチ人かを区別するために用いられたのが、われらがパセリ、だったんだって。
スペイン語で、
「ペレヒルと言ってみろ」
というのね。
ハイチ人は、
《声を震わせて出すrの音とjの精確な音の繋がり》
をうまく発音できないから、見た目がどれほどドミニカ人っぽくっても、バレちゃう、というわけ。
パセリはまさに、生死を分ける鍵。
人生のこの究極の場面において、これほどまでにパセリが重大な役を負わされたことが、人類史上、このとき以外にあっただろうか!

物語の語り手は、そのハイチ人移民のアマベル。
ドミニカの富豪に幼いころ拾われ、今は「バレンシア奥さま」と呼んでいるその一族の娘と一緒に育ち、サトウキビ畑で底辺の労働者として働くセバスチアンという恋人がいて、まあそれなりに平穏な生活のように見えるんだけど、語り手の気づかないところで時代の背景には黒々としたものが流れていて、たとえば冒頭、バレンシア奥さまが双子を出産したとき(とりあげたのは、ほかならぬアマベルだ)、奥さまの夫で軍人のピコさまは、知らせを受けて思いっきり車を飛ばしてきたせいで、ハイチ人移民をひとり轢き殺しちゃって、でも、悪かったなんて全然思っちゃいない。
そうこうしているうちに、国境あたりではハイチ人移民が虐殺されているという噂が流れてきて、アマベルたちが住む町でも、やがて‥‥。
そして、ハイチへと脱出しようとするアマベルも、国境の町で、ついに若い男たちに取り囲まれ、
《‥‥あごを無理やりこじ開けられ、口にパセリを詰め込まれた。できるだけ早く噛んで飲み込んだけれど、彼らが私の口に押し込む早さにはついていけなかった。
 ‥‥その女にどんどん食わせろと命令している声を聞かないようにしようと努めた。パセリを食べれば生きていられる、と自分に言い聞かせた。
 ‥‥私は咳き込み、噛んだパセリのしぶきを地面に飛ばした。不意に、誰かが私の背中の真ん中を強く蹴るのを感じた。誰かが拳大の石を投げて、あたしの唇と左頬が切れた。私は前にのめり、顔を地面にぶつけた。》
と、パセリは禍々しい悪役として存在感を発揮。
この小説を、「パセリ小説」と呼びたくなるのも、おわかりであろう。

アマベルはどうなるのか、恋人のセバスチアンは!? 彼らと一緒にいた人々の運命は‥‥!? というのは読んでのお楽しみとして(っていうか、そういうのにハラハラする小説じゃないんだけどね)、それはともかく、もしあなたが、昨日部長から、
「君はパセリのような男だね」
と言われて落ち込んでいるのだとしたら、この小説を読めば、
「パセリも、なかなか捨てたもんじゃないな」
と、きっと元気が出ると思います。



【こんな人におすすめ】
・パセリが好きな人
・昨日部長から「君はパセリのような男だね」と言われた人
・「あなたってパセリみたい」と言われて女子にふられた人

【こんな人におすすめしません】
・虐殺小説ファンの人(大虐殺を題材にした小説だけど、残念ながら、そんなに凄惨なシーンはありません)


posted by 清太郎 at 20:20| Comment(11) | TrackBack(0) | おすすめ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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