2009年04月30日

女子百家

エイプリルフールの「全裸で読む老子」でついでに考えた「天然ばくはつ! 老子たん」が気になっています。

老子たん表紙.gif

「無為自然」
をモットーとするからには、老子が萌えキャラ化した老子たんは、思いっきり天然キャラに違いないのです。
「あーっ、もう、老子たんったら、また、お金だけ払って、商品もらうの忘れて!」
「てへへ、またやっちゃった。でも、ほら、“取らんと欲する者はまず与えよ”ってゆーし」
「そんなの、あんたが言ってるだけでしょ!」
「しょぼん(´・ω・`)」
などということになります。

老子たんを叱ってるのは、老子なんかとまったく異なる立場の、えーと、たとえば法家の韓非子、いや韓非子ならぬ、
「韓ピコちゃん」
です。
実務的でキビキビした性格の韓ピコちゃんは、
「はにゃ〜」
などとぽわぽわしている老子たんに、いつもイライラさせられています。
「韓非子」の有名な故事、野良仕事をしていた人がある日、走ってきた兎が切り株でころり転げて思いがけず兎を手に入れることができ、それから野良仕事をやめて毎日切り株を見張ることにした、という「守株」の話も、友達の老子たんがモデルだったのかもしれません。いや、老子たんなら、大いにありそうです。
「きゃ〜、やだあ、韓ピコちゃんったら、あたしのこと、書いちゃダメぇ、恥ずかしい〜。ポカポカ」
「ふんっ、このくらいの余得がなけりゃ、あんたとなんかつきあってらんないわよ」
ということだったのでしょう。
老子たんの友達には、このように、孔子とか孟子とか韓非子とか墨子とか、春秋戦国時代のあのあたりの、いわゆる「諸子百家」の人たち(の萌えキャラ化)が勢ぞろいしているのです。

たとえば孔子たんは、背が高くてダイナマイトボディで、だからバレー部の部長あたりで。家では愛犬シロを飼ってます。
「論語」の中で、弟子の顔淵が嘆じる一節、「これを仰げばいよいよ高く、これを鑽(き)ればいよいよ堅し」と一見近寄りがたいように見えて、でも「夫子(ふうし)、循々然としてよく人を誘う」ということで、これはもう、わかりやすいツンデレキャラ。
顔(がん)ちゃんから、「部長のためなら、あたし、どんな恥ずかしいことも、できます!」などと、崇拝されてます。

孫コたんは兵家だけに積極的なイケイケキャラかと思いきや、実は慎重派でダウナー系。
「もう、孫コ、いい加減、コクっちゃいなよー、孫コならぜったいだいじょうぶだって!」
「まだ、ダメ」
「えー、どうしてよー、孫コ、あの人のこと、調べ尽くしてたでしょ」
「あの人のことは、わかった。でも、彼を知り己を知らば百戦してあやうからず。わたし、まだ自分のことを、知り尽くしていない」
見るに見かねた友達(縦横家の張儀たん)が、孫コたんの片思いの相手を引っ張ってきて、
「あたしが、自慢の弁舌で言いくるめて、連れてきてあげたわよ! ほら、もう観念して、コクっちゃいなさ‥‥、あれ? 孫コ、どこ? どこに行ったの?」
孫コ「‥‥三十六計、逃ぐるに如かず」

墨子はもちろん、
「ボッコちゃん」
ですね。夜は水商売関係のバイトをしてるミステリアスなセクシー美女なんだけど、難攻不落でどんな口説きにも落ちたことがない。実はロボットだといううわさもあります。
老子たん「ねーねー、ボッコちゃんって、どんなバイトしてるの?」
ボッコちゃん「‥‥水商売関係よ」
老子たん「水‥‥、上善は水の如し! なんかよくわかんないけど、すごい! 善なお仕事なのね゚:*。(*゚д゚)っ。*:゚」
韓ピコちゃん「老子たん、いや、それ、違うから、別に善じゃないから」

ということで、
「百花争鳴! 女子百家」
なんてタイトルで、「らき☆すた」っぽい四コママンガのシリーズ(掲載誌は「歴史街道」あたりで)にすれば、アニメ化も夢ではない!(かも。)
(ちなみに、これが当たったら、次は西洋哲学をネタに。ちょっと乱暴者のニーチェたんあたりをヒロインにして‥‥。)

posted by 清太郎 at 08:15| Comment(7) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月22日

上たんと中たんと下たん

岩波文庫の「罪と罰」、「アンナ・カレーニナ」、「トリストラム・シャンディ」。
ソフトバンク文庫のケン・フォレット「大聖堂」。
新潮文庫の隆慶一郎「影武者徳川家康」。
講談社文庫の宮城谷昌光「重耳」。
河出文庫のマンゾーニ「いいなづけ」。
いずれも、上中下の三巻本です。
スピードと効率性が求められる現代、三巻本というだけで、
「えっ、ちょっと‥‥」
と尻込みする人も多いことでしょう。
「3冊かけてひとつの作品を読む時間があるなら、一巻完結の3作品を読んだほうが効率的」
という意見も耳にします。

しかし、まあ、ちょっと待ちなさい。
上中下の三巻本だと思うから、いかめしいのです。尻込みしちゃうんです。
本ではなくて、たとえば、セーラー服の女子高生だと思ってみてごらんなさい。(女子高生じゃなくても、女子中学生でも女子小学生でもいいけど。)
三巻本ではなくて、
「三姉妹」
だと思うのです。
そうなると、
「三巻本は遠慮したいけど、三姉妹ならば、やぶさかではない‥‥」
という人も多いのではないでしょうか。
全3巻の作品には、一巻完結の作品では見ることのできない、めくるめく世界が広がっているのです。

上中下のそれぞれについて見てみると、まずは上巻あらため「上ちゃん」(「上たん」でも「上りん」でも「上ぴょん」でも何でもいいから、愛称で呼ぶといいでしょう)は、三姉妹の中ではいちばん愛嬌があります。比較的開けっ広げで、社交的な性格。
彼女のモットーは、
「本は見た目が9割」
第一印象にすべてをかけてます。
おかげで、上・中・下と似たような感じの3冊が並んでいても、ほぼ100%の人が、中身も読まずに、
「では、まず、上巻から」
と、上ちゃんに手を出します。それも、
「中も下も捨てがたいけど、うーん、やっぱり上にしよっかな」
などと逡巡することも、迷うこともない。
このことについて上ちゃんは、尻軽だのアバズレだの、
「誰にでもすぐページを開く」
だの、
「ちょっとめくられて、読み逃げされることが多いくせに」
だの、陰口を叩かれることもあるといいますが、まあそれはやっかみというものでしょう。
しばらく関係を結んだら、後腐れなくサッサと手を切る、そのサバサバとしたところも好印象です。

一方の下ちゃん(「下たん」でも「下りん」でもいいですが、おすすめの愛称は「しーたん」です)は、上巻とはまるで正反対で、一見したところ、なかなか近づきがたい。
上巻も中巻も読んでない間は、
「ちょっとアンタ、上も中も読んでないくせに、このあたしに声かけるつもり?」
と、取りつく島もありません。
それが上も中も読んだとなると、
「えっ、読んだの? 上も? 中も? あたしに、会うために‥‥?」
と、打って変わって、いきなり恥じらいの表情。
こちらも上と中を読破した勢いにまかせて、鼻息荒く、押しの一手。
「ああ、そんな、もっと、ゆっくり‥‥」
などというのもかまわず、一気呵成に最後まで読んじゃったりなんかして。
しかも三巻ものの結末は、わりと感慨深いものが多いから、読み終わってしばらくは愛しげに見つめちゃったりして、でもって、最後のあたりをまた読み返しちゃったりして、
「あ、やだ、読み終わったばかりなのに、また‥‥」
などということになって、少し前までのあのツンツンぶりはどこへ行ったのか、というほどに情愛こまやかなところを見せてくれたりして、その意味で下巻は意外にツンデレ。
「やっぱり、しーたんがいちばんです」
というファンが多いのも首肯できます。

これら上ちゃん・下ちゃんに比べて、真ん中の中ちゃんは些か影が薄いように思えます。
そそっかしい人などは、上のあとに中を飛ばしていきなり下を読んじゃって、読み終わってから、
「あれ? この小説、中もあったんだっけ? どうりで話が飛ぶなあと思ったんだよ。でも、まあ、いっか、もう読み終わっちゃったし」
ということも、ときどきあるそうです。
とはいえ、逆に、そうした奥ゆかしさこそが、中たんの持ち味であり、魅力なのです。
影は薄くとも、実力は上巻や下巻に決して引けを取りません。中巻がなければ、たとえば岩波文庫の「アンナ・カレーニナ」のアンナは出産しないし、マンゾーニ「いいなづけ」なら暴動に巻き込まれたレンツォがどうなったかわかんないのです。でも、その実力をあえてひけらかさないのが、中たんのいいところ。
キャラの立った上と中の間に挟まれて、ひっそり目立たずはかなげで、無口で小柄で色白で、
「思わず、守ってあげたくなっちゃうんです」
「中たんこそ、真の萌えキャラ!」
「いっときは中たんと別れて、しーたんと付き合ったこともあるけど、やっぱり中たんのことが忘れられない」
と熱く語る中巻ファンも、少なくありません。

※ただし、以上はあくまで上中下の3冊をセーラー服の女子高生(もしくは女子中学生、または女子小学生)だと見た場合の話であって、これが女子ではなく男子だと考えた場合、
「上巻と下巻の間に挟まれた中巻を見ると、ムラムラしちゃうんです」
「思わず中巻総受け本をつくっちゃいました」
「いや、むしろ中巻ヘタレ攻めで」
というBLファンも多いと思います。

ということで、次に上中下の三巻ものの長編を読む機会がありましたら、上巻・中巻・下巻ではなく、「上たん・中たん・下たん」だと思って読んでみてはいかがですか。
あるいは、いきなり下たんから読み初めて、
「ちょっとアンタ、いきなりあたしからって、何様のつもり?」
と、きついことを言われて悶える、というマニアックな読書もいいかもしれません。
posted by 清太郎 at 07:17| Comment(5) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月15日

活字離れ反対デモ

活字離れ、本離れと、さんざんいわれていますが、そう主張している業界の人の声がいまひとつ本気に聞こえない理由のひとつが、
「デモをしてない」
ということだと思います。
本当に真剣に人々の活字離れを憂い、このままでは本業界は危うい、いや、それどころか日本の将来も危ういのだ、日本の未来のために活字離れを断固阻止せねばならぬ、今こそ立ち上がるときだ、俺がやれねば誰がやる!
などと本気に思っているなら、
「国民よ、本を読め!」
「活字離れ、ハンターイ!」
と、威勢よくデモのひとつやふたつ、やってもいいのではないか。
ほら、北方領土とか米軍基地移転とか、よくわかんないけど、ときどきデモをしてますよね。ああいうのを見ると、まあその主張の当否はさておき、
「おつかれさん」
くらいは思うわけです。
それに対して、いかにネット上で、あるいは新聞・雑誌の誌上で「活字離れを憂う!」なんて書いてあったところで、そんなこといって、どうせ空調のきいた部屋の中でぬくぬくしながら書いてるんでしょ、などとその切迫感、差し迫った感は一向に伝わってこない。
デモ行進やってる人は、炎天下、あるいは寒風吹きすさぶ中、自分の足で歩いて、主張しているではないか、真に活字離れを憂いているのなら、自分の体を張ってみろ!と、思ったりもするのです。

「でも、そうは言っても、そんなデモなんてできるの?」
と思うかもしれないけど、いちおう日本国民の権利のようだし、その気になりさえすれば、実はわりとかんたんにデモはできる。
ということが、松本哉『貧乏人の逆襲』(筑摩書房)に書いてあります。これによると、デモだからって、いっぱい人集めて行列にする必要なんて全然ない、
「3人デモ」
でいい、というから(3人だけのデモでも、ちゃんと警察官が交通整理などしながら先導してくれる。おまわりさんに感謝しましょう)、飲みの席などで、
「よーし、デモするぞー!」
「おー、俺も行く行く」
「俺も俺も」
などと言質をとってしまえば、あっという間にメンバーはそろう。
そうして、
「活字離れ反対!」
「本離れを断固阻止せよ」
「本読まぬ輩を糾弾せよ」
などと書いたプラカードを高々と掲げ、あるいは垂れ幕をびらびら垂らし、拡声器を手に、
「活字離れハンターイ!」
「ハンターイ!」
「国民よ、本を読めー!」
「本を読めー!」
「本を読まないと、バカになるぞー!」
「バカになるぞー!」
と威風堂々、デモ行進を行うのです。

「で、それに何の意味があるの?」
と思う人がいるかもしれませんが、いや、あなた、これは単なるきっかけにしかすぎないのですよ。
だって、衰えたりとはいえど、世の中の巨大メディアの一角は、新聞と雑誌。彼らも、活字離れを危惧していることには変わりない、つまり同じ穴のムジナなんです。
たとえ参加者が3人だろうと、ひとたび活字離れ反対デモを行えば、新聞では、
「活字離れ反対デモ開催!」
と社会面でデカデカと、雑誌なら、
「時代は今、活字離れ反対デモ!」
などと緊急特集を組む勢いで、記事になること間違いなし。
すると、それを読んだ、何も知らない地方の書店経営者の団塊世代などが色めき立ち、
「昔取った杵柄、デモ行進なら、まかせとけ!」
とばかりに、ヘルメットと角棒を片手に立ち上がり、にわかに全国各地で活字離れ反対デモが勃発、志ある者がわれもわれもとデモ隊に身を投じ、その勢いはさながら燎原の火のごとく、もはや誰にも止められはせぬ。さらに情勢を察したレコード店あたりが、これに乗じて、
「CD離れ反対! 音楽ダウンロードなんかしてないでCDで聴けデモ」
などを組織し、テレビ業界も、
「テレビ離れ反対デモ」
を、クルマ業界も、
「クルマ離れ反対デモ」
を、ほかにも、
「若者の相撲離れ反対」
「若者の海外旅行離れ反対」
「学生の理科離れ反対」
「タバコ離れ反対」
「浮世離れ反対」
などなど、各地で多彩なデモが入り乱れ、そのうち活字離れ反対デモとクルマ離れ反対デモが街頭でぶつかったりなんかして、
「本なんか読んでたらクルマ乗れるかー!!」
「クルマ乗ってたら本が読めねーだろ!!」
と激高した双方が乱闘騒ぎを巻き起こして死者多数、などということになっても‥‥、たぶんおおかたの国民は、ケータイでそんなニュースでも見ながら、「ふーん、おつかれさま」など思うだけで、結局のところ活字離れは改善されない気がします。
posted by 清太郎 at 07:03| Comment(5) | TrackBack(1) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月01日

[本]全裸で読む老子

前回に引き続き、おすすめ本です。

全裸で読む老子.gif

「全裸で観るオリンピック」「全裸で釣るマグロ」「全裸で学ぶJava」などに続く春眠書房の「全裸で」シリーズ第8弾。
今回のテーマは、ズバリ、
「老子の読み方」
です。
「生まれたままの姿で畑仕事をしてこそ、本当の意味での無農薬有機野菜ができる」
と訴える「全裸で作る有機野菜」や、
「震えながら全裸で編んでこそ、本当に暖かなマフラーが編める」
と主張する「全裸で編むマフラー」と同様に、
「無為自然を説く老子は、服を脱ぎ、全裸で読んでこそ、理解することができる」
というのがテーマ。毎度のことですが、強引です。

注意してもらいたいのは、本書を読んだだけでは、老子の思想がどういうものなのか、ちっともわからない、ということです。
これまでのシリーズと同じく、本書に書いてあるのは、
「老子の思想とは何か」
ではなく、
「老子の思想はどうすれば理解できるか」
なんですね。
どういうことか。例を挙げればわかりやすいでしょう。
たとえば、よく知られている老子の言葉のひとつ、
「上善如水(じょうぜんはみずのごとし)」
この言葉について本書は、これがどういう思想的な意味を持っているのか、少しも解説していないわけです。
代わりに書いてあるのは、以下のようなこと。

《「上善は水の如し」、すぐれた善は水のようである、といわれても、何を言っているのだか、すぐには理解できないだろう。
 なぜ理解できないのか、それは、そもそも「水のようである」ということが、理解できていないからだ。
 では、どうすれば「水のようである」ということが理解できるか。
 諸君には、もうおわかりのことだろう。
 さあ、「老子」を片手に、近くの川や湖(できるだけ自然に近い場所がいい)に出かけ、服を脱ぎ捨て、全裸になり、思い切りよく水に飛び込んでみよう。
 あなたの全身の肌を通して、「水のようである」とはどのようなことか、そして「上善は水の如し」とは何を意味するのかが、きっと理解できるはずだ。》

これが右ページに書いてあって、左ページには、湖の中に腰のあたりまで浸りながら「老子」を読んでいる全裸の女子の写真。
こんな調子で、たとえば、
「禍福はあざなえる縄の如し」
のところは、《「あざなえる縄」がどのようなものか、あなたの肌で試してみよう。》と、全裸で縄を綯っている女子と、その縄で全身をがんじがらめに縛られている全裸の女子の写真。
ほかにも、「人を知る者は智、自らを知る者は明」では、《自らを知るとはどういうことか、それを理解するには、まず自ら虚飾を脱ぎ捨て、全裸になることから始めよう》、「取らんと欲する者は先ず与えよ」は《与えるということの真の意味は、全裸にならなくてはわからないだろう》など、読みすすめているうちに、なんだか「老子」は本当に、全裸で読んでこそ真に理解しうる言葉で満ちているように思えてきます。うーむ、なるほど‥‥。

老子について興味があって、「タオのプーさん」とか入門的な本をいろいろ読んでみたけどいまひとつよくわからない、という人は、一度この本を参考にしてみてはどうでしょうか。
などといって、どうせ、これまでのシリーズ同様、おそらくマニアックな全裸ファンしか買わないと思うのだけど。
ただ、欲を言えば、無為自然の老子の思想にこだわっているせいか、全裸の女子がみんな本当に何も身につけていないのが、ちょっと残念。全裸だけど眼鏡だけかけてるとか、全裸だけどネックレスだけしてるとか、そんな写真があってもよかったような、いや、これは私が残念だという意味ではなくて、そのほうがいいという全裸ファンも多いだろうなあ、ということですので、ゆめゆめ誤解なきよう。

【こんな人におすすめ】
・チャレンジ精神旺盛な人。
・本を読んでいる全裸の女子が好きな人。

【こんな人にはおすすめしません】
・こんな本が本当にあると思ってしまったウブな人。
(上の本の画像のリンク先もご覧ください。)

posted by 清太郎 at 08:21| Comment(11) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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