2009年01月30日

本の伝染病

※今回はやや品のない内容なので、女子中学生のかたはご注意ください。

本に伝染病が流行ったとします。
本を介した伝染病、ではありませんよ。本に感染する伝染病です。
人には無害ですが、本を手に取った人を介して、あるいは本と本が直接触れ合うことで伝染する、とします。
「何を荒唐無稽な」
などと侮ってはいけません。日進月歩の勢いで進化するバイオテクノロジーやナノテクノロジーは、両刃の剣。その暗黒面として、将来、
「無生物に感染するウイルス」
なんてものが生み出されないとは限らないのです。(現にパソコンだってウイルスに感染するわけだし。)
ウイルスに感染した本には、そうですね、たとえば、
「人名がすべて、スヴィドリガイロフになる」
という症状があらわれます。(スヴィドリガイロフは、「罪と罰」の登場人物です。)
これは怖い。この病気にかかったが最後、メロスもロミオも駒子もミス・マープルも涼宮ハルヒもスネ夫も、老若男女みんながみんな、ぜーんぶ、スヴィドリガイロフになっちゃう。(マンガの場合は絵があるからまだマシかもしれませんが、マンガだけに感染する「登場人物がすべてジャイアンになる」伝染病が発生しないとも限りません。)
名作の感動シーンも緊迫の場面も、台なしです。
《河原のいちばん下流の方へ州のようになって出たところに人の集りがくっきりまっ黒に立っていました。スヴィドリガイロフはどんどんそっちへ走りました。するとスヴィドリガイロフはいきなりさっきスヴィドリガイロフといっしょだったスヴィドリガイロフに会いました。スヴィドリガイロフがスヴィドリガイロフに走り寄ってきました。
「スヴィドリガイロフ、スヴィドリガイロフが川へはいったよ。」
「どうして、いつ。」
「スヴィドリガイロフがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとスヴィドリガイロフがすぐ飛びこんだんだ。そしてスヴィドリガイロフを舟の方へ押してよこした。スヴィドリガイロフはスヴィドリガイロフにつかまった。けれどもあとスヴィドリガイロフが見えないんだ。」》
もう、なにがなにやら。(「銀河鉄道の夜」の終盤です。)

こんな伝染病が流行ったら、どうするか。
もちろん、ワクチンや治療薬の開発は急務でしょうが、とりあえず予防策として一般読者にできることは、
「カバーをつける」
これに尽きます。
本屋さんで、
「カバーどうなさいますか」
などと聞かれて、けっこうです、なんて断っている人は多いと思いますが、マナー上、もうそれは許されませんよ。必ずカバーつけなきゃなりません。
本屋や図書館はもちろん、同級生のタカシくんなどから、
「おい、タケダ、おまえ佐藤哲也の『沢蟹まけると意志の力』持ってるんだって? こんど貸してくんない?」
といわれた場合にも、
「いいけど‥‥、ちゃんと、つけてね」
ということになります。
ところがタカシくんはいい加減な男だったりして、カバーなんてうざったいと、こっそり外して読んじゃったりする。数日後、タカシくんに本を返してもらうと、タイトルがいきなり「スヴィドリガイロフと意志の力」。青ざめたタケダさんが慌てて本をめくると、ああ、なんたること、沢蟹まけるからイカジンジャーまで、キャラ全員がスヴィドリガイロフになっていて、
「ひどいっ、タカシのバカっ、ちゃんとつけてって、言ったじゃない! どうしてくれるのよ! 責任とってよね!」
ということになります。絶版本ですよ! タカシくん、ちゃんと責任とりなさい。

一部の識者からは、
「いい機会だから、紙の本は廃止して、ぜんぶ電子書籍にしちゃえば?」
という、まあ至極まっとうな意見も出ますが、しかしそうなっては本屋さんの立つ瀬がありません。
日書連などは、躍起になってカバー着用キャンペーンを展開することになりますね。着用強化月間には、駅や電車の中、街角に、ほしのあきがカバーを手にした、
「ちゃんと、つけてる?」
なんていうキャッチコピーのポスターがあふれることになります。

多くの読者のかたは、マナーを守って、ちゃんとカバーをつけることでしょう。しかし、本は単なる紙の束ではありません。
「あの表紙の感触、つるつるした、あるいはザラザラした、その本独自の表紙の感触を楽しみながら読んでこそ、真の読書というものです」
「カバーをかけて本読むくらいなら、ケータイで読んだほうがマシ」
「本はナマに限る」
という「ナマ読み派」が必ずいるはずです。
本屋さんもいろいろ配慮して、そちら方面に強いメーカーなどと協力して、業界最薄、厚さわずか0.02ミリの、
「極薄カバー・ジャストフィットうすうす」
などを開発したり、あるいはまた店頭で色っぽい女性店員さんが、
「うふふ、お口でつけてあげる」
と特別サービスしたりするわけですが、ナマ読み派を根絶するにはいたりません。マラリアを媒介する蚊のように、ウイルスの媒介者が存在する限り、病気の根絶は難しいでしょう。
ああ、あやうし、本屋さん。

しかしまあ、考えようによっては、こういう危難の最中にこそ、本読みとしての真の力量と真の愛情が試される、というものです。歳寒うして然る後に松柏の凋むに後るるを知る、というやつですね。
伝染病に罹患し、登場人物の名前がすべてスヴィドリガイロフになってしまった吉川英治「三国志」などを手にして、
「それでも僕は、この本を読み続ける!」
と天に向かって絶叫してこそ、真の本読み者といえるのかもしれません。
posted by 清太郎 at 07:20| Comment(11) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月26日

ライトノベル「高慢と偏見」

先日の「ハーレクインにする」の末尾に、
「ラノベにする」
というのもありなのでは、と何気なく書いたわけですが、後であらためて考えてみたところ、ありどころか大いに推奨!のような気がしてきました。
ラノベにする、といっても、もちろん、内容はそのままですよ。話をつくりかえて、たとえばラスコーリニコフに殺された老婆ふたりがゾンビとなってよみがえったりすることには、なりません。あくまで、見た目だけ、の話です。
しかし、見た目だからって、バカにはできません。「人は見た目が9割」といいます。本だって見た目が、たぶん8割くらい。ちょっと難しそうな文学作品でも、人気の漫画家が表紙イラストを描いたりするとジャンジャカ売れることがある、というのは集英社文庫の「人間失格」が証明したとおりです。

ただ、「人間失格」や、あるいは昨年の「こころ」や「地獄変」、「伊豆の踊子」などは、表紙のイラストを差し替えただけでした。
ほかはすべて、タイトルも裏表紙のあらすじも、もちろん中身も、すべて旧来のまま。カバーを外してしまえば、これまでの「人間失格」や「こころ」と何ら変わりがありません。
それでは、つまらないのではないか。
どうせなら、本文中にも挿絵をいっぱい入れ、裏のあらすじももっとおもしろそうにして、タイトルは、まあ日本の作品を改題することはできませんが、海外の作品ならば邦題をアレンジしてみる。そのくらいのことをしてもいいのではないかしら。
「何をいう、小賢しい。文学作品は、中身で勝負だ!」
などと正論を吐く人がいるかもしれませんが、しかし今の時代、なりふり構っているわけにはいきません。本だって、所詮、商品。どんなに優れた作品も、読者が手に取らなければ、読まれることはないのです。それに、美麗な挿画を載せたりして、モノとしての本の価値を高めれば、電子書籍にも対抗できるはず。
何より、中身で勝負できる作品こそ、一度手に取らせてしまえばこっちのもの、なんです。可能な限りハードルを低くして、十代の若い子の嗜好にドカンとうったえるような体裁を考えてもいいのではないでしょうか。

たとえば、ジェーン・オースティンの「高慢と偏見」。
映画「プライドと偏見」や「ジェイン・オースティンの読書会」のおかげで、これが恋愛小説であることを知っている人は増えたことでしょう。内容は、もう思わず足ジタバタ級の王道ラブコメ。ラノベにするにふさわしい作品ですが、しかし、何も知らない女子中学生が岩波文庫の棚に並んでいるこの作品を見て、
「わ〜、おもしろそう〜!」
と手に取るとは思えません。
それを、ラノベ好きの十代の子でも思わず手に取っちゃうようにするには、どのような体裁にしたらいいでしょうか。

まず、タイトル。
「高慢と偏見」あるいは「自負と偏見」では、いかにも硬い。「高慢」も「自負」も「偏見」も、いずれもいかめしいですね。親しみやすいのは、「と」の字だけです。
私は十代のころ、本屋さんに並んでいる背表紙だけ見て、何やら哲学的な難解な作品だと思ってました。(ついでに作者のことも男だと思ってた。オースティンって言語学者もいるし。)
このタイトルを何とかしたいものです。若い子が親しめるようなものに変えたい。
もちろん、文学作品の翻訳ですから、いきなり、
「涼宮ハルヒの高慢」
「ハリー・ポッターと自負と偏見」
などにするわけにはいきません。ここはひとつ、われらが日本語の必殺技、
「四文字の短縮語にする」
という手を使ってみましょう。マンガやアニメでも常套手段のようだし(「キミキス」とか「かのこん」とか「つよきす」とか)。
「高慢と偏見」を短縮すると、こうなります。
「こうへん」
‥‥。
うーん、なんだかイマイチっぽい‥‥。肝硬変を連想しそう。
あるいは、「自負と偏見」を縮めることにして、
「じふへん」
‥‥。
これも、ダメっぽい気が‥‥。
たぶん「へん」がいけないのだ。
あたまの二文字をとるんじゃなくて、こうしてみるとか。
「こまへけ」
‥‥。
短縮語にする、というのは、無理だったかも‥‥。

いや、それなら、原題「Pride and Prejudice」をそのまま縮めればいいのではないか。
「プラプレ」
あ、なんとなく、いけそうな気がしてきました。
どうせなら、ひらがなにして、
「ぷらぷれ」
おお、なんだか、ラノベっぽくなってますよ! タイトルはこれでいきましょう。

さて、タイトルが決まったら、表紙ですね。
ラノベは表紙が命。ちょっと萌えな感じの、それっぽいイラストがなければ、正しいラノベとはいえません。
ということで、試しに描いてみました。
これ。

表紙(帯なし)GIF変.gif

‥‥萌え絵っぽくしようとがんばったんだけど、なんだか世界名作劇場テイストになってしまった‥‥。(アニメ絵風に影をつけてはダメだったのかしら。っていうか、描き方がそもそも古いのかしら‥‥。絵描くのって、難しいのね。)
ラノベファンのかたからは、
「こんなの、ラノベとはいえません」
とバッサリ切り捨てられそうですが、まあ、そこはそれ、ここにお好みのイラストレーターさんの絵が入っていると思ってください。
で、どうせなので、帯もつけてみました。
こんな感じ。

表紙(帯あり)GIF変.gif

あ、なんか、ちょっと、あなた、なんとなく、ラノベな感じじゃありませんか?
これでもっと絵が萌えな雰囲気ならよかったのですが、まあ方向性は間違ってないはずです。

そして、裏表紙には、あらすじ。
これももちろん、ラノベ風にライトな感じにしたいものです。
以下のようなのは、ダメです(ちくま文庫の新訳「高慢と偏見」)。

「元気はつらつとした知性をもつエリザベス・ベネットは、大地主で美男子で頭脳抜群のダーシーと知り合うが、その高慢な態度に反感を抱き、やがて美貌の将校ウィッカムに惹かれ、ダーシーへの中傷を信じてしまう。ところが…。ベネット夫人やコリンズ牧師など永遠の喜劇的人物も登場して読者を大いに笑わせ、スリリングな展開で深い感動をよぶ英国恋愛小説の名作。」

‥‥あらためて引用してみると、このあらすじ、なんだかひどいですね。「元気はつらつとした知性」の持ち主のはずのエリザベスが、単なる軽薄女にしか見えません。
この物語のポイントのひとつ、若草物語を上回る「五人姉妹である」という点を含めつつ、たとえば、こんな感じではいかがでしょうか。

「女だらけの五姉妹で今日もにぎやかなベネット家。彼女たちが暮らす田舎町に、美形の青年資産家ビングリーが別荘を借りて引っ越してきたから、さあ、たいへん! 娘たちのひとりをビングリーとくっつけようと、五姉妹の母ベネット夫人の大奮闘が始まった! ある晩、舞踏会で、次女リジーはビングリーの親友ダーシーと出会う。第一印象は、「何この男、チョー最悪!」。でも、運命は、やがて二人を‥‥! 世界文学史上最強の「ツンデレ×ツンデレ」カップルが高慢と偏見の限りを尽くす王道ラブコメ、堂々の開幕!」

翻訳は、できれば新訳あるいは改訳で、原文に忠実というより日本語としてわかりやすい表現にしたいところです。
挿絵も、なるべくふんだんに。カラーの口絵があってもいい。
最初のところには、イラスト入りで登場人物紹介があってもいいですね。
たとえば‥‥。

002リジー.gif
リジー(エリザベス)
ベネット五姉妹の次女。知的だが、思い込みが激しい頑固者。はじめはダーシーの高慢な態度に反発するが、やがて‥‥。

001ジェーン目位置変更.gif
ジェーン
ベネット五姉妹の長女で、誰もが認める美女。無垢で世間知らずでほわーんとしていて、見た感じちょっとオツムのほうがトロそうで、それでいてカラダのほうはけっこうムチムチでボインボインだったりして、見ていてハラハラしちゃうのだけど、実はわりとしっかり者で面倒見がよい保母さんタイプ。ビングリーに惹かれる。

003メアリー三女.gif
メアリー
ベネット五姉妹の三女。容姿にコンプレックスを持っており(でも、ふたりの姉が美人過ぎるだけなので、メアリー本人もかなりかわいいはず)、おかげで性格がひねくれている。本ばかり読んでいて知識をひけらしたがる本オタク。

004キティ四女.gif
キティ(キャサリン)
ベネット五姉妹の四女。主体性に欠けていて、妹のリディアに引きずられっ放し。頭の中にあるのは常に、男、および結婚。

005リディア五女目色変更.gif
リディア
ベネット五姉妹の五女。16歳。性格は母親似で下品。バカで出しゃばりで自己チューで、なおかつアクティブ。後にとんでもないスキャンダルを起こす。

他にもベネット夫妻や、ダーシー、ビングリー、ウィカムやコリンズ牧師などがいるわけですが、力尽きたので省略。ともあれ、こうして絵が入っていたほうが、読者の想像を多少阻害するというデメリットはあるにせよ(「メアリーは眼鏡っ娘じゃないやい!」とか「キティたんはツインテールのはず!」とかいった意見があるでしょうし)、とっつきやすいんじゃないかと思います。

‥‥と、まあこんな感じの見た目にして、ライトノベルコーナーに平積みにしておけば、文学なんてものに縁がなかった中高生も、間違って買っちゃうはずです。
そうして、読み始めてしばらくして、間違って買ったことに気づくのですが、時すでに遅し! そのころには続きが気になって、やめられなくなっているはずです。

この「高慢と偏見」のように、見た目は取っ付きにくいけど、中身は中高生にもやさしくて、しかも、もう大興奮の七転八倒! という作品は、「ジェーン・エア」やら「トム・ジョウンズ」やら「危険な関係」やら「いいなづけ」やら、まだまだいっぱいあるわけですから、光文社古典新訳文庫に対抗して、
「クラシカルライトノベル文庫」
とか何とか、こんな感じの文庫シリーズにしてもいいのでは、と思います。
新潮社あたりで、実現しないかしら。
posted by 清太郎 at 23:46| Comment(8) | TrackBack(1) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月20日

【太宰治生誕百年記念】太宰治体感旅行

昨年は、日本近代文学史に燦然と輝く国木田独歩の没後百年という節目の年だったというのに、赤毛のアン百年や源氏物語千年紀に比べて、というか比べずとも、さっぱり盛り上がることがありませんでした。ガッカリです。
しかし、今年は違いますよ。独歩よりも圧倒的にファンが多い太宰治の生誕百年なのです(中島敦、埴谷雄高、大岡昇平、松本清張の生誕百年でもあるけど。太宰と清張って同い年なのね‥‥)。太宰ゆかりの各地(および太宰と何のゆかりもない各地)で、さまざまな太宰治関連イベントが開催されるはずです(たぶん)。もちろん、本ブログでも、これまで何度もネタ元としてお世話になっている義理もあることですし、全面的に支援しますよ。今年はつとめて多めに太宰関連ネタをアップしていきたいと思います。(もっとも、それだけの更新頻度があれば、なんだけど。)

さて、太宰関連のイベントとして、当然、
「太宰治ゆかりの地をたずねるツアー」
が企画されているはずです。太宰の生地である津軽の金木をめぐって(かなり観光地化されているようです。「走れメロス号」という列車が走っていたり、太宰ラーメンなんてものもあるとか)、名作「津軽」の乳母たけをしのびながら、八重桜の花をむしったり、あるいは「富嶽百景」の舞台となった天下茶屋(太宰が使った火鉢やら机やらが保存されている)に行って、月見草を摘んだり‥‥。
ただ、その程度では、筋金入りのダザイストは満足しません。っていうか、津軽や天下茶屋なら、生誕百年を待たずとも、とっくの昔に見物してきた、
「『富嶽百景』の井伏氏をまねて、三ツ峠でゆっくり煙草を吸いながら、放屁してきましたよ」
というファンも多いことでしょう。

そんな太宰ツウのために、もうちょっとマイナー作品にゆかりの、こんなツアーはどうでしょうか。
たとえば、
「太宰の名作『佐渡』を追体験するツアー」
「佐渡」といえば、男のひとり旅のしょんぼりな真実を凝縮した、まさに太宰の面目躍如たるしょんぼり紀行小説です。作中で太宰が味わったしょんぼりな気持ちを、リアルに体験してみるツアー。なんだかマニア心がそそられませんか。
新潟から船で佐渡に渡って、宿泊先の女中さんは選りすぐりの無愛想女。ためしに、
「内地へ、行って見たいと思うかね」
と質問すると、当然、答えは素っ気なく、
「いいえ」
のひと言。キターッ、「いいえ」キターッ! と、これだけでダザイストは悶絶です。
夕ごはんは、宿ではなくて、外の料亭で。その料亭が、作中通り、
《この料亭の悪口は言うまい。はいった奴が、ばかなのである。》
ああ、そしてそして、お待ち兼ねの芸者さん登場。もちろん、これも作中通り、
《君は芸者ですか? と私は、まじめに問いただしたいような気持にもなったが、この女のひとの悪口も言うまい。呼んだ奴が、ばかなのだ。》
うわー、しょんぼりだー! ダザイスト号泣。鼓腹撃壌。
「太宰と同じしょんぼりな気持ちを味わった!」
「僕と太宰の心が、今、時空を超えてつながった!」
「今、この瞬間、僕は太宰になった‥‥」
ダザイストの皆さんは、恍惚の表情を浮かべながら、満足して帰っていくに違いありません。

「名作『美少女』体感ツアー」
なんてのもいいですね。
太宰は昭和14年、井伏鱒二の媒酌で石原美知子と結婚すると、8ヶ月ほど甲府の新居で過ごしました。そこから歩いて二十分ほどの大衆浴場へ行ったときのエピソードを小説にしたのが「美少女」です。
温泉に入りながら、ダザイストに人気(たぶん)のこの作品を体感しましょう、というツアー。
宿泊先は、甲府・湯村温泉の「旅館明治」です。
この旅館で太宰は後年、「右大臣実朝」や「正義と微笑」を執筆したそうで、まあ熱心なダザイストの中には、
「そこだったら3年に1度は泊まりに行ってますけど」
と不満を漏らす人がいるかもしれませんが、まあまあ、だまされたと思って、ほら、ささっと、お風呂の方へ‥‥。
なんだかよくわかんないけど当時太宰が浸かった大衆浴場が、この「旅館明治」の大浴場になっているそう。
ウブな女子ダザイストのかたは、
「ああ、あたし、今、太宰と、時を超えて、時間差混浴‥‥」
と胸をときめかせるかもしれませんが、このツアーはどっちかというと男子向けです。
皆さんほどよく温まったころ、いきなりガラガラと戸が開いて、じゃじゃーん、待ってました、
《十六、七であろうか。十八、になっているかも知れない》
美少女の登場です。
もちろん皆さんダザイストですから、つつましく目をそらしたりしませんよ。
《私は、ものを横眼で見ることのできぬたちなので、そのひとを、まっすぐに眺めた。》
という太宰になったつもりで、思いっきり凝視です。
その美少女たるや、まるで作品から抜け出てきたかのように、
《一重瞼》
で、
《眼尻がきりっと上って》
《唇は少し厚く》
《野性のものの感じで》
《清潔に皮膚が張り切っていて、女王のようである》
その彼女が、
《ちっとも恥じずに両手をぶらぶらさせて私の眼の前を通る》
のである。
ああ。
《ぴちっと固くしまった四肢》
あああ。
《なめらかなおなか》
そしてそして、
《コーヒー茶碗一ぱいになるくらいのゆたかな乳房》
ダザイスト、鼻血。水しぶきを上げて、轟沈。

お金に余裕があるかたは、海外旅行もいいでしょう。
「走れメロス」ゆかりのシラクサ(シチリア島です)へ行く、
「お得なWプランで名作『走れメロス』を体感しよう! 素っ裸で街中を駆け抜けるメロスプラン&群衆の真ん中ではりつけにされるセリヌンティウスプラン」
などがおすすめです。
posted by 清太郎 at 09:03| Comment(7) | TrackBack(1) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月16日

生物と無生物のあいだの結婚

先日、「ハーレクインにする」で、もし「生物と無生物のあいだ」の表紙がハーレクインだったら、知らない人から見れば、

《ああ、生物と無生物、その断絶を超えた禁断の愛が今ここに! 「あたし‥‥、マネジャーのジェイクのうちの‥‥、れ、れ、冷蔵庫が好きになってしまったの!!」 色白で頼もしい冷蔵庫との愛におぼれるシャノン。「オッオー! シャノン、きみはうちのキッチンで、いったい何をしてるんだい?」「ジェイクっ、違うのっ! これには、わけが‥‥!」 一人と一台の愛の逃避行が始まった‥‥!》

という内容の本に見える、ということを書きました。
そのあと実は、どこかに何かが引っかかったような気分だったのですが、昨日になってふと思い出しました。
「生物と無生物、その断絶を超えた禁断の愛」
先行事例が、ちゃーんと、あったんです。
光文社古典新訳文庫の一冊、ロダーリ「猫とともに去りぬ」の一編、
「恋するバイカー」
20ページに満たない短編です。

18歳の青年、エリーゾが、あるとき、
「パパ、僕、結婚しようと思うんだ」
と、お父さんに紹介したのが、なんと、日本製のバイク。当然、お父さんは猛反対。エリーゾはバイクに乗って出奔。
まさに、
「一人と一台の愛の逃避行」
です。でもこのバイク、なかなか手がかかります。いろいろ改造を要求されるうえ、ついには「シートのかわりに歯科医用のリクライニングチェアーが欲しい」なんてことになって、エリーゾはローン返済のために1日20時間働くことになり、やがて二人の、ではなくて一人と一台の間に微妙なすれ違いが生まれ、そしてある晩、バイクは泥棒に盗まれちゃう。失意のエリーゾが、うちに連れ戻される途中で、ひと目惚れしたのが、とあるショーウィンドーの中の、
「洗濯機」
バイクで失敗したお父さんも、今度はしぶしぶ結婚を承諾。お母さんのほうは、むしろ大喜びです。
「考えてみてもくださいな! お嫁さんが洗濯機なのよ! モデナ県のどこをさがしても、そんな姑は私ひとりだわ。それに洗濯をするときだって、とっても便利でしょ?」

この作品が教訓として示しているのは、生物と無生物の禁断の愛に対して、周囲の人間に必要なのは、このお母さんのようなポジティブシンキングなのではないか、ということです。
晩婚化、非婚化が進展し、ますます価値観が多様化している現代日本、いずれ自分の娘が、
「あたし、今度テレビと結婚したいの」
と言い出さないとも限りません。
そんなとき、お父さん・お母さんは、無下に反対したりしてはいけませんよ。「恋するバイカー」のように、娘はテレビと出奔、
「一人と一台の愛の逃避行」
が始まってしまうかもしれません。
いかに薄型になってきたとはいえ、それなりに重いテレビをひしと抱えた娘が、ようやくたどり着いた北国の小さな町の狭いアパート。バイトで日銭を稼ぐ彼女は、深夜疲れきった顔で帰ってきては、そっとテレビをつけて、うるんだ声で「あなた‥‥」と呼びかける‥‥。
「恋するバイカー」同様、苦労するのは娘の方です。親として、かわいい娘に、こんな暮らしをさせるのは、しのびないはず。
むしろ、ここはひとつ度量のいいところを見せ、
「子どもができたら、旦那さんがいつも面倒を見てくれそうね」
などと、鷹揚に構えていたいものです。

posted by 清太郎 at 23:00| Comment(4) | TrackBack(0) | おすすめ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月10日

定額給付金で本を買う

定額給付金問題が迷走していますね。
2兆円もあれば、ひとつのことにドカンと使った方がよほど効果と意義がありそうなものですが、それがなかなかできないところが政治の世界のよくわからないところです。
中止・廃案になる可能性もありますが、実施されることになったら、素直に受け取って(拒否すると、その手続きにまたコストがかかりそう)、景気浮揚のためにパッパと使っちゃうべきかもしれません。

ということで、話題が旬のうちにこの企画。
定額給付金をもらったら、全額、本に使ってはいかがでしょうか。

給付金は、ひとりあたり12,000円。18歳以下、65歳以上は20,000円です。これだけあれば、日ごろはためらうハードカバーの単行本が何冊も買えますぜ。
「でも、いきなり本買えっていわれても、何を買ったら‥‥」
と、迷ってしまう人も、多いことでしょう。
そんなアナタ!
よーし、まかせなさい。その給付金、全額ワタクシにお預けください!
今ならローリスク・ハイリターンで、とっておきの本を斡旋いたしますよ。ゲヒヒ‥‥。

ただ、やみくもに本を紹介するのも芸がないですから、とりあえず紹介する相手は職場の後輩タカナシさんの妹、アズサちゃんということにしてみましょう。
タカナシさん相手に紹介してもいいのですが、20代の彼女に支給される額は12,000円。17歳のアズサちゃん相手なら20,000円まで使えるのですから、そっちのほうが選び甲斐があります。
アズサちゃんは、もう本大好き読書大好き!というほどではありませんが、活字ばかりの本に何の抵抗もない程度には本好きです。
「昨年読んだ本でおもしろかったのは、学校の図書館で借りた『一瞬の風になれ』」
ただし腐女子ではありません。
成績はけっこうよくて、理数系もよくできるけど、いちおう国立文系狙い。髪が長くて色白で、パッチリした目が印象的で、手足が長くてセーラー服(とくに夏服)がよく似合う、そんな女の子、ということにしましょう。

このアズサちゃんに、どんな本をすすめればよいのか。硬すぎず軟らかすぎず、知的で、スッキリした感じで‥‥。
ただし、定額給付金は景気対策のためでもあるのですから、できればマイナー出版社を応援できるようなセレクトをしたいところです。まあ小学館とか講談社とか大手を避けて、中堅出版社以下の本としましょう。
でも、古本じゃないと手に入らないのはダメ。Amazonで買えるような新刊の中から選んでみましょう。
また、写真集や画集の類、それとマンガは除外します。特に理由はないけど。
もちろん、1社につき1作品ずつ。著者も重複しないように、というのは基本ですね。
総額は20,000円。これを1円でも超えたらドボンです。
むふー、こういうの考えるのって、楽しいよね。
ということで、選んだのが、以下の10作品11冊。いかがでしょうか。

「学校をつくろう!――子どもの心がはずむ空間」
工藤和美著 TOTO出版 1,575円
建築家が書いた建築の本。なのに、泣ける! 日本の教育も、まだまだ捨てたものじゃないです。

「バレエダンサー」(上・下)
ルーマ・ゴッデン著 渡辺南都子訳 偕成社 上下各1,890円
バレエに目覚めた天才少年の受難と成功の物語‥‥、と思いきや、その姉の挫折と成長の物語、でもあって、十代のうちに読んでおきたいヤングアダルトの傑作。

「ウィリアム・ブレイクのバット」
平出隆著 幻戯書房 2,940円
詩人のエッセイ集。装丁が、もう頬擦りしたくなるくらいステキ。内容は、草野球および野球一般、空想の国の切手を描いて30歳で焼け死んだドナルド・エヴァンズ、自動車免許取得。

「枕もとに靴――ああ無情の泥酔日記」
北大路公子著 寿郎社 1,575円
哀しいほどに笑えて、ときにしんみり。こんな大人になっちゃいけない見本が、ここにあります。

「中二階」
ニコルソン・ベイカー著 岸本佐知子訳 白水社 998円
中二階のオフィスへつながるエスカレーターに乗ってから降りるまでを描いた、ユーモアたっぷりの超微視的小説。

「クマとナマコと修学旅行――僕と僕らの探検記」
盛口満著 どうぶつ社 1,575円
当代随一の生物学エッセイの書き手による、生き物いっぱい修学旅行。知的好奇心をそそられます。

「象を飼う――中古住宅で暮らす法」
村松伸著 晶文社 1,890円
著名建築家がデザインした著名住宅の中古物件。購入したときには、リビングにキノコが一本生えていた‥‥。ユニークな家住まいエッセイであり、さりげない子育てエッセイでもある。

「野生馬を追う――ウマのフィールド・サイエンス」
木村李花子著 東京大学出版会 2,940円
馬の群れを追って世界各地の原野に身を潜めてきた女性研究者によるフィールドワーク報告。科学者ならではの静謐な観察眼と、歌うがごとく詩的な言葉による表現が、たまりません。

「「忘れられた日本人」の舞台を旅する――宮本常一の軌跡」
木村哲也著 河出書房新社 1,890円
寝袋かついで放浪しながら、反骨の民俗学者・宮本常一の著作「忘れられた日本人」ゆかりの人たちをアポなしで訪れる、という、なんだか「突撃!隣の晩ごはん」的さわやか青春民俗学ルポ。

「日の名残」
カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳 早川書房 798円
英国執事の抑制された日常と抑制された愛。失われゆく伝統、かげりゆく光。いぶし銀に光る英国小説らしい英国小説。

で、以上、総額19,961円。
うーむ、見直してみると、日本人の小説が一冊も入ってないし、っていうか3作挙げた小説は全部イギリスの作品だし、10作品中に生物学ものが2冊、建築ものが2冊、という甚だしい偏りぶり。いちおう国立文系志望のアズサちゃんに対して、こんなリストでいいのかしら、と思わないでもないけど、いいのだ、アズサちゃんは理科も得意なんだから(勝手な設定だ)。

「野生馬を追う」のかわりに武田百合子「富士日記」全3巻(中公文庫 計2,940円)にしようか迷ったのだけど、いや、「富士日記」なら、別に今回の給付金を使わずとも、この先の人生でいくらでも出会う機会があるでしょう、ということで見送り。
また、ニコルソン・ベイカーなら「フェルマータ」(白水社 1,155円)もいいのだけれど、超能力で時間を止められる青年が女子の服を脱がしまくるという内容なので、こんなのをすすめたらアズサちゃんから嫌われそうなので断念。同様の理由で、女子トイレのぞき小説「青春と変態」(会田誠著 ABC出版 1,575円)も却下しました。

総額20,000円というのがなかなか難しくて、晶文社では「象を飼う」の代わりに、これこそ学生さんにすすめたい「自分の仕事をつくる」(西村佳哲著 1995円)を入れたかったのだけど、残念ながら20,066円になっちゃう。あるいは「クマとナマコと修学旅行」よりも、本当は「ネコジャラシのポップコーン」(盛口満著 木魂社 1,680円)のほうが発見的で知的におもしろいのだけど、やっぱり20,066円でドボン!
うーむ、総額20,000円は税抜き金額にすればよかった(当初の目的からはずれてます)。

ということで、17歳のアズサちゃんではない読者の皆様にも、定額給付金で本を買う際に、少しは参考になりますでしょうか。
私は、定額給付金もらったら、どうしようかな‥‥。どうせ12,000円だし‥‥。たぶん本なんか1冊も買わずに、おいしいもの食べてパッと使っちゃうと思います。(ダメじゃん)
posted by 清太郎 at 16:03| Comment(13) | TrackBack(0) | おすすめ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月08日

猿蟹合戦でいいのか

えー、遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

NHK大河ドラマ「天地人」の第1回視聴率が「篤姫」のそれを上回ったそうですね。
私も、本も読まずに呆けながら見るともなしに見ていたのですが、これはあれですね、直江兼続&上杉景勝といえば、兼続×景勝か、景勝×兼続か、頭の中でシミュレーションするだけで、
「ごはん軽く十杯いけます」
と名乗りを上げる猛者も多いという戦国王道カップリングで、ドラマの方もそのあたりをそれなりにわきまえたうえでのつくりに見えます。大河ドラマなのにこんなに腐女子向け企画でいいのでしょうか。
十代の頃「炎の蜃気楼」(読んでないのでよく知らなかったけど、同じ直江・上杉とはいっても信綱・景虎なのね)を読んで、いまだBLなどと呼ばれていなかったこの道に足を踏み入れ、研鑽を積み、そうして腐女子などと名がつく以前にきれいに足を洗ったはずの女子の皆さんがこのドラマを見て、結婚あるいは出産をきっかけに封印したはずのおぞましい黒い血が、
「私の身体の奥底で‥‥、再び、たぎろうとしている‥‥」
ということにならないか、心配です。
今から数カ月後、さいきん妻の様子がおかしい、週末にこそこそ出かけるし、メールの中身を隠すし、引き出しにいつの間にか鍵がかけられている、ということがあったら、浮気よりも前にBL同人を疑ったほうがいいかもしれません。

ともあれ、未曾有の経済危機が待ち受けている今年、消費のキーワードのひとつが引き続き「腐女子」であることは間違いないわけで、当ブログでもなるべくそのあたりをカバーしていきたいと思います。

ということで、テーマは脈絡もなく、猿蟹合戦。
猿蟹合戦でいいのか、である。
古来より我々は、猿と蟹が出てくるあの昔話を、猿蟹合戦、猿蟹合戦と呼び習わしている。そして、そのことに微塵も疑問を呈してこなかった。
猿蟹ではない、
「蟹猿合戦でもいいのではないのか」
という意見があってもよさそうなのに、まるで聞いたことがない。
猿蟹でも蟹猿でもどっちだっていいじゃない、などというなかれ。物語を味わうにあたって、そんななおざりな態度ではいけない。少なくとも腐女子のかたなら、なるほど猿蟹か蟹猿かでは大いに異なる、少なくとも兼続景勝か景勝兼続くらいの違いはある、と賛同するであろう。
そう、今、我々が必要としているのは、その繊細さなのだ。
猿蟹合戦の語に何ら疑問を抱かなければ、この物語は、文字通り猿と蟹の合戦の話でしかない。そこにはただ、争いが、憎しみがあるのみである。
だが、ここで「猿蟹合戦でいいのか」と疑問を持ってみよう。それによって何が起こるのか。

「猿蟹合戦でいいのか、蟹猿合戦でもいいのではないのか」と疑問を持つこと、猿蟹/蟹猿の順番にこだわることとは、ありていにいえば、腐女子目線を持ち込むことである。
「そんなことして何になるの」
「オレ腐女子じゃないからそんなことできません」
と思うかも知れぬが、いや、大いに意味があるのだ。腐女子目線を持ち込むことで、そこに争いと憎しみ以外のものが生まれるのだ。それは何であるか。
あえていおう、愛であると。

腐女子目線を持ち込むとは、猿蟹合戦の「猿蟹」を「猿と蟹の並列」ではなく「猿×蟹という関係」として見ることである。猿蟹合戦を、猿×蟹の物語として解するのだ。その瞬間、物語は、単なる争い、憎しみの物語を超越する。猿と蟹の間をつなぐのは、憎しみではなく、愛となる。
もちろん、それは世間一般からすれば、やや倒錯した愛かもしれぬ。Sっ気のある猿が無力で純朴な蟹を欺き愚弄し傷めつけ、やがてその報いを受ける。「猿=攻め、蟹=受け」という倒錯した愛の物語である。
それはそれで大いにそそられるものがあるわけなのだが、しかし、腐女子の底知れぬ欲望は、そのシンプルな倒錯愛では飽き足らない。「猿=攻め、蟹=受け」という構図は、倒錯的ではあるけれど、腐女子を満足させるには、ありきたりに過ぎるはずである。
腐女子視点を持ち込んだ以上、我々はこう考えなくてはならぬ。「猿=攻め、蟹=受け」があるのなら、「蟹=攻め、猿=受け」でもいいのではないか、猿×蟹合戦ではなく蟹×猿合戦でもいいのではないのか、と。

猿蟹と蟹猿では、大いに異なる。そもそも、蟹が持っていたおむすびを猿が柿の種と交換した、という一事も、蟹×猿とすれば、まったく新たな解釈が成立しうる。
猿は、蟹をいじめたのではないのだ。蟹が手にするおむすびに、嫉妬したのではないか。大事そうにおむすびを抱えた蟹を見て、猿が思ったのは、
「おむすびさえなければ、キミは俺のことを振り向いてくれるはず」
ということではなかったのか。
猿は、必死なのだ。受けとしての猿は、攻めとしての蟹の愛を勝ち得ようと、闇雲に蟹にまとわりつき、すがりつき、知恵を絞る。(が、残念ながら、所詮、猿知恵でしかない。)
蟹の関心を一身に集める憎らしいおむすびを取り上げると、猿は代わりに、柿の種を渡す。(おむすびを強奪するのではなく、柿の種を代替として差し出すあたり、蟹に完全に嫌われたくない猿のけなげさがあらわれている、とも解釈できるだろう。)
だが、ああ、なんということか。
蟹はそれでも、猿を振り向きはしなかった。蟹が次に愛情を注いだ相手は、手にした柿の種だったのだ。何という愛の悲劇か。
いや、蟹は猿の想いに気づかなかったはずがない。だが蟹は、飛び出た眼でチラリと猿を一瞥すると、冷たく甲羅を向けたのだ。
そうして、蟹はこれ見よがしに歌う。
「早く芽を出せ柿の種、出さぬとハサミでちょん切るぞ」
ああ、なんてことを言うんだ、キミにちょん切られたいのは、俺のほうなんだ‥‥。
ねっとりとした蟹の歌声を聞きながら、猿は悶え、のたうち回ったはずだ。うう、柿のやつめ、うらやましい、ねたましい‥‥。

実をつけた柿の木によじ登り、蟹に青柿を投げつけたのも、嫉妬の余りに生まれた一瞬の殺意がなせるわざであったのかもしれないし、あるいは、
「柿なんかより、俺のことをかまってほしい‥‥」
という切実な気持ちの表出だったのかもしれない。好きな女の子をいじめてしまう幼稚園児のような、つたない愛情表現だったのかもしれない。
「おむすびよりも、柿よりも、俺を、この俺だけを、見つめてほしい」
だが、できることといえば猿まね程度、生来不器用な猿には、そのひと言を言葉で伝えることができなかった。
そして、その結果もたらされたのは、一途に恋い慕う相手、蟹の、あっけない死であった。しかも、みずからが手にかけての無残な死‥‥。
と、このように考えると、もはや我々は猿を単純な悪者と見ることは出来ない。この物語において、真に哀れむべきは蟹ではなく、報われぬ愛に苦しんだ猿のほうだったのではないか。物語の結末、おのれの愛した蟹の子に討たれた時、猿の胸にはいかなる思いが去来しただろうか‥‥。
物語を読み終えた後、我々の胸には深い感慨がこだまするはずだ。
猿×蟹ではなく蟹×猿ではないか、そう考えるだけで、かくのごとく物語は豊潤なものへと姿を変えうるのである。腐女子目線を持ち込むことで、物語の味わい方、解釈に新たな厚みと広がりが加わったのだ。

腐女子のそうした見方に対して、これまでは、
「腐っている」
などと一笑に付す向きが大勢を占めていたわけだが、思うに、もっとポジティブに評価してもいいのではないか。腐女子的視点を、物語を読解するためのツールとしてとらえ、物語が内包するBL的関係に基づいて再構築する理論と方法論に磨きをかけ、精緻化してもいいのではないか。そうして、ポストコロニアル批評やマルクス主義批評、フェミニズム批評などのように、
「腐女子批評」
という文学理論として確立してはどうだろうか。
そこから新しい文学的地平が、新しい世界が、見えてくるはずである。
(ろくな世界じゃない気もするけど。)
posted by 清太郎 at 08:27| Comment(11) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。