2008年05月26日

文学少女はもういない

先日から黙って聞いてたら、「文学少女が消える」だの「文学少女ファンの危機」だの「国別対抗文学少女王決定戦」だの、何勝手なことほざいてんのよ。ひとりの女子としていわせてもらいますとね、正直いって、キモイ。マジキモイ。マジ死ねって感じ。
ひとりで本読んでるところをじろじろ見るなっつーの。誰が見ていいなんていったんだよ、このブタ野郎! 文学少女ファンとかいって、ようするにただの窃視マニアなんじゃねーの、キモオタ! って思うわけ。文学少女、文学少女って、所詮、あれよね、「裸エプロン」と同じ、身勝手な妄想なのよね、「男のロマン」ってやつ?

あたしは別に眼鏡でも三つ編みでもないからいいんだけど、もしあたしがそういう女子で、電車の中で本読んでて、ふと顔を上げると、目の前に座ってる男がじとーっと湿度高そうな視線で見つめてた、としたら、もうあれよね。全身鳥肌。やだ、想像しただけで、なんかちょっとかゆくなってきちゃった。思わず「この人痴漢ですー!」とか悲鳴あげちゃうかも。少なくとも、すぐ次の駅で下りて違う車両に乗り換える。
「文学少女ファン」の男はどうせ、そういう場合に、「ぽっ」とかいって顔を赤らめてうつむくような女子が好みで、
「それこそが文学少女である!」
とか何とか言うんでしょうけど、いい? 耳の穴かっぽじって、よく聞くのよ。そんな女子、いまどき、どこにも、い・ま・せ・ん!
「本がなくなったら文学少女がいなくなる。危機だ!」
なんてしょうもないこと言ってるけど、ここではっきりさせておきます。
あんたたちが思い描いてるような、セーラー服で眼鏡で三つ編みで、ぽっと頬を赤らめるくらい内気で繊細ではかなげな文学少女なんてものは、紙の本があふれてる今でさえ、現代でさえ、この世に、ひとりとして、存在しません。ハナからいないんだから、危機でも何でもありません。文学少女は最初ッからあんたたちの頭の中にしか、いなかったの!
それを何? 「われわれ文学少女ファンが見守る中、ケータイで読書してくれる文学少女のかた(13〜17歳)も募集します」って、マジで文学少女がいるなんて信じてるわけ? バカじゃないの? 超ウケる。おかしすぎて涙出てくる。

ただ、まあ、男子と違って女子は融通無碍、柔軟だから、時と場合によっては、文学少女もあり、かもしれません。
たとえば、本を読んでいてふと目を上げたら、湿度100%のキモ男なんかじゃなくて、五月の風のように爽やかで背が高くて知的でやさしそうな、山Pみたいな男の子と目が合って、その彼が「ぽっ」とか頬を上気させて目をそらしたりなんかして‥‥、ということであれば、あたしだって、まあ乙女なんだし、頬のひとつを赤らめるくらい、やぶさかではないかも。その後はいわゆる文学少女のように、「本を読みながらもさっきの彼がちょっと気になって時おり目を上げてはそのたびに彼の視線にぶつかってまた頬を赤らめる」ふりくらいしようってもんよ、次の日からはコンタクトの代わりに眼鏡にして、三つ編みに結ってきてあげてもいい、と思わないでもないです。
っていうか、今いいこと思いついちゃったんだけど、文学少女ファンは、この際、会員制にする、ってのはどう? 文学少女ファンになりたい男子は、文学少女ファン協会に、写真(全身および顔写真)入りの履歴書を送って、書類審査と厳正な面接試験に合格した者だけがファンになれる。正規会員のみが、本を読んでいる少女に対して憧れのまなざしを捧げることを許される、ということにするわけ。ちなみに、文学少女ファン協会の初代会長に就任するのは、もちろん、あたし。

さあ、全国の文学少女ファンども! 我こそはと思う者は、強化合宿なんかしてないで、下記宛先まで、至急、履歴書を送るのだ!
書類選考の結果、一次審査通過者には、こちらから連絡します。一部の応募者には、会長みずからがじきじきに手取り足取り個人指導しちゃったりするかも!!!

*      *      *


と、以上のような意見を、乙女のかたからいただきました。
この際、一文学少女ファンという立場を離れて、我輩の個人的な考えを伝えさせていただきますと、こんな本好きの乙女から、「ブタ野郎」などと汚い言葉でののしられ、冷たい瞳で蔑まれるのは、恥ずかしながら、我輩といたしましては、まんざらでもない、いや、むしろ推奨、なのであります。場合によっては、顔面キックも可であります(ただし、靴だけは脱いでいただきたい。できれば、素足か黒パンスト装着でお願いしたいであります)。
posted by 清太郎 at 22:54| Comment(12) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月19日

世界の文学少女

当たり前のことを言いますと、文学少女は、何も日本独自のものではありません。卓球少女が中国やドイツにもいるように、文学少女だって世界各地に存在しています。彼女たちは、それぞれの地元の文学少女ファンたちに見つめられ、萌えられ、崇められながら、今日も静かに本を読んでいるのです。

たとえばロシアでは、市電のホームにひとり、金髪の頭に毛皮の帽子(メーテルがかぶってたような円筒形のアレ)をかぶった文学少女タチアナ・リブロスカヤ(15歳)が、手にした本に目を落としています。気温は氷点下、タチアナの頬と鼻の頭は、寒さで真っ赤です。手にはモフモフの大きな手袋をはめていて、ページをめくるときは、大急ぎで片手の手袋をはずして、パラリとページをめくって、裸の手にハーッと息を吹きかけ、はめ直します。
そうやって寒さに耐えながらタチアナが読んでいるのは、分厚くて活字がびっちり並んだ‥‥、どうやらドストエフスキーの『悪霊』のようです。無表情な顔に、ときおりあるかなしかの微笑が浮かぶのは、もしかしたらピョートル×ニコライのカップリングについて想像したりしてるんでしょうか。
あっ、雪が降り出しました。タチアナが読んでいる『悪霊』のページにも、細かな粉雪が音もなく舞い落ちます。そのたびにタチアナは、本を顔の前に持ち上げては、真っ赤な頬をさらに赤くして、ふうっ、ふうっ、と雪を吹き飛ばして‥‥。

あるいは中国では、市内のお茶屋さんで、チャイナドレス姿(わざとらしいかな)の文学少女姚文麗(17歳)が、熱心に本を読んでいます。感情が顔に出やすい文麗は、読みながらときどきハッと息を呑んだり、ふうっと溜め息をついたり、うぬぬと拳を握りしめたり、かと思ったらコロコロとかわいらしい笑い声を上げたり。手にしているのはどうやら、金庸の傑作『笑傲江湖』。文麗は女の子ながら、武侠小説の大ファンのようです。
彼女はページから目を離すことなく、小さな急須にお湯をチョボボと注ぎいれては、小さな湯飲みにお茶をついでいます。一滴もこぼすことがないのは、さすがに手慣れたもの。でも、大興奮の物語に夢中になるあまり、落ち着きなく頻繁に脚を組みかえて、そのたびにチャイナドレスの深いスリットが割れて、真っ白な脚がチラリハラリ‥‥。

あるいはまたアメリカでは、道端に止めたスポーツカーの助手席で、ボーイフレンドを待ってるのでしょうか、文学少女アビゲイル・ブックス(14歳)が本を読んでいます。シートを倒して、ぴっちりとしたジーンズの細い脚は、お行儀悪くダッシュボードの上に投げ出されています。耳にはiPodのイヤフォン。聴いているのは大音響のロックでしょうか。爪先でコツコツとフロントガラスを叩いては、リズムをとっています。ときどき、噛んでいるガムをプウッとふくらませては、パチン。
外はまだ肌寒いですが、クルマの中の彼女が着ているのは、ぴったりとしたTシャツ1枚きり。かわいらしいおへそがのぞいています。彼女の姿を見ると、年のわりには発育のよすぎる胸のあたりについつい目が行ってしまいがちですが、いやいや、それよりも手にしている本に注目してください。分厚いペーパーバック。ナボコフの『アーダ』です。14歳ながらアビゲイルは、早熟な玄人本読みなのです‥‥。

などと、こうして世界各地の文学少女を見てみると、当然のことながら、次は、
「国別対抗・文学少女王座決定戦」
ということを考えずにはいられません。
これら世界の文学少女たちが一堂に会し、競い合い、闘ったら、どうなるのか。ふだん読みなれた本を逆手に持ち替え、きりりとしたまなじりで相手の隙をうかがうのか。至高の文学少女王の座を勝ち取るのは、果たしてどの国の文学少女なのか。われらが日本代表となったセーラー服の眼鏡っ娘文学少女・本多アヤ(16歳)は、並み居る世界の強豪たちに太刀打ちできるのか!?
想像するだけで、あ、いかん、もう鼻血‥‥。

東京都の石原慎太郎都知事は、オリンピックの誘致なんかにかまけてないで、ぜひとも「第1回国別対抗文学少女王座決定戦」大会の開催に向けて前向きに取り組むべきでしょう。
全国の文学少女ファンよ、今から署名を集め、石原都知事のもとへ送り付けるのだ!

(その前に、ちゃんとルールを決めないといけないですよね。いたいけな乙女なんだし、顔面キックは禁止にしましょう。)
posted by 清太郎 at 22:43| Comment(6) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月17日

文学少女ファンの危機

ここしばらく、環境保護と本の未来について考えています。本好きにとっては残念なことですが、今あるような紙の本というのは、遅かれ早かれ縮小されていくことと思われます。数十年後には、まったくなくなってしまうことはないかもしれませんが、それでも一部の好事家のためのマニアックなアイテム、程度のものになっているのではないでしょうか。
本屋さんにとっては大打撃ですよね。しかし、ここに、本屋さんと同じくらい、いやそれ以上に、大打撃を受ける存在があることをご存知でしょうか。
何か。
それは、ほかならぬ、われわれ文学少女ファンなのであります。

われわれは昔から文学少女を愛でてきました。校庭の片隅でひとり本を開いているセーラー服のお下げ髪少女に、朝の満員電車の座席で本の世界に没入している眼鏡少女に、埃くさい古本屋の奥で真剣なまなざしで書棚を見上げている白いワンピースの少女に、愛と崇拝を捧げてきました。遠くからはうっとりとして眺め、近寄ってはおごそかな気持ちでひざまずいてきたのであります。
ファンによっては、文学少女は眼鏡っ子でなくてはならぬ、いや、セーラー服が必須である、ブレザー不可、などとさまざまに意見が分かれることでしょう。しかしながら、誰もが共通事項として了解しているのは、当然ながら、本、なのであります。彼女の手に、そのかたわらに本がなければ、たとえそれが年に千冊を読破する本狂いの少女だとしても、文学少女とは呼べぬ、少なくともわれら文学少女ファンにとって鑑賞に値する文学少女とは、いえないのであります。
であるからして、環境のためには紙の本よりも電子書籍、という昨今の趨勢に対して、われわれ文学少女ファンは、深く深く危惧せずにはいられないのであります。
十年先か、二十年先か、本を読む少女の手に、紙の本がなくなってしまったその瞬間、われらが愛すべき文学少女は、霞のごとく消えてしまうのであります。そこにいるのは、kindleのような専用端末か、あるいはケータイのような汎用端末か、もしくは眼鏡やコンタクトレンズに内蔵された極小端末、それとももしかしたら脳に直結したマイクロチップ、それらを使って読書をしている、文学少女ではない、ただの少女でしかないのであります。

ああ、なんたることか!
文学少女を愛おしみ、いつくしんできたわれわれ文学少女ファンは、今は滅んだ、
「割烹着を着た若妻ファン」
「ちょうちんブルマの女子小学生ファン」
などと同様の悲劇を、涙ながらに甘受するしかないのでありましょうか。
紙の本といえば古本しかない、そして古本を読む女性なんてほとんど老婆しかいないような世の中で、虚ろな心を抱えたまま、ボロ屑のように生きるしかないのでしょうか。人けのなくなった神保町の一角に開かれた、かつての文学少女ファンのためのマニアックな文学少女喫茶「夜の蝉」あたりで、ひそかに無聊を慰めるしかないのでありましょうか。
今のままでは、そうでしょう。時代の流れは、個人の力ではなかなか変えられるものではありません。環境保護に異を唱えることも不可能であります。

しかしながら、個人であるところの自分自身なら、変えられるはずであります。
将来、紙の本ではなく電子端末で本を読む少女だけになってしまうのならば、その彼女たちに対して萌えられるようにするのです。社会が変わるのならば、われわれも臨機応変に対応しようではありませんか。
紙の本なき後は、電子端末で読書を読む少女を、新時代の「文学少女」として愛で、鑑賞し、いつくしむ。われわれ文学少女ファンの活路は、それ以外に見出せぬのであります。
となると、今が肝要であります。紙の本がなくなってからでは遅い。今、電車の中や駅のホーム、道端で、ケータイで小説を読んでいる少女たちに対して、文庫本を読む文学少女と同等の萌えを感じられるようになる、それこそが第一歩です。
そのためには、一にも二にも訓練であります。特訓であります。まずは、その少女が手にしているのはケータイではなく文庫本だ‥‥、そう妄想するところから始めてはいかがでしょうか。
しかし、独学では限界があるかもしれません。ひとりでは挫けてしまうかもしれません。少女がケータイで読んでいるのが小説なのかただのメールなのか瞬時に判断する、そんな特殊な技能を涵養する必要もあります。
われわれ文学少女ファンが生まれ変わるためには、お互い研鑽し、切磋琢磨する場が必要でしょう。
そう、全国の悩める文学少女ファンが集う、
「強化合宿」
我輩は、その開催をここに宣言するものであります。

全国の文学少女ファンよ、結集せよ。ともに学び、ともに競い、おのおのの鑑賞眼を養おうではないか。ともに手を取りあい、新たな文学少女像の地平を切り開こうではないか。
ケータイで小説を読む少女を一心不乱に見つめ、見つめ、ひたすら見つめることで、そこに一筋の光明を、新時代の幕開けにつながる萌えを、ともに見出そうではありませんか。
厳しい修行となることでしょう。脱落者も続出するに違いない。
しかし、この修行なくしては、われわれ文学少女ファンに、明日はないのであります。
全国の文学少女ファンよ、覚悟を決めよ。そして、われこそはと思う者よ、わがもとに集いたまえ!

※われわれ文学少女ファンが見守る中、ケータイで読書してくれる文学少女のかた(13〜17歳)も募集します。
posted by 清太郎 at 09:47| Comment(9) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月13日

本屋武装化

前回書いたとおり、正直いって、本は「環境にやさしい」ものではありません。
今のところ、日本の社会全体で環境への取り組みについてぜんぜん本気じゃないからいいようなものの、この先いったいどうなることやら。
再販制やら何やらを盾に、電子書籍普及の流れに目をつぶっていると、いつの間にか社会のエコ化に取り残されて、気がついたら、本屋さんで紙の本を買うことは、エコ的な観点から見て、密猟者から象牙を買ったりするのと同じくらい悪いことになっているかもしれません。
日本国内では、持ち前の馴れ合い主義のおかげで、まあまあいいからいいから、なんて適当にごまかせるでしょうが、良識を誇る海外の国々が黙っていませんよ。アメリカでは議会で民主党議員なんかが、
「日本では、まだ本屋が野放しになっておる! なんたる野蛮なことであるか! 私は環境のことを配慮して、成人になってから本なんて一冊も読んでないぞ!」
と日本の本屋を非難する決議案を提出し、それに刺激されたオーストラリアあたりの過激派環境保護活動家が国内に潜入、次々と本屋を襲撃したりします。
「またも本屋で爆破テロ! 店員とお客さんあわせて3名が死亡、8名が重軽傷」
なんてニュースが連日報道されることになる。
環境テロリストを取り締まろうにも、
「何だね、日本では、われらが地球環境を破壊する本屋を、保護しようとでもいうのかね」
などと各国から日本政府に圧力がかかるから、警察は見て見ぬふり。
ここにいたって本屋さんは、もう自助努力で、何とかするしかありません。

となると、本屋さんの将来として、ふたつの道が考えられます。(消滅する、という道は除いて、ですが。)
ひとつは、
「地下化」
アンダーグラウンドな存在になる、というものですね。
お客さんは本屋さんに行くために、まずは尾行に注意しなくちゃいけない。隣町にあるはずの本屋さんに行くにも、わざわざ電車に乗って、3回くらい乗り換えて、タクシーをつかまえて、すぐ降りてまた違うタクシーに乗ったりする。で、ようやく横丁の暗がりなんかに入り込むと、他所を向いて新聞を読んでいる男(鳥打ち帽をかぶっている)が、ボソッと、
「兄弟」
とつぶやくので、すかさず、
「カラマーゾフ」
と合言葉を答える。すると、やおら男が立ち上がり、路地のさらに奥の奥、何度も曲がった暗がりのほうへと歩いていくから、付かず離れず、あまりその男の方を見ないようにしながらついていく。そうして、ようやく何の変哲もない民家に辿り着いて、その地下室が本屋さんだったりするわけね。

そうやってひたすらヒソカに隠れ潜むのと対極にあるのが、
「武装化」
本屋さんは徹底的に防備を固め、環境保護活動家の襲撃に備える、というもの。窓ひとつない、2メートルくらいの厚みのあるコンクリート壁に囲まれたトーチカのような建物の入口に、マシンガンを下げたいかめしいガードマンが4人くらい立っていて、お客さんはまず徹底したボディチェックを受けないといけない。液体の入ったペットボトルはもちろん、携帯電話なんかの精密機械も持ち込み禁止です。
ときどき、自転車か電気自動車に乗った環境活動家が、奇声を上げながら突進してきては手榴弾(もちろん、環境にやさしい素材でつくってあります)を投げつけてきたりするから、要注意。建物の外壁は、襲撃にあった後の黒焦げや穴ぼこだらけです。
でも、いったん中に入ってしまえば、そこは夢のような空間。つねに活動家の襲撃を恐れねばならない地下本屋さんとは違って、心置きなく本選びに専念できます。時おり、爆弾が炸裂するズウウウウンという音が遠雷のように響いてきたりしますが、この本屋さんの中にいる限り安心です。

あ、でも、本屋さんは安全だけど、お客さんはぜんぜん安全じゃないのか。本がいっぱい詰まった袋を両手に下げて、意気揚々としてお店から出てきたところを、バシュッバシュッとひとりひとり狙い撃ちにされたりして‥‥。(まあそれはそれで、幸福な死に方のような気もするけど。)
っていうか、いずれにせよ、自助努力が必要なのは、本屋さんよりもむしろ、本屋さんに足を運ぶお客さんのほうですね。
いや、そこまでの危険を冒して、それでも本屋さんに行きたい‥‥、という品揃えを、本屋さんが用意できるかどうか、ということのほうが問題かもしれませんが。
posted by 清太郎 at 23:08| Comment(7) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月10日

環境にやさしい小説

今、時代はエコです。環境に配慮し、地球にやさしい。これにまさる正義はありません。企業はとりあえずISO14001やら何やらの認証を取得し、二酸化炭素排出量を抑え、何だかよくわかんなくても「サステイナブル」って言っておく、そういう時代です。
そんな中、われらが本業界も、うかうかしてはいられませんよ。洗濯機やら自動車やら電球やら食品やら、世間にあふれる「環境にやさしい」商品にならって、
「環境にやさしい小説」
これを模索するべきではないのか。
「本ってのは、そういうのとは違うから。文化だから」
なんて態度を決め込んでいると、いずれは「環境にやさしいゲーム」や「環境にやさしいケータイ」や「環境にやさしいパチンコ」や「環境にやさしいアマチュア無線」などが当たり前のものになって、
「えっ、読書? アンタ、本なんか読んでるの? やめなさい、そんな環境に悪いこと」
という事態になるに違いありません。
「なにっ、読書が趣味だと!? そんな環境に悪いことをやってる奴に、うちの大事な娘はやれん!」
そうなっては、もう誰も本なんか読まなくなってしまいます。
手遅れになる前に、各出版社から取次、書店までみんなで知恵を絞って、環境への負荷のなさを格付けする認証制度でもつくりあげて、業界として、本気でエコに取り組んでいることをアピールしてもいいのではないでしょうか。

格付けするとなると、たとえば、無駄に資源をいっぱい使って二酸化炭素をドカドカ排出するような小説は、悪い、マイナスの小説ということになります。分厚い単行本で、何巻にもなって、ベストセラーになって何百万部も売れて、でも数年で忘れられてしまうような作品は、ダメです。ハリポタなんて、ABCのランクでいえば、Cマイナス。(いや、ハリポタは「モモ」みたいにロングセラーになれるかな?)
逆に、資源を無駄にしない、薄い文庫本で、かつ何十年ものロングセラーになる小説は、環境的に見て、優れた作品です。カフカの「変身」とかヘッセの「車輪の下」とか。
‥‥と、そういうレベルで問題がおさまると、突き詰めていけば、
「ぜんぶ電子書籍にしちゃえばいいじゃん。紙の本、廃止」
ということになって、なんだかちっともおもしろくないので、ここはやはり、作品の内容にも踏み込んでみましょう。電子書籍のみで販売されて、執筆から配信まで可能なかぎり二酸化炭素排出量を抑制し、子や孫にまで伝えられるロングセラーになったとしても、たとえば、その作品が、
「火力発電所をつくろう」
とか何とか、そういう内容であってはマイナス評価、ということにするのです。

そうなると、Aランク以上の認証を取得するのは、なかなか難しいですよ。
一見したところ、懐かしい日本の姿が描き出されてエコ的には問題ないように見える川端康成の「雪国」も、エンディングを飾るのは火事の場面。立ち上るすさまじい炎と煙に、
「いやあ、盛大に二酸化炭素を排出してますなあ」
ということになって、せいぜいB程度の評価。同様の理由から、芥川龍之介「地獄変」や三島由紀夫「金閣寺」もダメです。
「車輪の下」も、主人公のハンスが挫折したところまではいいかもしれないけれど、彼ったら鍛冶職人の見習い(だっけ?)になっちゃうんですよね。鍛冶ではねえ、いかにも炎がゴウゴウ燃えて、二酸化炭素をどんどん出してそうで、環境にやさしいとはいえない。これがレンジャーとかビオトープ管理士とかだったら、よかったんだけど。ということで、やっぱりB止まり。
ハリポタも電子書籍なら問題ないかというと、「炎のゴブレット」なんて二酸化炭素排出の観点からいかにもNGっぽいし(読んでないからわかんないけど)、それ以前に、ニムバス2000やら何やら新商品が次々と出てくるあたり、現代資本主義を無批判に投影しているようで、エコ的にはマイナス評価です。(「賢者の石」しか読んでないので、うかつなことを書いているかもしれません。この後ハリーが改心して、「やっぱり魔法のホウキは、こんな工業製品じゃなくて、自然の山に落ちている木の枝を使って丁寧に手作りしたものじゃないとダメだよね。魔法もエコじゃなくっちゃ!」なんて展開になっているのでしたら、ぜひともAランクに格付けすべきでしょう。)
‥‥などと考えてみると、主人公のグレゴール・ザムザが醜い毒虫になって、産業社会から疎外されるカフカ「変身」は、正しく環境にやさしい小説といえるかもしれません。

エコに配慮しているアナタ、これから読むなら、電子書籍で「変身」がオススメですよ!
posted by 清太郎 at 09:58| Comment(5) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月07日

三四郎百周年

今年2008年は、「赤毛のアン」出版100周年。今では世界中の女子たちに愛されているこの作品の百歳を記念して、各地でいろんな記念行事が行われています。たとえば、
・翻訳原稿や初版本をはじめ、モンゴメリゆかりの品々を集めた「赤毛のアン」展
・新潮文庫の感想文コンテスト(最優秀賞の副賞は、物語の舞台となったプリンス・エドワード島への招待)
・プリンス・エドワード島を訪ねるツアーパック
・カナダ大使館で開催された、トークや朗読などのイベント「アンの世界」
・記念切手発行
などなど。いやあ、ホントに人気なんですね、赤毛のアン。

でも、いくら世界中の女子に読まれてるからって、カナダの小説ばかりをもてはやすのはどうか。わが国の小説だって、今年100周年の作品があるはずだぞ。
と思ってちょっと調べてみたところ、おお、漱石の「三四郎」が朝日新聞に連載されたのが1908年の9月から12月というではありませんか。今年は、日本文学史に燦然と輝く「三四郎」の誕生100周年なんです。
「赤毛のアン」ばかりにかまけてないで、日本の文学青年、文学少女よ、「三四郎」誕生100年をともに祝おうではないか! 全国のストレイシーパーよ、結集せよ!

ということで、三四郎100周年の記念行事として、「赤毛のアン」に対抗するためにも、以下のようなものは必須です。
・自筆の原稿や初版本をはじめ、漱石ゆかりの品々を集めた「三四郎」展開催
・新潮文庫の感想文コンテスト(最優秀賞の副賞は、三四郎の故郷・熊本への旅行)
・「三四郎」の舞台を訪ねる東京文学散歩(東大本郷キャンパスの三四郎池、三四郎たちが菊人形を見物に行く団子坂をはじめ、谷中や上野界隈をのんびり散歩。最後は、寄席で小さん――「三四郎」のときは三代目、今の小さんは六代目だけど――の高座を聴きます)
・「三四郎」をテーマにしたシンポジウム、トーク、朗読会など(会場は東大本郷キャンパス)
・記念切手発行(三四郎や美禰子、広田先生などお馴染みの登場人物が絵柄に。額面は80円や50円ではなく、使い勝手が悪いけど、34円もしくは346円にしてほしい)

加えて、「三四郎」ならではの、こんなものも。
・モコモコした肌触りが安眠を誘う「ストレイシープ」抱き枕発売
・熊本発・東京行きの一泊二日列車の旅(途中、宿泊地は名古屋。あだっぽいお姉さんと一晩同じ部屋で過ごすことになるイベント付き。もちろん「三四郎」ファンなら、手を出せないまままんじりともできず、翌朝お姉さんから「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と、にやりと笑われよう!)

そして、作品誕生から100年目にして、ついに堂々の続編が登場! タイトルはズバリ、
「五六郎」
あの後けっきょく故郷に戻って、おでこがだだっ広い三輪田のお光さんと結婚した三四郎の孫の孫、五六郎。2008年の春、東大に合格し、熊本から上京してきた彼を待っていたのは、あの美禰子の孫の孫娘だった! そして、ああ、やっぱり血は争えないのか、易々と手玉に取られる五六郎。21世紀のストレイシープとして大活躍する五六郎の迷える日々を描く!
(って、なんだか、最近ありがちなストーリーかも。)

ところで、蛇足ながら最後に、すごく基本的なことを注意しておきますと、
「エッ、記念行事って、これだけなの? 三四郎の100周年といったらもちろん、三四郎杯全国柔道大会開催とか、三四郎柔道着発売とか、気になる彼の目の前でいつでも自在に鼻緒が切れる特製下駄発売とか、池の中に浸かりながら早朝に蓮の花が音を立てて開くのを見ようツアーとかじゃないの!?」
というかたがいるかもしれませんが、それは姿三四郎。人違いです。漱石の「三四郎」に出てくる小川三四郎は、柔道をしません。ちなみに、プラレス三四郎も関係ないです。
posted by 清太郎 at 23:05| Comment(4) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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