2007年07月31日

本踊り

盆踊りは仏教の念仏踊りを起源とし、先祖供養などの民俗と混ざり合いつつ、現在のような形になっていったといわれています。今でこそ単なる夏の風物詩となっている盆踊りですが、そもそもは、この世とあの世をつなぐハレの行事、異界への扉を開く民俗的な仕掛けでもあったわけですね。
本が売れないとされる8月、わが本業界も、この盆踊りを取り入れて、少しは市場を盛り上げてはどうでしょうか。盆踊りならぬ、「本踊り」で。

出版されたものの話題になることもなく静かに消えていった無数の本たち、一時はベストセラーになったものの今やすっかり忘れ去られた過去の本たちへの追善供養の思いをこめて、ピーヒャラ、トン、トン、哀調を帯びた笛と太鼓の音色にのりつつ、
「ドスとその名はいかついけれど、よく見りゃチョイといい男〜」
ドストエフスキー音頭などを踊るんです。
神保町の交差点を会場にした「神保町本踊り大会」や、護国寺境内で開催する「講談社盆踊り大会」などが行われれば、多少は耳目を集め、話題になるんじゃないでしょうか。もちろん、会場にはさまざまな屋台がズラリと並び、訪れた人たちは、古本釣りや古本射的、古本輪投げなどを楽しめます。

そうして、浴衣姿の書店員さんや編集者と一緒になって、櫓を囲んで輪になって、一心不乱に踊っていると、やがて供養の思いが通じ、この世とあの世がつながって、ふと気がつくと、あら不思議や、目の前に落ちているのはボン書店刊行の「童貞女受胎」初版、まあその先には春秋社の「特異兒童作品集」初版、おやその先には‥‥、と次々と現れる稀覯本、初版本、絶版本の数々に心奪われ‥‥。
そうして、本踊りが終わるころには、いつの間にか、すぐそばで踊っていたはずの人が消えていて、
「ああ、あの人は、本のあの世へと旅立っていったんだなあ」
と、本のこの世に残された人たちは、ちょっと羨ましいような、寂しいような、怖いような気持ちを抱えて、静かに家路につく‥‥。うーむ、いいではないか、これぞ日本の夏。

いや、しかし、考えてみると、供養してるのは、話題になることすらなかった本や、時代遅れの過去のベストセラーなのだから、いつの間にか目の前に現れる本は素敵な稀覯本ではなく、むしろ数年前の実用書のたぐいや春陽文庫のサラリーマン小説、あるいは「アイカコッカ」とか「大往生」とか「それいけ×ココロジー」とかなのかも。そんな本ばかりが待ってる「本のあの世」なら、別に行きたくないよねえ。
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2007年07月30日

課題図書のマークの謎

夏休み中の今、多くの健全な子どもたちが読書感想文に苦しめられています。(読書感想文に苦しまない、むしろ嬉々としてやります!なんていう子どもは、あまり健全とはいえないと思います。)
子ども時代に誰もが一度は(というか数回〜十数回)経験する読書感想文ですが、
「そもそもなんで夏休みに読書感想文なのか」
という根本的な問題をはじめ、考えてみるとよくわからないことがいっぱいあります。毎日新聞社が主催するコンクールにほぼ強制的に応募することになるのはなぜなのか(朝日新聞社が主催する高校野球は、甲子園に行きたい人しか参加しないのに)とか、ちゃんとした「書き方」を教えてくれないのはなぜなのか、とか。
読書感想文にまつわるそうした疑問のひとつが、これです。
「課題図書に貼ってある、あのマークは何なのか」
symbol.jpg
「青少年読書感想文全国コンクール」のシンボルマークというかエンブレムというか、そういうマークなんでしょうが、これ一体、何が何しているところなのか。
「河童じゃないの」
などと思っている人もいるかもしれませんが、脚の構造や尻尾を見ると、どうやら上半身は人、下半身は山羊の牧神パンではないか、というところまでは、うすうすと感じている人は多いと思います。ひたいの上のピョロンは何なのか(アニメの女の子キャラなんかにありがちな、髪の毛がピョロンと立ってる萌え要素か?)という疑問は残るにせよ、その推測に間違いはないはずです。

が、しかし。そうなると、ふたつの大きな疑問が出てきます。
(1)なんでパンなのか?
(2)パンは何してるのか?
パンというと、一般的には笛を吹いてたりして、音楽や踊り、加えてスケベ方面の神様ということになっています。(Wikipediaに載っている「笛の演奏を彼のエローメノス(少年愛の相手)の羊飼いダフニスに教えるパンの彫像」は、どう見ても笛じゃないことを教えようとしている場面にしか見えません。)
そんなパンが、何ゆえ読書感想文なのか。これが「青少年吹奏楽全国コンクール」あるいは「青少年ポルノ小説コンクール」であるのなら、なるほど、パンがシンボルというのも、うなずけます。しかし、青少年読書感想文全国コンクールは音楽ではなく読書感想文のコンクールなのであり、スケベ方面とは対極にあるはずのものなのです。
さらに、そのパンは何をしているのか。両手に細い棒状のものをそれぞれ一本ずつ(しかも、小指を立てて)持っているように見えますが、これは何をあらわしているのか。
「箸を鼻の穴に突っ込んでいる」
という意見もあるようですが(そして、そういわれるとたしかにそのように見えますが)、常識的に考えて、箸を鼻の穴に突っ込むことと読書感想文との間に何らかの関係があるとは、とても思えません。

青少年による読書感想文のコンクールのシンボルとして、これほどふさわしくないように見えるものがシンボルマークになってしまっているこの事実、ここから、我々は次のように結論付けるほかはありません。
すなわち、
「このシンボルマークは、本来、青少年読書感想文全国コンクールのシンボルマークではなかった」
ということです。わかりやすくいいかえれば、
「間違って青少年読書感想文全国コンクールのシンボルになっちゃった」
ということです。
おそらく、同時期に複数のマークのデザインを手がけていたデザイナーが、図案を送付するときに取り違えちゃった、とか何とかそういう事情があって、でもこういうことの決定に関与するエライ人というのは、えてして細かいことなんか見ちゃいないので、間違ったものが間違ったままに、「ふーん、よくわかんないけど、いいんじゃないの、このマーク」と採用されちゃったんでしょう。

となると、じゃあ一体、どこのどういうマークと取り違えたんだ、ということになるのですが、これはカンタンですね。牧神パン本来のイメージにふさわしい、音楽や踊り、スケベ方面に関係あるコンクールで、なおかつ箸を鼻の穴に突っ込むこともありのコンクール。つまり、
「全日本宴会芸コンクール」
あるいは、
「全国温泉旅行余興コンクール」
などのシンボルマークとしてデザインされたに違いありません。

残念ながら、「全日本宴会芸コンクール」も「全国温泉旅行余興コンクール」も、現在すでに存在しませんが、そのシンボルマークはおそらく、
「本を手にした菅原道真」
を図案化したものだったんではないか、と推測されます。
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2007年07月26日

萌える数学参考書

昨日の帰りの電車の中で、近くに立った男の子が数学の参考書で勉強しておりまして、その参考書の表紙には、ちょっと生真面目な感じのメガネ女子のイラストが。なのに、中身はごくごくフツーの数学参考書。
そのギャップが気になって、今日、本屋さんであらためてチェックしたところ、彼が手にしていたのは「坂田アキラの数列が面白い本がわかる本」(中経出版)でした。
これは「数学が面白いほどわかるシリーズ」の一冊で、ご察しの通り、他にも「坂田アキラの確率が面白いほどわかる本」「坂田アキラの2次関数が面白いほどわかる本」「坂田アキラの微分積分が面白いほどわかる本」など各種があり、同様にちょっと萌えだけどあからさまにオタっぽくはないイラストが表紙を飾っていますが(ちなみに、「数列」の表紙を描いてるのは安倍吉俊という人)、いずれもイラストが入ってるのは表紙だけで、中身はふつうの参考書なので、あまりおもしろくありません。このあたり、意外によくわかっておもしろいといわれている「マンガでわかるフーリエ解析」(オーム社)を見習ってほしいものだと思います。

参考書ではないけれど、結城浩「数学ガール」(ソフトバンククリエイティブ)は、かなり萌え。天才数学少女のミルカちゃん(西之園萌絵を綾波レイ化したようなキャラ。どちらもたとえが古いが)、テトラちゃん(元気少女)、僕の3人の高校生が数学にチャレンジしているうちにやがて‥‥、という数学本で、冒頭、ミルカちゃんが自分に見とれている「僕」に対して、「1, 1, 2, 3」とフィボナッチの数列を口にするシーンを読んで、ムフーと興奮し、こうやってボクも美少女と数学問答したい!美少女に難しい問題を出されたい!「こんなのも解けないの?」とか、冷たい目で見られたい!という数学ファンも多いのではないかと思います。

ともあれ、そのうち、表紙も中身も例題も解説もすべてが萌えな数学参考書シリーズ、
「シリーズ・萌えマセ☆マチカ」
などというのが出て、1冊ごとにキャラが割り振られていて、数列はドジなメガネっ子、三角関数はロリ小学生、確率はツンデレ魔法少女、微分積分は猫耳メイドなんていうことになれば、
「苦手だった三角関数がロリ小学生のシータたんのおかげで、わかるようになりました!」
と受験生も喜んだりして、ほのぼのとしていいですね。
でもって、
「魔法少女のコーシーちゃんもいいけど、やっぱり確率もシータたんに教えてほしいです」
「できれば微分積分もシータたんで」
「数列も、ハアハア」
ということになって、その気になった出版社サイドも、サービス全開の「ちょっと過激な萌えマセ☆マチカ ロリ小学生編」なんてのをシリーズ化して、その結果、
「高校生向け受験参考書なのに、18禁」
なんてことになると、楽しそうです。
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2007年07月25日

FlipBook

先日のコラムで、実用的な電子書籍ビューワーの条件として「本に近い感覚のインターフェイス」を挙げたのだけど、おお、まさにその通りのものがすでにあったんですね。イーブック・システムズの「FlipBook」です。「ページをめくる」をパソコン画面上で実現した電子書籍の形式で、見れば一目瞭然。

もちろん、これをパソコン画面上で、ボタンをカチカチクリックしながらやるのはやっぱりビミョーなので、iPhoneのようにタッチパネルで操作できる必要がありますが。
でも、こうなると、ページめくりもタッチパネルも検索も防水もバッテリーも、技術的にはすべてできてるわけですから、すべてを兼ね備えた携帯電子書籍ビューワーまであとほんのちょっとですよね。あとはコンテンツ。雑誌のバックナンバーと絶版本が充実してくれば、私もぜひ買って使いたいと思います。

ところでこのFlipBook、まだとても魅力のラインナップとはいいがたいのですが、サイトを見ると絵本も10冊あまり入っています。
あと何年かしたら、
「ママー、これ読んでー」
と言いながら、電子ペーパーを手にした子どもが読み聞かせをねだる、という風景が当たり前になるのでしょうか。
電子書籍はリアル書籍と違って、汚れないし、傷まない。メモを書き込んでも、悪戯書きをしても、自在に消したり、再表示させたりできます。
ということは、いつまでもピカピカな状態で楽しめる一方で、久々に帰ってきた実家でボロボロの絵本を見つけて懐かしく思ったりすることがなくなるのかしら。子どものころ愛読して幼い字で自分の名前まで書き入れちゃったのにいつしか紛失してしまった「ラ・タ・タ・タム―ちいさな機関車のふしぎな物語」に糺ノ森の古本市で偶然めぐりあう(森見登美彦「夜は短し歩けよ乙女」のネタです)、ということもなくなるのかしら。本にかぎらず、「モノを大切にする」ということのありようが変質していくのかしら。などと思うと、なんだか自分が古い世代の人間に思えてきます。っていうか、実際、古い世代なんだけど。
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2007年07月24日

本のお中元

味の素ゼネラルフーヅの調査によると、2007年のお中元にもらいたいもの・贈りたいものの上位は以下の通りなのだそう。

《もらいたいもの》
1 商品券
2 ビール
3 産直の生鮮食料品
4 洗剤
5 コーヒー

《贈りたいもの》
1 ビール
2 コーヒー
3 そうめん/産直の生鮮食料品
5 洗剤

このお中元(お歳暮も同様ですが)、ここは、わが本業界にとって、未開の地といってもいいでしょう。お中元で本をもらった、なんて、聞いたことがありませんよね。
まあ、それもしかたがないことかもしれません。
「もらって嬉しいものは、贈っても喜ばれる」
といいますが、一般的にいえば、本って、(お互いが趣味嗜好を了解していないかぎり)もらってもあまり嬉しくないし、贈っても喜ばれないです。

たとえば、ずっしりとしたお中元の箱が届いて、
「おお、こりゃ、重いぞー、ビールかなー?」
とお父さんはほくそ笑み、
「カルピスがいい、カルピス! ジュースでもいい!」
と子どもははしゃぎ、
「そろそろ洗剤ないから、洗剤だといいんだけど」
とお母さんが現実的に考え、そうして、家族3人が見守る中、しずしずと開けられた箱の中が、
・プルースト『失われた時を求めて』ちくま文庫版全10巻
だったとしたら、たぶん家族全員が、怒ります。
お父さんは、しばし絶句したのち、子どもに、
「おい、タカシ、これで読書感想文書いとけ」
と吐き捨て、子どもは、
「こんなの読めるわけないじゃん」
とわめき、お母さんは、
「置く場所もないのに、迷惑だわ」
と背を向けるでしょう。
贈った人はもしかしたら、「こんなに感動した小説はない、尊敬する先輩にも、ぜひ読んでもらいたい!」と純粋な気持ちをこめていたのかもしれませんが、こと本に関しては、往々にしてそうした気持ちは空回りするものです。これがもし会社の上司へのお中元だったとしたら、贈り手の部下の人は、夏休み明けに即刻左遷です。

プルースト『失われた時を求めて』ちくま文庫版全10巻ではなく、他の本ならいいか、というと、もちろんそんなこともありません。
たとえば、お世話になった先生に、特装版夏目漱石『こゝろ』を贈ったとしたら、
「先生であるオレに、死ねとでもいうのか!」
と先生は激怒するでしょう。
あるいはまた、小中学生の子どもが3人いる家庭に新潮文庫の「夏の100冊」全冊セットなどを贈ったとしたら、おそらく子どもはがっくり肩を落とすでしょうが(お母さんは、「あらま、あなたの会社のタナカくん、気が利くじゃないのよ」と喜ぶかもしれません)、完全に予算オーバーです。(55,598円もします。新潮文庫のサイトには「御中元に!ご親戚やお子様へのプレゼントに!」などと書いてありますが、もらった人がもしいたとしたら「これだけの予算があるなら、他のものにしてくれればよかったのに」とぜったい思うことでしょう。)

と、以上のようなシミュレーションから、お中元に本はふさわしくないことは明らかなように思えますが、でも、本当にそうなのか。
たしかに、ベストセラーや名作もの小説をもらったところで、本が好きな人には迷惑だし、嫌いな人にはさらに迷惑なだけでしょう。本が好きな人に、ベストセラーでもメジャーな名作でもない、とっておきの隠れた一冊(たとえば西山勇太郎の『低人雜記』とか)を贈ったところで、何やら趣味嗜好を押し付けるようで、必ずしも喜ばれるとは限りません。
第一、こうした本をもらったら、とりあえず目を通しておかないと失礼なような気がするでしょうから、受け取り手に余計なプレッシャーを与えることになります。
ただ、そうだとすると、逆に、受け取り手が「こんなのをオレに読めというのか」とうんざりしないような本であれば、お中元になるかもしれません。読まなくてもいい本、つまり、写真集や画集です。

総じて、写真集や画集って、「自分でお金を出して買うほどではないけど、でも、ちょっと欲しいかも」ということが多いんじゃないでしょうか。うんざりどころか、喜ばれることも多そうです。3000円〜5000円くらいというお中元の予算枠にも合致します。
もちろん、荒木経惟やロバート・メイプルソープの作品集やなどは小中学生がいる家庭には不向きかもしれませんが、本城直季の「Small Planet」(リトルモア)などであれば、写真に興味のないお年寄りや子どもにも喜ばれるでしょう。

昔に比べるとずいぶん縮小したとはいえ、まだまだ数千億円規模というお中元市場。がんばって「お中元には写真集!」キャンペーンを展開すれば、本業界もお中元に少しは食い込めるんじゃないかと思います。
今贈るとしたら、このごろ人気急上昇中の梅佳代の写真集なんて、よさそうです。
「うめめ」(リトルモア)
「男子」(リトルモア)
の基本2冊セットで3,885円。奮発して、
「うめ版―新明解国語辞典×梅佳代」(三省堂)
を加えると5,355円です。

ちなみに、写真集や画集とはいえ、本は本です。あまり凝ったことをすると、かえって逆効果ですから、お気をつけて。
たとえば、40近いのにまだ独身で男一人暮らしの山田課長代理に、気を利かせて、
・仲村みう写真集「制服放浪記」(ワニブックス)
などを贈ったら、やっぱり夏休み明けには左遷だと思います。
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2007年07月23日

読書感想文の書き方 「はっぱじゃないよ ぼくがいる」を例に

梅雨明け前のどんよりした天気が続く中、子どもたちは夏休みに入りました。昔と違って冷暖房完備の教室が多くなっている現在、子どもに夏休みがどうして必要なのかよくわからないわけですが(今の夏休みの存在理由って、「思い出づくりのため」以外にはないと思う)、ともあれ、夏休みといえば読書感想文。このブログにも「読書感想文」で検索してたどりつく人が多くなっているようです(っていうか、メインサイトの「一行読めば書ける読書感想文」の方はどうしたのよ)。

ということで、せっかく来ていただいた、読書感想文に悩んでいる皆さんが失望しないように、今日は読書感想文の書き方を指南することにしましょう。「一行読めば書ける」なんていうトリッキーなものじゃないから、だいじょうぶだよ!
題材は、今年の課題図書から選びました。姉崎一馬「はっぱじゃないよ ぼくがいる」(アリス館)です。小学校低学年の部の課題図書。amazonから内容を紹介すると、
《葉っぱを見ていると、穴があいているものに気づくことがあります。穴があく理由は、虫が食べたり、風でこすれたりとさまざまです。とくに小さい子どもたちにとって、葉っぱの「目」はとても気になるものです。子どもたちと同じ目の高さでいっしょに見ると、そこには、子どもだったあのころの自然がまっています。あなのあいたはっぱが、森へのキップです。日本の森を撮りつづける写真家、姉崎一馬の写真絵本。 》
本屋さんでパラパラ見たところ、写真もキレイだし、オトナでも楽しめる一冊です。

では、実際に、この本に即して読書感想文の書き方を解説していきます。

(1)導入部
感想文の始まりです。「えーと、どうやって書き始めよう」と、いきなりここで悩んじゃう人は多いと思います。思い悩んだ挙げ句、「今日、○○という本を読みました」なんて書いちゃったりするウッカリさんがいるかもしれませんが、ブブー、それは浅はかというものです。
行数をかせぐためにも、導入のひと言を入れてみましょう。といっても、難しく考える必要はありません。読んだ本と関係ある何かを書くだけでいいのです。
「はっぱじゃないよ ぼくがいる」でいうと、たとえば、こんな感じ。

 道におちている葉っぱのもようが、人の顔のように見えて、びっくりすることがあります。


別に奇をてらわなくても、素直な一文でじゅうぶんです(上級者になると、ここで原稿用紙半分くらい書けるようになります)。段落の最初は1マス下げましょうね。

(2)あらすじ紹介
次に、本のあらすじや内容を手短にまとめてみましょう。課題図書である「はっぱじゃないよ ぼくがいる」であれば、先生も内容を知ってるでしょうが、「本の内容を知らない人に、これがどんな内容の本なのか、説明する」というつもりで書くことが大切です。
たとえば、こんな感じです。

 「はっぱじゃないよ ぼくがいる」は、そんな、顔のような葉っぱを集めたしゃしん集です。虫が食べてあながあいたり、かれて茶色くなったりしてできた、人の顔をした葉っぱ。ページをめくるたびに、へんな顔、おこり顔、ぼんやりした顔、「あ」と言ってる顔、えだについたみどりの葉っぱ、ゆきの上におちたかれ葉など、いろいろな顔、いろいろな葉っぱが出てきます。


あるいはひと言、簡単な感想を書き添えてもいいですね。最後の「葉っぱが出てきます」を、「葉っぱが出てきて、とても楽しいです」などとしてみても、いいかと思います。
読書感想文が苦手な人の中には、このあらすじ部分で文字数をかせごう、とする人が多いのではないでしょうか。でも、ブブー、ダメです。誰も知らないような本について書くのならともかく、課題図書や、一般的な読書感想文向けの本を題材にする場合は、ポイントだけを簡潔にまとめるべきです。だらだらとあらすじが続くと、なんだか頭が悪そうに見えますし、読み手(学校の先生)に、「こいつ、あらすじで文字数をかせごうとしてるな」と悪印象を与えかねません。

(3)自分の経験
あらすじの次に書くのは、もちろん本の感想! と思った人は、ブブーです。本を読んだ感想なんて、ふつう「楽しかった」「つまらなかった」「感動した」「戦争はいけないと思った」などなど、そんな程度。たくさん書けるものではありません。「読書感想文」だから、素直に感想だけ書く、そんな正直者は泣きを見るのです。

では、感想の代わりに、何を書くのか。私がおすすめするのは、「自分の経験」です。本の内容に関連した、自分の経験や思い出を書いてみるのです。ふつうの作文のような出来事の記録なら、本の感想に比べれば、少しは書けるはずです。そのうえ、読み手(学校の先生)にも、「この生徒は、この本を、自分の経験に引きつけて読んでいるな」と思わせることができて、一石二鳥です。
「はっぱじゃないよ ぼくがいる」では、こんな感じです。

 ぼくも、葉っぱの顔を見つけたい、と思って、さがしてみました。
 そうしたら、葉っぱではないけれど、人の顔に見えるものを見つけました。台所の天じょうのすみに、黒いしみがあって、それが人の顔に見えるのです。よく見ると、ないているような、おこっているような、ちょっとこわい顔です。
 お母さんに、
「あそこにあるしみ、人間の顔みたいだね」
と言うと、お母さんは、
「あら、今ごろ気づいたの。あのしみは、おばあちゃんが死んだあと、うかびあがってきたのよ。もしかしたら、おばあちゃんのれいかもしれないわね」
と言いました。お母さんは、ねたきりだったおばあちゃんに、毎日いじわるをしていたので、天じょうの顔は、本当におばあちゃんのれいかもしれません。


ちなみに、これは本当にあった真実のことでなくてもかまいません。本の内容に関係のある出来事が思いつかなければ、先生にばれない程度に、勝手にでっち上げてみましょう。
読書感想文上級者になると、この「自分の経験」を先に考えた後で、それにふさわしい本を選ぶ、ということができるようになりますよ。

(4)本の内容に戻って、作者の意図について考える
さて、あとはまとめるだけです。起承転結の「転」として持ちだした「自分の経験」を、ふたたび回収し、読んだ本に関連づけ、おさめるところにおさめる、という作業です。
この部分の内容として書きやすいのは、「作者の意図について考える」ことです。本の中の登場人物の気持ちではありませんよ。本を書いた作者の気持ちです。
「そんなこと、わかるわけがない。難しい」と思うかもしれませんが、そう、わかるわけがないから、いいんです。
これが登場人物の気持ちならば、たしかに、わかりやすいかもしれません。でも、わかったからといって、それが何なのですか。「最後まで口には出さなかったけど、タカシはユキコのことが好きだったのだと思います」と書いて、その後は、何を書いたらいいというのでしょう。「僕だったら、ぜったい告白すると思います」程度ではないでしょうか。すぐに、書くことに詰まってしまうはずです。
いいですか、わかるわけのない作者の考えだからこそ、いいかげんなことがたくさん書けるのです。読書感想文は、○×の問題を解くのではありません。勝手に思いついたことを、勝手に書く。それが、読書感想文の秘訣なのです。
「はっぱじゃないよ ぼくがいる」では、こんなふうにまとめてみました。

 「はっぱじゃないよ ぼくがいる」に出てくる葉っぱの顔も、もしかしたら、人の顔に見えるただのもようではないかもしれません。森の中で自さつしたり、ころされてうめられたりした人のれいが、葉っぱの上にあらわれているのです。そうして、うちの天じょうにうかび上がったおばあちゃんの顔のように、にくらしい人や、自分をころした人のことを、しずかに、じっと、にらんでいるのです。
 この本のさくしゃは、おんねんにみちたそうした顔を集めて本にすることで、もうだれにもとどくことのないうらみ、わすれられようとしているかなしみを、死んでしまった人たちにかわって、うったえかけているのではないでしょうか。たにんを死においやっておきながらのうのうとくらしている人たちへ、そして、それをゆるしてしまっている世間へ、社会へと、せいいっぱい、ひょうめいしているのです。「はっぱじゃないよ ぼくがいる」という題名にも、そうした気もちがこめられているのだと思います。
 一見したところ、ゆかいでおかしいだけのしゃしん集に思えるこの本には、弱いものにたいするさくしゃのふかい思いやり、そして正ぎをあいする心が、つまっているのです。


以上で、20字×56行。表題などを含めると、400字詰め原稿用紙3枚ぴったりになります。
原稿用紙に書き写すときは、誤字脱字に気をつけてくださいね。
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2007年07月20日

本の共食い

しかし考えてみると、本が生きものだったら、やっぱり餌が必要ですよね。
何を食べるんでしょう。手に取った人の生体エネルギーとか? いや、それだと、積んだままになった本の多くが、餓死しちゃいます。いちばんいいのは、部屋の埃を食べてくれることかなあ。本も傷まなくてすむし、一石二鳥! さらなるバイオテクノロジーの発展を期待したいものです。

しかし、部屋中に本が充満している、というような場合は、多少の埃程度では、すぐに餌不足になってしまいそうです。狭いところにぎゅうぎゅうおしこめられて、ただでさえストレス過剰の本は、飢えのあまり、ついには共食いを始めたりしないでしょうか。
大きく口を広げるように、白いページを貪欲に広げた単行本が、そばに横たわる薄い文庫本に猛然と飛びかかり、グシャッ、ブシュッ。薄いページの端を震わせて、断末魔の呻きをあげる文庫本‥‥。
いや、逆に、小回りのききそうな文庫本が、群れとなって単行本に襲いかかるのかもしれません。鈍重な単行本は何とか逃れようとするものの、文庫本がしなやかな身をくねらせながら次から次へと追いすがり‥‥。頑丈な厚いカバーを無理やり押し広げ、あらわとなった中面ページに、おびただしい数の文庫本がむしゃぶりついて、グシャッ、ブシュッ。後には、無残に引きちぎられたカバーが残るばかり‥‥。

そうやって、生き残った本は、またさらに他の本を喰らい、あるいは餌食にされ、いずれ最後には、1冊だけが残る‥‥。
って、これって、「蠱毒(こどく)」みたいですよね。蜘蛛やら蛇やらムカデやらを壷の中で共食いさせて、生き残った1匹を呪術に使う、あれ。うーん、最後に生き残りそうなのは、どんな本なのか。最近の小説や文庫は弱そうだし、辞書みたいな紙が薄くて鈍重そうなのは真っ先に喰らい尽くされていそうだし、著者のイメージからすると武田百合子あたりはしぶとく生き残りそうだけど、「富士日記」なんておいしそうだからすぐに狙われるかもしれない。

っていうか、しまっておいた本が、いつの間にか数冊だけになっていたとしたら、やだよね。食べた本が混じってたりするかもしれないし。
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2007年07月19日

本が生きていれば

本が虫じゃなくてよかった、ということを以前書いたのですが、しかしあるいは、本が生きているのも、いいかもしれません。
というのは、先日の「汚い本棚」の話に関連して、ここにいろんな本がぐちゃぐちゃに山と積まれた本だらけの部屋があるとしますね。「罪と罰」が全巻あるはずだけど全部ばらばら、山田風太郎の上にサリンジャーが積まれ、「冬虫夏草の謎」の下に「紅茶王子(12)」が敷いてある、という、カオスのような部屋だとします。
本が今のままの本であるかぎり、この状態はそのままです。誰かが整理しなければ、「罪と罰」の上巻は中巻、そして下巻と隣り合うことはなく、山田風太郎はサリンジャーと重なり合ったままです。

けれど、もし、本が生きているとしたら、どうか。シャーレの中で培養されたカビが、種類ごとにコロニーとなってかたまるように、本たちもだんだんとカテゴリーごとに分かれていくのではないでしょうか。
深夜、誰もいない部屋の中で、本たちが微かにページを波打たせながら、ズルリ、ズルリ、とゆっくり這っていくのです。「罪と罰」の上巻、中巻、下巻は互いに求めあい、「紅茶王子(12)」も「紅茶王子(1)」をはじめとする仲間を探してさまよい、サリンジャーはブルルッと表紙を震わせたかと思うと、おもむろにページを開いて山田風太郎の上から飛び立つのです。
そうして、カオスだったごちゃごちゃの本の山はいつの間にかカテゴリーごとに、このあたりの山はロシア文学、このあたりは時代小説、ここは科学エッセイ、ここは少女マンガ、と分かれていきます。もちろん、同じカテゴリー内でもさらに、たとえば花とゆめコミックスとりぼんマスコットコミックスがそれぞれ分かれたり、あさのあつこと森絵都と魚住直子が寄り集まっていったり、とどんどん細分化。時が経つほど、ますます整頓されていくわけです。まあ、なんて便利なんでしょう。

バイオテクノロジーが急速に進歩している今、菌類のDNAか何かを本に植え付けたりすれば、何とかなりそうなものですが、どうか。出版といえばデジタル方面ばかりが注目されてがちですが、バイオ方面にも目を配っておきたいものです。
ただ、これ、
「あの、僕、本はジャンルごとじゃなくて、すべて著者のあいうえお順で整理してるんですけど」
というような人には、迷惑かもしれませんね。そういう人は、しかたがない、買ってきた本は、火であぶるか、レンジでチンするかして、殺しておいてください。多少鮮度が落ちますが、まあ、そこは本、腐ることはありませんから、だいじょうぶです。
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2007年07月18日

萌え木賞

2007年上半期の直木賞は、松井今朝子「吉原手引草」が受賞しました。先日の記事でてきとうに予想した通りになってしまったわけですが、直木賞にはまだ萌えは早かった、ということなのかもしれません。9人の選考委員の中で唯一、萌えキャラ小説を書いてる平岩弓枝(「御宿かわせみ」シリーズの花世たんと「はやぶさ新八」シリーズの落合清四郎が萌えないとはいわせません)が、どんな選評を述べているかだけが、気になるところです。
ともあれ、かくして、北村薫「玻璃の天」をはじめ、打ち揃った萌え小説が軒並み落選してしまったわけですが、これをそのままにしてしまうのはもったいない気がします。せっかくですから、あらためてここで、萌えをキーワードとした賞の選考をしたいと思います。
その賞とは‥‥、ジャーン、直木賞ならぬ、
「萌え木賞」
く、くだらない‥‥、などと言わず、ちょっとだけおつきあいくださいませ。

対象となるのは、直木賞候補7作のうち、直木賞を取った非萌え小説「吉原手引草」を除く6作。この中で、桜庭一樹「赤朽葉家の伝説」は先日、非萌えである旨、指摘を受けたので、残るは5作。さらに、万城目学「鹿男あをによし」も、その萌え度は「おそらく萌えからそんなに隔たってるわけではなかろう」程度のものでしょうから(憶測ですが)、ここで萌え木賞候補は4作に絞り込まれます。
あらためていいますと、
・森見登美彦「夜は短し歩けよ乙女」(角川書店)
・畠中恵「まんまこと」(文藝春秋)
・北村薫「玻璃の天」(文藝春秋)
・三田完「俳風三麗花」(文藝春秋)

この中で、本命と思われるのは「夜は短し歩けよ乙女」でしょう。ヒロインの黒髪乙女が、むふう、もう、たまらん、こんな乙女に振り回されてみたいみたい!と煩悶している男子は多かろうと思います(私としてはむしろ、先日も延べたように、酔っぱらうと人の顔をべろべろと舐め回す羽貫さんのほうがいいのですが、しかし残念ながら、彼女のディテールはいまひとつはっきりしません)。
対抗馬は「玻璃の天」でしょうか。とりあえず中断している《私》シリーズに代わる、正面切っての萌え小説シリーズの第二弾。戦前の女学校に通うお嬢様と、美貌の御抱え運転手にして博覧強記、剣と短銃の達人というベッキーさんのコンビに、むふう、もう、たまらん、という男子も、やはり多かろうと思いますが、しかし、うーん、ベッキーさんについては前作「街の灯」の方が、よほど萌える気がします。謎の過去がちょっと明らかになったりしたわりには、あんまり目立たなかった気が。加えて、《私》シリーズとの差別化を意識しているからなのか、なんというかスケベったらしさのようなものが、《私》シリーズよりも弱め。その点はやや減点要因です。
男子よりも女子が萌えそうなのが「まんまこと」。「しゃばけ」シリーズの気弱な若だんなとキュートな妖怪たちに萌え狂った女子の皆さんは大いに期待して本書を手に取ったことでしょうが‥‥、すみません、未読です。読んでもないのに選考するのもどうかと思いますんで、今回は見送り。次回に期待しましょう(って、次回があるのか?)。
最後は、「俳風三麗花」。直木賞候補作発表まで全然知らなかった人と作品でしたが、ちょっと気になって図書館で借りてきました(直木賞候補になったっていうのに、予約待ちもせずにすぐ借りられちゃうのは、ちょっとどうかと思ったけど)。タイトル通り、登場するのは3人の俳句ムスメ。大学の先生だった父を亡くしたばかりで今はただの家事手伝いらしいちゑ、クールな外見の医学生・壽子、華やかな浅草芸者の松太郎。ということで、三者三様のその設定からして萌え。いや、作者はおそらく萌えを意識していないか、あるいは萌え小説にしようとして失敗しているかのどちらかで、この設定なのに実際は微妙に萌えをはずしていそうなところが、逆にこう、なんというか、萌え小説として読もうとする読み手に作品とのギャップを想像力で補わせる、というか、そこがかえって萌えかも、という気もします(第三章「冬薔薇」の“ああ、わたしったら、だめよだめ、女同士なのに‥‥”というのは、やりすぎだと思います)。そのうえ、3人の俳句の師匠にして、ちゑがほのかに想いを寄せる暮愁先生は、若そうに見えるけど作者と同年配で、そのあたりのスケベったらしさは、評価されるべきでしょう。

ということで、栄えある(ないけど)萌え木賞受賞作は‥‥。
うーん、当たり障りなく、
・森見登美彦「夜は短し歩けよ乙女」(角川書店)
・三田完「俳風三麗花」(文藝春秋)
の2作同時受賞、ということにしましょうか。
直木賞に続き萌え木賞も逃した北村薫には、今後の奮起を期待しましょう。

ちなみに、これらの中から2冊を読むとしたら、「俳風三麗花」と「玻璃の天」のセットがおすすめです。
時代設定が、ちょうど「俳風三麗花」が終わったあたりから「玻璃の天」が始まっていて、戦前、昭和ひとケタ時代の空気をどう描いているのか、両者を比べてみるのも楽しいです(この時代の微妙さについては「玻璃の天」は意識的だけど、「俳風三麗花」はわりと設定のみ、という感じです)。
posted by 清太郎 at 13:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月17日

インテリアと本棚

スタイリッシュなインテリア、というのが、いつの頃からかそれなりにブームです。建築ブームで安藤忠雄のような建築家の名前が一般の人にも知られるようになる一方で、イームズのイスやら何やらデザイナーものの家具や生活雑貨が売れるようになっています。
ちょっと前までは、どの家にもなぜか当然のようにあった、
・北海道土産のヒグマの置物(鮭をくわえてる)
・ガラスケース入りの博多人形
・電話の下の敷物(幼稚園のバザーで買った)
などはどんどん駆逐され、こだわって選んだ、価値のあるモノだけが置かれた室内、なんていうのがひとつの理想とされるようになっています。(そのくせ、雑誌やテレビに出てくる「スタイリッシュな住まい」に必ず置いてあるのがイームズのラウンジチェアか、そうでなければコルビュジエのシェーズロングだったりするのが、それはそれで「日本人らしい」のだけれど。)
本業界もこのブームに乗って、インテリア関連の本やムックをどんどん売っているわけですが、でも、それでいいのか。

八方美人男さん「セレブでハイセンスな読書家のために‥‥」を見てもわかるように、スタイリッシュなインテリアは、本質的に、本とは相容れません。
新築のマンションで、家具もすべて新調したデザイナーズ家具、可能なかぎりモノは少なくして、奥さんも若くてキレイ。そんなリビングリームであっても、そこに置かれた本棚に、
「本がぎっしり詰まっている」
と、それだけで、もうインテリアは台なし。いや、ぎっしりどころか、
「本がけっこう入っている」
というレベルで、もうダメです。
スタイリッシュなインテリアにふさわしい本棚とは、数えられる程度の本が立ててあって、本のほかにも何だかよくわかんない焼き物やら模型やら花やら高そうな置き時計が入っている、むしろ本よりも本じゃないもののほうがたくさん入っている、というような、本好きにとっては本棚とは呼べないシロモノなのです。

で、何がいいたいのかというと、こうです。将来、スタイリッシュなインテリアがどんどん広まって一般化・標準化し、昔どこの家にも北海道土産のヒグマの置物(鮭をくわえている)やガラスケース入りの博多人形や電話の下の敷物(幼稚園のバザーで買った)があったように、こだわって選んだ価値のあるモノだけが置かれた室内がどこにでも見られるようになったとしたら、本は、もう売れないのです。本なんてものは、インテリアにこだわりがない、部屋の中に北海道土産のヒグマの置物があっても意に介さないようなごく一部の人しか買わない、ということになってしまうのです。
そうなってしまってからでは、遅いのです。
「インテリアがブームだから、インテリア本を売ろう」なんて言ってる場合じゃないんです。
今、まさに、本は危急存亡の時にあるのです。
本業界は、風前の灯なのです。

だからといって、今さら、
「インテリアなんて、きれいじゃなくてもいいよー。汚い本棚こそ、スタイリッシュと呼べるんです」
などと識者の人が呼びかけたりなんかしてもしょうがないと思うので、ここはひとつ、違った角度から切り込むことが必要です。
たとえば、
「手が冷たい人は、心が温かい」
なんていわれるように、
「本棚が汚い人は、心がきれい」
というウワサを流すとか。
‥‥本業界の未来は、やっぱり、暗いかも。
posted by 清太郎 at 13:55| Comment(3) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月13日

大と小

以前読んだ小谷野敦『谷崎潤一郎伝―堂々たる人生』の冒頭で、「大谷崎」を「ダイタニザキ」と読むのか「オオタニザキ」と読むのかについて、三島由紀夫が「大近松(近松門左衛門のことです)をオオチカマツと呼ぶんだし、これはオオタニザキ」と言って、対談相手の舟橋聖一が「大成駒(オオナリコマ)というしね」と納得した、という話が引いてあり、しかしそれは違うの、谷崎が大谷崎なのは、弟の谷崎精二と区別して、兄の潤一郎が大谷崎、弟が小谷崎なの、大ピットと小ピットみたいなもんなの、というようなことが書いてあって、印象的でした。なるほど。
そのおおもとのところが忘れられて、「大谷崎」だけが独り歩きしたんですね。今ではみんな、「そりゃあの谷崎潤一郎だもんね、大のひとつも付くってもんよ」と思ってるわけです。

そんな「年長者」ではなく「偉大な」の意味の「大」ですが、しかし考えてみると谷崎以外は、「大荷風」くらいしか聞かない気がします(「大谷崎」に比べると「大荷風」はかなりマイナーな上に、谷崎嫌いの荷風ファンしか使ってない気がするけど)。
と思って、いろいろ考えてみたんですが、谷崎以外で「大」をつけようと思うと、これが意外に難しいのです。谷崎なら「ダイタニザキ」でも「オオタニザキ」でも格好がつくのに、他の人ではなかなかそういうわけにはいかない。

世間的な格からいえば、ノーベル賞受賞者の川端康成と大江健三郎は「大」にふさわしい気もするけど、川端が「大川端」ではなんだか「御宿かわせみ」みたいだし、大江が「大大江」では「オー・オー・エー? OOA? Object-Oriented Analysis(オブジェクト指向分析)?」ということになってこれまた意味不明。
明治・大正期の文豪ならどうかというと、たとえば森鴎外を「大森」と呼ぶのは貝塚みたいだから論外として、「大鴎外」も「ダイオウガイ」はダイオウイカの仲間みたいで微妙だし「オーオーガイ」ではもっと微妙。漱石も「大漱石」が「オーソーセキ」ではあんまりかっこよくない。(※ちなみに、ちょっと気になって今“大漱石”でググッてみたら、結果はわずか102件で、しかも一番上がこの前ここに書いた“等身大漱石人形”だったし、十位以内で目立ったのは“東北大「漱石ようかん」”でした。)
ほかに、志賀直哉が「大志賀」では座りが悪いし、武者小路実篤が「大武者小路」では長すぎるし、島崎藤村が「大島崎」では大谷崎とかぶりすぎる(「大藤村」では地名みたいだし)。
どんなにスゴイ作家でも、長生きしないと「大」っぽくないから「大芥川」「大樋口」「大子規」「大太宰」もダメ。

などと考えると、他には「大露伴」くらいしか残らない。でも露伴は長男じゃないし、「小露伴」がいるわけでもないしなあ。
長兄で、「大」と呼ばれる貫録があって、長生きして、「大」をつけて呼んでもカッコ悪くならないといったすべての条件を満たす谷崎潤一郎のスゴサをあらためて確認しました。
将来、この谷崎潤一郎をあらゆる点で上回る谷崎姓の偉大な作家が生まれて、あの谷崎はすごい、大谷崎こと谷崎潤一郎の上を行く、
「超谷崎だ」
ということになると、楽しいと思います。

ちなみに、そもそもこうやって血縁関係にある同姓の有名人を「大」「小」で区別する、ということが日本ではあまり見られない気がしますが、どうでしょう。世界史の授業では「大ピット・小ピット」をはじめ、「大ピピン・小ピピン」「大スキピオ・小スキピオ」「大カトー・小カトー」「大モルトケ・小モルトケ」なんかが出てきますが(でも、その程度かしら。「大ナポレオン」「小ナポレオン」というのも、いちおうあるのかな)、日本で思いつくのって、えーと、「大西郷・小西郷」くらいか(西郷隆盛と、弟の従道です)。
大石内蔵助と息子の主税が「大大石・小大石」だったり、あるいは、落語家の今は亡き五代目柳家小(こ)さんと息子の現小さんが「大小さん・小小さん」だったり、さらにその息子の花禄が将来小さんを継いだら小小さんがひとつ繰り上がって「大小さん・中小さん・小小さん」になったりすると、よくわかんなくておもしろいのに。
(しかし、小さんの場合は“いや、その前の四代目こそ「大」だ”という意見が出るかもしれないから、「大小さん・中小さん・小小さん・末小さん」になるかも。いや、そうなると、“漱石「三四郎」の中で「小さんは天才である。あんな芸術家はめったに出るものじゃない」と絶賛されていた三代目小さんこそ「大」というべきだ”という意見を尊重すべきだろうから、「大小さん・中小さん・小小さん・末小さん・凶小さん」ということになるかもしれなくて、もうわけがわかりません。)
posted by 清太郎 at 15:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月11日

新ハリー・ポッターZ

「登場人物のうち2人が死亡する」と話題のハリー・ポッターシリーズ最終巻「ハリー・ポッターと死の聖人たち」の発売が迫っています。ネット上では「ハリーを救え!」という請願署名が始まっているとのこと。
ハリーが生まれた英国ではかつて、死んだはずのシャーロック・ホームズが、熱烈なファンや出版社の要望で数年後によみがえった、という前例があるだけに、ファンのがんばり次第では続編が生まれるかもしれません。
ということで、最初の「賢者の石」の後はぜんぜん知らないハリー・ポッターですが、第7巻のラストシーンとともに、続編の幕開けを考えてみました。

「ハリー・ポッターの帰還」
7巻のラストシーン、ヴォルデモードとともに滝壷の底へと消えたハリー。さようならハリー、ありがとうハリー、キミのことは永遠に忘れないよ!
だがしかし! ハリーは死んでいなかった!
「僕たちは滝の縁でよろめいた。だが、僕は日本の格闘技の柔道をちょっと知っていてね。それが役に立ったというわけさ。僕が彼の腕をすり抜けると、彼は恐ろしい叫び声をあげて腕をばたばたさせながら落ちていったんだ」
絶体絶命のピンチから、奇跡のように帰還したハリーが、新たな冒険へと、今、旅立つ!

「ハリー・ポッターと七つの玉」
7巻のラストシーン、ヴォルデモードに後ろから組み付いたハリーは、ロンへと叫んだ。「今だ! 究極魔法を放つんだ!」「でも、できない、そんなことをしたら、キミも‥‥」「いいんだ、やれっ、ロン! 僕のことなら、心配するな、伝説の七つの玉を集めて、生き返らせてくれ!」。
涙ながらにロンが放った究極魔法が、ヴォルデモードとともにハリーを撃ち貫いた‥‥!
そして、今、ロンの新たな冒険が始まる。世界中に散らばった七つの玉を集めて、何でも願い事をかなえてくれるという伝説のドラゴンを呼びだすのだ。襲いかかるさまざまな苦難。同じく玉を追うライバルたち。だが、ロンはくじけない。あきらめない。だってハリー、僕はキミを生き返らせなくちゃならないんだ‥‥!
その頃、ハリーは、神様のもとで、特別な魔法の修業に励んでいるのだった‥‥。

「魔法戦士Zハリー・ポッター」
7巻のラストシーン、爆発、炎上する要塞から、辛くも脱出したロン。「ごめんよ、ハーマイオニー、僕にはまだ、帰るところがあるんだ‥‥」。
だが、崩れ落ちた要塞から、ハリーは帰ってこなかった。その少し前、ハリーは、逃げようとするヴォルデモードを究極魔法で打ち倒していたのだ(ヴォルデモードへ向かってつぶやいた最後の言葉は、「スネイプと仲良く暮らすがいい」だった)が、要塞の爆発とともに、そのまま行方知れずとなっていたのだ。
そして、数年後。最後の戦いのトラウマによって、引きこもり状態になっていたロンを、新しい仲間たちが迎えに来た。「新たな敵を倒すため、一緒に戦ってくれないか」。そして、その仲間たちのひとりとして現れた、サングラスのたくましい男が、今や「ポッタロ・ハリーナ」と名を変えた、あのハリーだった!
ハリー、いや、ハリーナとロンの新たな戦いに、君は、時の涙を見る。

「かえってきたハリー・ポッター」
7巻のラストシーン、ハリーの手を借りることなくヴォルデモードを打ち倒したロン。「見たろ、ハリー。勝ったんだよ。ぼくひとりで。もう安心して行けるだろ、ハリー」。翌朝、目が覚めると、ハリーは未来の魔法の国へと旅立っていたのだった。「きみがいなくなってから、部屋ががらんとしたよ。でもすぐなれると思う。だから心配するなよ、ハリー」。
だが、束の間の休息の後、新たな敵がロンに襲いかかるのだった! ロン、いきなりピンチ! しかしロンは思い出した。ハリーが旅立つ前、「何かあったら、これを使うんだ」と教えてくれた秘密の呪文、「ウソエイートー」を!
口にしたことと逆のことが起こる、というこの呪文を使って、ようやくすべての敵を退けたロンだが、そのとき彼の胸を満たしたのは、勝利の喜びでも満足でもなく、寂寥感だった。「こんなことしても、ハリー、キミが帰ってくることはないんだね‥‥」と、思わずつぶやくロン。
だが、呪文の効き目はまだ残っていた! 肩を落として魔法学校へ戻ってきたロンを待っていたのは、なんと、ハリー・ポッター、その人だったのだ! 「なぜかわかんないけど、帰ってくることになっちゃったんだ。‥‥ハハア、ウソエイートーの呪文をとなえて、僕が帰ってこない、って言ったんだね」。
笑顔で迎えるハリーに、ロンは号泣しながら抱きつくのだった。「ハリー、嬉しくない、これからもずうっと、ハリーと一緒に暮らさない!」
ハリーとロン、ふたりの愛に満ちた新生活が、今、始まる!


‥‥こんな続編なら、ない方がいいか。
posted by 清太郎 at 22:22| Comment(10) | TrackBack(2) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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