2007年04月27日

朝の読書の問題点

そういえば、先日の4月23日は「子ども読書の日」でした。私の子どもの頃にはなかった「朝の読書」は現在、小学校1万5,464校(実施率69%)、中学校7,200校(同66%)、高校ですら1,730校(同34%)で行われているそうです。(朝の読書推進協議会のアンケート調査による)
この「朝の読書」運動の効用について、「本を読まなかった子が読書好きになった」「子どもたちの集中力が高まった」「落ち着きが出てきた」「語彙が豊かになった」「遅刻やいじめが少なくなった」「他人を思いやる気持ちが出てきた」「彼女ができた」「背が伸びた」「やせた」など、さまざまなメリットが報告されているといいますが、しかし、公の場でいいことしかいわれていないもの、というのは往々にして、本当のところは決していいことばかりじゃなかったりします。
もちろん、メリットはメリットとして十分に評価することは必要です。しかし「朝の読書」についても、そのデメリット、問題点、暗黒面を、もっとちゃんと議論すべきではないでしょうか。

重大な問題点として真っ先に考えられるのは、時間が決まっている、ということです。10分間なり15分間なり、定められた時間が経過したら、読書の時間はおしまい。まあそのあと、休憩時間があるのかもしれないけど、1時間目の授業が始まっちゃうわけです。
そのときに、たとえば、星新一のショートショートのあと1ページを残すだけだったり、ミステリで次のページさえめくれば犯人がわかるという状況だったり、メインキャラだと思ってた人がいきなり絶命しちゃったシーンだったり、読んでいるのがキース・ロウ『トンネル・ヴィジョン』(ソニーマガジンズ)のような息もつかせぬスピーディ疾走本だったり、あるいはカズオ・イシグロ『日の名残り』(中公文庫)で、主人公の執事スティーブンスがひそかにちょっとだけ気にしている女中頭のミス・ケントン(彼女の方がスティーブンスにちょっと気があったらしいのだけど)が外出先から帰ってきた371ページで、
「‥‥よろしいわ、ミスター・スティーブンス。あなたがお急ぎだと言うのなら、私が申込みを受けいれたことだけをお伝えしておきます」
「申込みとは、ミス・ケントン?」
「結婚の申込みですわ」
「ああ‥‥さようですか、ミス・ケントン。では、私からも、心よりのおめでとうを申し上げます」
「ありがとうございます、ミスター・スティーブンス。もちろん、所定の通知期間は喜‥‥」
という、エッ、いいのいいの、スティーブンス、それでいいのキミは!?というシーンだったり、とまあそうした場合において、小中学生の子どもたちは1時間目の授業を集中して落ち着いて受けられるのか。続きが気になっちゃって、授業も上の空、そわそわしてこっそり机の下で本広げちゃったりとか、しないでしょうか。あるいは、山本周五郎を読んで思わず泣けてしまい、授業が始まっても涙がボロボロ止まらない、などということがないともいえません。
「朝の読書」は、子どもたちの集中力を高め、落ち着きをもたらすものであるかもしれませんが、逆に集中力をそぎ、落ち着かなくさせる、というデメリットもあわせ持つ、まさに「もろ刃の剣」でもあるんじゃないでしょうか。

ほかにも「朝の読書」には、はずかしい本(たとえば会田誠『青春と変態』ABC出版)を読んでいるのがばれて片思いの女の子に嫌われる、もしくはそれが原因でイジメにつながる、もしくは先生が独断で指導したりしてそれがプライバシーの侵害だとか児童の権利がどうとかということになってPTAで問題になる、ひとりの女子が持ちこんだ同人誌をきっかけにクラスの女子全員が腐女子化する、学級会で「同人誌は本か本じゃないか」という妙な討論をすることになる、本ばかり読んで休み時間に外で遊ばなくなって不健康になる、本に没頭して友達がいなくなる、本なんか読んでいてはろくな大人にならない、といったさまざまなデメリットが考えられるでしょう。

が、まあ以上のような難癖はともかく、「本と活字が好きで好きでたまらぬ、はあはあ、もうダメ、という人のため」のサイトやブログをこうして運営している(サイトの方は甚だしく滞っておりますが)個人としての至極真面目な意見をいいますと、「朝の読書の時間ですよ〜」という合図とともに、クラスのみんな全員が静かに本を開き、静かな読書時間を過ごす‥‥、っていう光景、なんだか、薄ら寒い気がするんですが、どうでしょうか。本を読むって、そういうことなのかなあ。
posted by 清太郎 at 17:37| Comment(20) | TrackBack(1) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月25日

朗読カラオケ

日本人の大好きなカラオケ。
でも、よく考えてみると、カラオケってずいぶん不平等である。不均衡である。甚だしく偏っているのである。
どのように偏っているかというと、だってほら、カラオケって、歌しかないではないか。一部の音楽業界が牛耳ってるのである。
えー、そんなの当たり前じゃん、などという人がいるかやもしれぬが、しかし、そういうところにこそ、商機というものはひそんでいるはずだ。ここに、われらが本業界が、割って入る余地がないとはいえないのだ。
カラオケだけど、歌わない。読むだけ、という、ズバリ、
「朗読カラオケ」
というのも、いいのではないか、と思うわけである。

とりあえず、一般的な音楽カラオケに便乗するかたちで、始めよう。カラオケボックスに付き物の、あの分厚い、えーと、何ていうの? カタログ? 目録? 歌本? とにかく、それのかたわらに、ちょっと薄めの一冊が置いてあって、開いてみると、まず浜崎あゆみやら倖田來未やらといったアーティスト名の代わりに、夏目漱石、森鴎外、村上春樹、司馬遼太郎と、ぜーんぶ作家名。
そして桜やら天城越えやら青春アミーゴやらの代わりに、雪国、走れメロス、高慢と偏見、蹴りたい背中と、ぜーんぶ作品名。
古今東西、さまざまな作家、さまざまな作品の、声に出して読みたい部分、おおよそ5分前後くらいずつが用意されているわけです。

することは、ふつうのカラオケと同じ。
「えーと、次は何にしようかな、えーと、えーと」
「もー、はやくしてよー、あたし入れちゃうよ」
「あー待って待って、これにする、これ、えーと」
ピピピ、ピッ。
で、モニタの画面にはカラオケと同じようなドラマが映し出され(音楽カラオケと共通でいいかな)、じゃまにならない程度のおだやかなBGMが流れ、そして、そこに表示されるテロップを見ながら、手にしたマイクに向かって、思いっきり感情を込めて、
「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です!」
‥‥うーん、なかなかいいではないか。

分厚い目録(?)の後ろの方には、「絵本・児童文学」(これはこれで、懐かしさを求める大人に人気である。朗読向けだし。「三びきのやぎのがらがらどん」を叫びながら読んだりして)とか「外国の本」とかと並んで、「メドレーコーナー」もある。これも人気。
「60年代ベスト」「自然主義メドレー」「芭蕉百句」「宮沢賢治メドレー」など、よりどりみどり。
「池波正太郎料理シーン特選」なんて、読んでいるうちにどんどんおなかが空いてしまうぞ。
「太宰治メドレー」の中身は、「女生徒(冒頭)→走れメロス(末尾)→斜陽(冒頭)→お伽草紙(狸が死ぬところ)→津軽(たけの独白)→駆け込み訴え(冒頭)」なんて感じだったりして、うーむ、思い浮かべるだけで大興奮。
よーし、「朗読カラオケ」、なかなかいけそうだ。

あ、別に、5分くらいに細切れにしなくてもいいか。長篇がまるごと入っていてもいい。
そうして、何度も何度もカラオケに通って、ついに、
「カラマーゾフの兄弟全編、カラオケで読み上げました」
というのも、なんだか若者らしくていいぞ。
posted by 清太郎 at 01:51| Comment(5) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月18日

ごんぎつねとビートルズ

「Hey Jude, don't make it bad(なあジュード、悪く考えるんじゃないよ)」
で始まるビートルズの代表的なバラード「ヘイ・ジュード」は、ジョン・レノンの息子ジュリアンに捧げられたものなのだそうです。ジョンが前妻シンシアと離婚する際に、当時5歳だったジュリアンのために、彼がなついていたポール・マッカートニーがつくった歌なのだとか。

しかし、60年代末、この曲を聴いた当時の日本の若者の多くは、そのあたりの事情を知らないまま、こう思ったに違いありません。
「ヘイジュー? ヘイジューって兵十? ごんぎつねの?」
もちろん、ビートルズと新美南吉の間に何か関係があるなんてバカバカしい話ですから、そんな考えに一瞬とらわれた人も、すぐさま打ち消してしまったことでしょう。

が、しかし、あらためて考えてみましょう。先日の記事にも書いたように、「ごんぎつね」という話は、もしかしたら兵十とごんぎつねの長い長い物語の短い序章であり、その後に続くのは、人間である兵十と獣であるごんとの、めくるめく、そして狂おしい愛の物語である、ということなのかもしれないわけです。
もしポール・マッカートニーが「ごんぎつね」の物語を知っていたとしたら(オノ・ヨーコがジョンと出会ったのが1966年、「ヘイ・ジュード」の発表が68年だそうですから、ポールはヨーコを通じて「ごんぎつね」を知ったのかもしれません。ただし、二人は仲良しではないので、その可能性は低いのですが)、豊かな感性を持った(たぶん)彼のことですから、それに思い至らないはずがありません。

そう思って「ヘイ・ジュード」の歌詞を見直すと、5歳の子供に向けてというよりも、ごんを撃ってしまった兵十に向けて、といった方がふさわしい歌詞であることに気付かされます。
冒頭の、
「Hey Jude, don't make it bad(ヘイジュー、悪く考えるんじゃないよ)」
はもちろんのこと、
「The minute you let her under your skin/Then you begin to make it better(あの子の心をしっかりつかんだら、いい方向に踏み出せるさ)」
「You have found her, now go and get her(あの子を見つけたんだろ、さっさとものにするんだ)」
「So let it out and let it in, Hey Jude, begin(心を開いて、受け入れるんだ、さあ、始めるんだ、ヘイジュー」
など、今しも禁断の愛の世界への一歩を踏み出そうとしている兵十を、強く、そして温かく、励ましているような内容なのです。

思い描いてみてください。「ごんぎつね」のラスト、火縄銃でごんを撃った兵十が、そこではじめて、栗や松茸を届けてくれていたのがごんだったことに気付き‥‥。

《「ごん、おまいだったのか、いつも、くりをくれたのは。」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
 兵十は、ひなわじゅうをばたりと取り落としました。青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました。》

筒先から立ち上る白い煙が、かすかにゆらめきながら、細く細く、真っ青な空へと立ち上っていく‥‥。そのシーンにかぶさるように、ゆるやかに流れ出すエンディングテーマ。
「ヘイジュー、don't make it bad‥‥」

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なんとも感動的ではありませんか。この物語に、まさにぴったりな曲、そしてメロディー。思わず、新美南吉に代わってビートルズにお礼をいいたくなります。

が、しかし念のため、「ごんぎつね」の本文を最初から読み直して、気付きました。
「兵十」の読みは「ひょうじゅう」なのね‥‥。「へいじゅう」だって、ずっと思ってたよー。
がっくし、「ヘイ・ジュード」=「ごんぎつねの兵十」説、いきなり破綻。
posted by 清太郎 at 22:21| Comment(3) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月17日

詩の乱射

米国でまた銃乱射事件があったそうですね。32人死亡だなんて。今日、仕事の打ち合わせ先で、新聞の夕刊を広げていた打ち合わせ相手の人が、警察官に担ぎ出されてる女子学生の写真を指さしながら、「外にいる人はコート着てたりして寒そうなのに、なんでこんな半袖なんだ! ガンガンに暖房かけすぎなんじゃないのか! エネルギーの無駄使いではないのか! “まさかこんなことが起きるとは”なんてコメントとってないで、新聞はこういうことを指摘すべきではないか!」と憤ってました。いや、それは一理ありますが。
米国内では銃の規制について、また議論が再燃することでしょうね。どうせうやむやになっちゃうんだろうけど。

というのは前置きで、規制といえば、SFを読んでいると、銃ではなく書物が規制されている社会、なんていうのがたまに登場します(たまに、とかいって『華氏四五一度』以外には、えーと、ル・グィンか誰かの話にあった気もするけど、思いつかない‥‥)。本を持っていることがばれたら、書物不法所持で逮捕されちゃうのね。
そういう社会では、本というのはとても危険で怖いものです、見つけても触ってはいけません、所持している人を見かけたらおまわりさんに通報しましょう、ということになっています。でもそれは建前で、禁止されているぶん、みんな本心では興味津々。ネットの掲示板では、「おまいら、昨日、歌舞伎町にシェイクスピアの『ハムレット』が落ちてたらしいぞwwwww」なんていう怪しい情報が飛び交ったりしてます。
そんな社会の大学で、講義中の教室に突然不審な男が侵入してきて、教授を押しのけ壇上に陣取ったかと思うと、コートの中に隠し持っていた本をバッと取りだし、たとえばブラウニングの「春の朝」、
 時は春、
 日は朝(あした)、
 朝は七時、
 片岡に露みちて、
 揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
 かたつむり枝に這ひ、
 神、そらに知ろしめす。
 すべて世は事も無し。
この詩を朗々と読み上げたとすると、その日のニュースの見出しは、
「詩の乱射 32人、感動」
なんてことになったりするんでしょうか。
書物の禁止された社会なんて、想像するだに不毛で恐ろしいように思えますが、そうしてみると、なんだか平和な社会のような気もします。

書物が禁止されてるんだけどディストピアになっていない、そんなSF小説って、ないものかしらん。
posted by 清太郎 at 19:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月16日

実践! スローリード

土に根を下ろし、風とともに生き、種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌うような、地に足が着いた読書生活「スローリード」。われながら、なかなか美しい理想ではないかと思うので、ひとつ実践してみることにしました。
ただし、一年を通じて行うには時間がかかりすぎるので、とりあえず一日で。
四季の移り変わりに寄り添い、春には春の本を、夏には夏の本を読む、というそのかわりに、一日の生活のリズムに寄り添って、食事時にはごはんの本を、就寝時には睡眠の本を、読んでみることにします。
さて、どうなるか。

まず、朝。目覚めです。昨夜のうちに、枕元に用意しておきました。
目覚めそのものについて書かれた作品というのはあまり聞きませんが、目覚めの時間が大切なポイントである作品ならいろいろありそうですよね。目が覚めたら××だった、というような。『世界の中心で、愛をさけぶ』は冒頭、
《朝、目が覚めると泣いていた。いつものことだ。》
ですし、カフカの『変身』は、
《ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気掛かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した。》
です。しかし、目が覚めてすぐ、いきなり泣いてたり毒虫になってたりするのを読むのはなんだかあまりいい目覚めじゃない気がします。
《朝起きたら、なかなか記録的な二日酔いで、そのうえ、枕もとには靴が置いてあったけど、あれはなに?》
という、『枕もとに靴』(北大路公子)というのもありますが、そんな目覚めも、イヤです。
なので、もうちょっと爽やかな目覚めの時間を楽しむために、太宰治「女生徒」を。
《あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ‥‥》
という冒頭のパラグラフを2回くらい読んでると、だんだん頭がハッキリしてきます。

そうして、
《朝は、意地悪。》
などとつぶやきながら、のそのそ起き出して、顔洗ったりした後、朝ごはんタイムです。
今朝は、残りもの野菜のコンソメスープに、バゲットとアボカドディップ。この朝ごはんにあう本は何か。これがみそ汁に納豆であれば、迷うことなく東海林さだおの「おかずは鮭か納豆か」(『東海林さだおの弁当箱』朝日文芸文庫)なんかをごはんの友とするところですが、パンとスープでは、しっくりこない。もうちょっとバタ臭い感じのもので‥‥、といっても食べものエッセイの持ち合わせがあまりなくて選択肢はほとんどないので、吉田健一にしましょう。『私の食物誌』や『舌鼓ところどころ』(ともに中公文庫)もいいけれど、『英国に就て』(ちくま文庫)。
英国のいろんなトピックについて軽く、しかし深く豊かに語ったこのエッセイの「食べものと飲みもの」「英国人の食べもの」「パンとバタ」あたりを読んで、
《まず、朝の食事というものがある。意地汚いものにとっては、これで一日の仕事振りなり何なりすべてが決定するので、だから支那人を除けば、英国人ほど朝の食事の献立に力を入れてきた国民はないだろうと思う。》
などというのに、なるほどなるほどと思いつつ、朝ごはんを食べ終え、洗い物などをして、そうこうしているうちに、あ、トイレに行きたくなってきた。人生において大切なものは三つあり、そのひとつが便通である、と内村鑑三も言ってます(あとの二つは忘れた)。

トイレで読むのにぴったりなのは、もちろん、トイレや糞尿方面の本です。
妹尾河童『河童が覗いたトイレまんだら』(文春文庫)か藤田雅矢『糞袋』(新潮社)でもあればちょうどいいんだけど、手元にないし。えーとえーと、どうしようかな、えーと、わーイカン、切羽詰ってきた、あわわ、えーとえーと、あ、そうだ、尾篭な話といえば、これこれ。フランソワ・ラブレー『ラブレー第一之書 ガルガンチュワ物語』(岩波文庫)。
積んだままでちゃんと読んだことないんですが、壮大なスケールの下ネタ満載大活劇であることくらい知ってます。これの第13章「尻を拭く妙法を考え出したガルガンチュワの優れた頭の働きをグラングゥジエが認めたこと」などは、まさにトイレで読むにふさわしい内容です。ガルガンチュワがいろんなものでお尻を拭いて、拭き心地をためした結果を、父王グラングゥジエに報告してるシーン。
《また或る時には、真青な繻子の頭巾耳当でもやってみましたが、でかでかとつけられていた糞いまいましい金モールのために、お尻をすっかりひんむかれてしまいましたよ。こんなものを作った金銀細工師と、こんな奴をつけていた腰元の直腸なんか、聖アントワヌ熱でかっかと燃えちまうがいいです!》
ちなみにこのとき、ガルガンチュワはまだ子供(5歳?)。

さて、すっきり気分になって、ちょっと休憩。外はいいお天気で、あたたかそう。こんなのんびりしているときに何か読むとしたら、切った張ったのシビアな小説とか社会の深部をえぐるノンフィクションなどは似合わないですよね。えーと、何がいいかしら‥‥、と本棚を見渡して、うん、これなんか、いいんじゃないかしら、庄野潤三『せきれい』(文春文庫)
庄野家の日常をあるがままのごとく日記風につづった連作シリーズです。これをパラパラめくって、4月あたりを探すと、
《大阪行き(四月十六日)。》
と、ちょうどいい一章がありました。そうそう、毎年4月は、大阪にお墓参りに行くんだよね。このシリーズ、季節が経巡ってくるたびに、いつもそれまでと同じようなことをしている、その「いつも同じ感」が、とっても心地よいのです。あ、でも、これまでずっと一緒の阪田寛夫は、死んじゃったんだよなあ。

さて、お昼が近づいて、そろそろお出かけの時間です。ちょっと池袋まで買い物に。
目的地が池袋なだけに、石田衣良『池袋ウエストゲートパーク』(文春文庫)なんかを持っていくといいのかもしれないのだけれど、これも手元になし。あ、すごく関係ないけど、石田衣良に名前がちょっと似てるはらたいらのことを奥さんが回想した原ちず子『はらたいらに全部』(アスコム)というのが、このまえ出てましたよね。

池袋本が思い当たらないので、お出かけ本ということで、武田百合子『遊覧日記』(ちくま文庫)。たかが買い物に出かけるのに、こんなお出かけ本の頂点を極めるような作品を持ち出すのは大げさではないか、と思わないでもないんだけど、まあこれも、さして他に選択肢がないのでしかたがない。出かける用意をしながら、
《わが家の茶の間の柱には「金曜日、花屋敷は休み」と貼紙がしてある。折角、浅草に出かけて行っても、花屋敷が閉っていれば、損したようなつまらない気分になるからだ。》
なんていうのを見ていると、ついつい読みふけってしまったりなんかして、あわわ、急げ急げ。

電車に乗って、池袋へ。車内ではもちろん、鉄道本が必要です。これがテツの人であれば、本棚に宮脇俊三なんかの鉄道エッセイがどっさり並んでいるだろうから困ることはないのだろうけど、私はテツではないので、ちょっと困ります。えーと、鉄道本、鉄道本‥‥。北朝鮮の鉄道事情を可能な限り調べつくした国分隼人『将軍様の鉄道』(新潮社)があるけど、でも文庫のほうがいいし‥‥。ということで、当たり障りのないところで、内田百閨w第一阿房列車』(新潮文庫)
《なんにも用がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。》
というのと違って、用があって鉄道を利用するだけなのが百關謳カに申し訳ないのですが、この際そういう細かいことを言ってられません。

さて、百關謳カが大阪に着かないうちに池袋に到着して、ちょっとぶらぶらして、ランチは「アフタヌーンティー・ティールーム」。出かける前に、ここでランチにすることは決めてあったので、そのための本も持ってきました。これがカツ丼やらラーメンやらであれば東海林さだおの出番でしょうが、残念ながら、パスタと紅茶です。また吉田健一を引っ張り出すのは芸がないので、今度は森茉莉『私の美の世界』(新潮文庫)。これの、「貧乏サヴァラン」のあたりを。‥‥なのだけど、しまった、こんなオバチャンたちがゲハゲハとしゃべり散らかしてるようなお店で読むには、ふさわしいとはいえない内容でした。
とはいえ、「香水の話」とか「絹のマフラア」とか「手袋の話」とか「背広の美」とか、いろんなトピックが並ぶこの本、買い物の途中にも使えて便利です。薄くてかさばらないし。

と、そうして、買い物も済んだし、帰宅します。また内田百關謳カとともに電車旅。
帰ってから夕方まで、ちょっと仕事です。
仕事をするとなると、やっぱり仕事をしているときにぴったりの本を読むべきですよね。ただし、うちにはそういうときに役立ちそうないわゆるビジネス本が一冊もない(仕事をサボるのにぴったりの本ならいろいろあるんだけど)。っていうか、そもそも仕事中に本を読む、ということ自体、流行らない古本屋の店番を仕事にしてたりとか、そうじゃないかぎり、なかなかできるものではありません。
無念、スローリードの生活も一時中断か、ということになるのですが、いやいや、だいじょうぶ。今日のお仕事はたまたま書評の原稿書きだったので、書評のための本を読みました。『田崎真也の今こそ島焼酎』(実業之日本社)とか。

さて、そろそろ夕ごはんの時間です。今夜は、白菜とツナのわーっと煮、イクラの手巻き寿司、鯵の酢〆め、買ってきたロースとビーフの何とか。それに、もらいものの日本酒(どちらかというと、料理よりこっちのほうが主役)。でも食べる前に、読むべき本を選んでおかなくちゃ。えーとえーと、どうしよう。三度目の正直で今度こそ東海林さだおにすべきか。しかし、東海林さだおなら、やっぱりビールだよねえ、日本酒には今ひとつ、あわない気がします。えーとえーと、イカン、迷ってる場合じゃない、おなかがグゥグゥ鳴ってます。そうだ、おかずに鯵があるし、これにしよう、橋治『青魚下魚安魚讃歌』(朝日文庫)。鯵やら鰯やらの食べ歩きカラー本です。うーん、いつ見てもおいしそう。この一冊だけで酒の肴になります。

などと思いつつチョビチョビ飲んでいると、日本酒はあまり飲みつけないこともあって、けっこういい気分になってしまった。ふわ〜。
うーむ、そうだ、酔っ払ったときには、酔っ払ったときに読むべき本を読まねば。ふわわ。えーと、酔っ払いの本、酔っ払いの本‥‥、あ、ありましたありました。朝の目覚め本のときに却下した一冊。北大路公子『枕もとに靴』(寿郎社)です。副題からして「ああ無情の泥酔日記」。大酒飲んでは酔っ払って、翌朝、目が覚めたら枕もとに靴がおいてあったり、あるいは靴はなかったけど講談社文庫の一ページをちぎったのに梅干がていねいに包んで置いてあったり、知り合いのところに「10年間オシメ」という謎のメモを残してきたり、ビール飲んでいるうちに野菜ラーメンが食べたくなって自力で調理したんだけど食べ終わったあとに野菜ラーメンの「野菜」部分を入れ忘れてたことに気付いて野菜だけ食べたり、と、そんなのを読んでいると、にんげん酔っ払ってばかりいてはイカンなあ、ということに当たり前の真実にあらためて気付かされます(それだけじゃないんだけど)。
ちなみに、この本に出てくる(あ、いや、出てこないんだっけ。まあいいや)「ウェブ日記小僧」の絵が入ったオリジナル手拭の絵は、ずいぶん前だけど、私が描きました。まだ品切れじゃないよね?(宣伝)

などと思ってるうちに、酔いもてきとうにさめてきましたので、お風呂入って寝ます。お風呂の中ではふだん読書したりすることはないんですが、今日は土に根を下ろし、風とともに生きるスローリードの日ですから、本が必要です。もちろん、お風呂関連の本。ということで、これこれ、益田ミリ『女湯のできごと』(光文社知恵の森文庫)。読んでいるとホワホワしてくる、ヘタウマイラストエッセイです。本が本だけに、ここは実際に女湯に入るのが正しいのでしょうが、そのあたりはちょっとズルして、自宅の小さなお風呂です。ゆっくり味わっていると湯気で本が傷むので、パッと入ってパッと出ます(なんだか、本末転倒かしら。まあいいや)。

はー、やれやれ、充実した一日でした。この報告を書き上げてアップロードしたら、あとは寝るだけです。えーと、寝る前には、睡眠本を読まなくちゃね。えーとえーと、川端康成『眠れる美女』(新潮文庫)あたりでいいかしら。それと、必要になるかもしれない場合に備えて、太田垣晴子『オトコとオンナの深い穴』(メディアファクトリー)も用意して‥‥。

ということで、本とともに過ごす一日も、そろそろおしまい。種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌うところまではいかないけれど、土に根を下ろし、風とともに生きるような、地に足が着いたスローな一日読書ライフでした。
しかし、実際のところ、何かにつけてそれに対応する本が必要っていうのは、あわただしくてタイヘン。ぜんぜんスローじゃありませんでした。

一日実験してみて、達した結論は、ズバリ、これ。
スローリード、失敗。
posted by 清太郎 at 01:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月13日

春には春の本を

先週も、今週も、朝は晴れていたのに、午後になって一転、空がかき曇り、雨とともにピカッ、ドロロン、と稲妻。なんだよー、雨降るなんて聞いてないよー、と思いつつも、
「春雷かあ、春が来たんだなあ」
と、この時期の突然の雨には、なんだかあたたかな気持ちになる。

昔と違って、四季の微妙な移ろいを感じさせるものが都会ではめっきり少なくなった、というけれど(しかし春のこの時期については、道端の野の花やら植木の花やら街路樹の芽吹きやらで、冬の終わりから春の展開まで案外事細かに感じられる。最近、職場の入口の脇のところにトキワハゼが二輪咲いていてかわいらしい)、一方で、今たけなわの五月人形商戦をはじめ、クリスマスやらバレンタイン、お中元にお歳暮、「冷やし中華はじめました」に「土用丑の日」、春物バーゲンに秋の新作、近年だと節分の恵方巻きなどなど、お店の店先でわかる、街なかならではの四季もある。
以上の例を見てもわかるように、この分野に強いのは伝統的に、食品業界や服飾業界、玩具業界だったわけだが、ここにわれらが本業界も、なんとか食い込めないものか、というのが本日の論題。
「本屋さんの店先に並ぶ本を見て、季節を知る」
ということにならないものか。

たとえば、この時期。春。
これが食品業界であれば、
「春になったので、春の旬の食材を使いましょう」
ということになるし、服飾業界であれば、
「そろそろ春らしい装いで」
ということになるというのに、われらが本業界で、
「春ですから、春の本を読みましょう」
ということが少しもいわれないのは、どうしたわけなのだ。エッ。
春にふさわしい本がない、ということではあるまい。春にまつわる作品なんて、それこそ枚挙にいとまがない。タイトルだけで見ても、島崎藤村「春」、芥川龍之介「春」、太宰治「春」、宮沢賢治「春と修羅」、ヘッセ「春の嵐」、宮城道雄「春の海」、芝木好子「春の散歩」、増田みず子「ふたつの春」、庄野潤三「ガンビアの春」、泉鏡花「春昼」、坂口安吾「桜の森の満開の下」、坂東眞砂子「桜雨」、司馬遼太郎「菜の花の沖」‥‥。

たくさんあり過ぎてセレクトに困る、というのであれば、エーイ、わかった、1作品でいい。たとえば仮に、横光利一の「春は馬車に乗って」としよう(時期的には、早春、3月くらいの方が似合いそうだけど)。
節分には恵方巻きにかぶりつく、土用丑の日にはうなぎを食べる、と同じように、春になったら「春は馬車に乗って」を読む、ということにするのだ。どうやってそうするのか、なんてことは全国出版協会とか電通とかが考えることであって、我々はそれが実現した先のことだけ想像すればいい。

春になったら、日本人たるもの、「春は馬車に乗って」なのである。
小学生でも、
「えー、なんかー、よく意味わかんないしー」
とかいいつつ、「春は馬車に乗って」なのである。
昔の作品で著作権云々の面倒がないから、どの出版社も春が近づくと「春は馬車に乗って」を刊行する。本屋さんに行くと、店頭には「春は馬車に乗ってコーナー」ができていて、色とりどりの「春は馬車に乗って」がドカンと平積み。
「去年買ったから、うちにある」という人でも、流行りのデザイナーの装丁によるピカピカの「春は馬車に乗って」を見ていると、思わず手がのびてしまう。
装丁ばかりか、中身も違う。「春は馬車に乗って」は短編だから、「春は馬車に乗って 他五篇」とか「春は馬車に乗って 〜横光利一短編集」とか、春にまつわる短編を集めた「春は馬車に乗って 〜春のアンソロジー」とか、あるいは原作・横光利一/画・武論尊の漫画「春は馬車に乗って」とか、さらにはラノベ風の挿絵がいっぱい入った「ハルバシャ!」とか「ちょっとエッチな春は馬車に乗って」とか、いろんな「春は馬車に乗って」が並んでいるから、読書人としては一冊くらい購入しないわけにはいかない。
そうしてダ・ヴィンチや本の雑誌、いや週刊文春あたりで「今年の『春は馬車に乗って』読み比べ」「2007年のベスト“ハルバシャ”はコレだ!」といった特集が組まれ、さらに人々は本屋さんに足を運び、出版社や書店は潤い、誰もがなんだか季節の文化的行事に参加したなあという気分になって満足する‥‥。うーん、いいではないか。
2月のまだ寒いころ、本屋さんの店先にチラホラと並び始めた「春は馬車に乗って」を目にして、
「あら、ハルバシャが。今年も、もうこんな時期なのね‥‥」
ということになれば、これぞ日本の四季、というものではないか、と思うのだが。

そうして、これに味をしめた業界が、夏にはシェイクスピア「夏の夜の夢」、秋には太宰の「ア、秋」、冬には永井龍男「冬の日」のキャンペーンを行い、さらに4つだけでは物足りない、と雛祭りの時期には泉鏡花「雛がたり」、クリスマスにはO・ヘンリ「賢者の贈り物」、母の日には長谷川伸「瞼の母」、敬老の日には岡本かの子「老妓抄」、みどりの日にはブライアン・W・オールディス「地球の長い午後」、海の日には足立倫行「日本海のイカ」、6月16日にはジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」、8月9日には林京子「祭りの場」、終戦記念日には宮脇俊三「米坂線109列車」‥‥と、どんどん増殖していったりすると、それはそれでちょっとイヤではあるが、しかしこうして、春には春の本を読み、夏には夏の本、秋は秋の本と過ごし、冬には冬の本を読む、そんな季節と自然の移ろいにぴったり寄り添い大地とともに生きるような読書生活は、スローライフならぬ、
「スローリード」
という感じで、なかなかステキかもしれない。
posted by 清太郎 at 22:45| Comment(6) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月12日

振り出しに戻る

同じネタをさらに引っ張って申し訳ないんですが、意外に人気が出た「文学淑女喫茶」。
でもしかし、その「文学淑女喫茶」のすぐそばに、
「文学少女喫茶」
がオープンしたとしたら、どうでしょうか。

そこでは、つややかな黒髪で眼鏡をかけた清楚な感じの文学少女が、入口脇のレジの奥で、膝の上に広げた単行本を読んでいて、お客さんが入ってくると少しだけ顔を上げて、いささかぶっきらぼうな声で、
「いらっしゃいませ」
と声をかけ、やれやれ‥‥といったややものぐさげな面持ちでパタンと本を閉じて注文を取りに来てくれ、その後また定位置のレジの奥に戻ると本を開いて読書に没頭する‥‥、というような、設定としては、
「喫茶店をやっているお姉さんのところに、あんたちょっとうちの店でバイトでもしない?どうせお客さんなんてそんな多いわけじゃないんだしヒマなときは本読んでていいわよ、なんていわれて手伝いに来ている文学少女」
といったあたりの、そんな「文学少女喫茶」ができたとしたら‥‥。やっぱり、こっちのお店の常連になっちゃうかな‥‥。文学淑女さん、ごめんなさい。

レジの奥じゃなくても、カウンターの片隅の席なんかに座っていて、注文をとりに来てくれるとき以外お客さんに見えるのは、彼女のほっそりとした後ろ姿と、そしてたまに髪をかき上げるときにチラリと見える細い指先、桜色の耳ばかり‥‥、というのでも、いい。たまりません。

文学少女というブランドには、なかなか太刀打ちできるものではないですね。
posted by 清太郎 at 14:48| Comment(5) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月11日

少女と熟女の間

えー、昨日の記事ではてきとうにごまかしていましたが、文学少女は、少女時代を過ぎ去ったらいきなり文学熟女になるわけではありませんよね。文学少女と文学熟女の間にもやはり、未知にして広大な地平が広がっているはずです。
じゃあいったいどんな地平なのかというと、それがちょっと難しくて、少女や熟女のように「○女」とパッとひと言であらわせる言葉が見つからない。昔ならば十代の終わり以降は「年増」と「行き遅れ」くらいしか言葉がなくても済んだ(その一方で、妻を表す言葉はすごくいっぱいある)のかもしれないけど、今じゃそういうわけにもいかないからねえ。戦後、社会の変動に対応するようなちゃんとした言葉をつくってこなかったツケが、こんなところにも回ってきてます(いや、だからといって、そんなに困ることはないんだけど)。

ともあれ、今まさに少女という殻を脱ぎ捨て、大人の女へと一歩踏み出そうとする文学少女は、文学熟女になる前に、何を目指せばいいのか。
いきなり結婚してしまって、
「文学マダム」
になる、というのもひとつの手段でありますが、しかし少女からいきなり人妻になってしまうなんて、
「幼妻かぁ、むへへ」
「えーっ、だんなさん、ロリコンなのぉ!?」
「部屋の中では、やっぱり、セーラー服着てるんですか」
「スクール水着かも」
というようなあらぬ誤解を招いてしまい、文学どころではなくなってしまうので、推奨できません。

ならば、何があるのか。
「文学婦人」
などというのも原理的には考えられますが、昔の「職業婦人」のようで、いかにも古くさいし、しかも堅苦しい。「婦人」なんて言葉は、志ん生の落語CDなんかで、
「ご婦人ってもんは‥‥、へへへ‥‥」
なんていうのを聞く程度でじゅうぶんです。

などと、いろいろ考えた末、やや限定的ですが、
「文学淑女」
というのは、いかがでしょうか。
ややクラシックな雰囲気のロングスカートで髪はアップ、眼鏡に手袋、外では日傘、和装も可。そんなたおやかな文学淑女が、公園のベンチで、街のカフェで、図書館で、プールサイドで、ひとり静かに本を開いている姿を写した、
「総勢63人の文学淑女たちの写真集」
というのに、どれほどの需要があるかはわかりませんが(もちろん、「これでごはん3杯、まかせてください!」と胸を張る頼もしい男子の存在は否定しませんが)、それはそれとして、こんな文学淑女が、読んでいた本を静かにパタンと閉じて、ゆっくりとこちらを振り向き、上品な笑顔とともに、
「あら、いらっしゃい。御紅茶になさいます? それとも、御本?」
と声をかけてくれるような、
「文学淑女喫茶」
が近所にオープンしたら、その常連として名を連ねることに、私としてはやぶさかでない心積もりです。
posted by 清太郎 at 14:17| Comment(8) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月10日

文学熟女問題

昨日の文学少女の記事に対して、
>文学少女もいいですが、少女とか女子高生ばかりもてはやすのは
>どうかと思います。
>文学好きの女子は、年を取ったら、ただの「元・文学少女」に
>なるだけなんでしょうか? そして「元・文学少女」には、
>何の価値もないんでしょうか?
という、まことに示唆に富んだご指摘メールをいただきましたので、今回はこの点について、議論を深めたいと思います。

なるほど、たしかに「文学少女」の範疇には、少女しか入っておりません。そして、女が少女である時期は、ほんのわずか。それゆえに希少価値がある、という意見もあるでしょうが、しかし文学を愛好する女性の魅力が「文学少女」の時期を過ぎれば消え去る、ということはないでしょう。「元・文学少女」の方のご指摘も、もっともですね。
「文学少女」という言葉にとらわれる余り、我々は自ら視野を狭めてしまっていたのです。少女にこだわることをやめ、少女の枠組を超え出さえすれば、我々の前には未知なる、そして広大な地平が広がっているのです。

考えてみれば、広い世間には少女ファンやセーラー服マニアだけがいるわけではないですよね。もっと年増の女性が好き、という熟女ファンも多いのです。それにならって我々もそろそろ、清楚な文学少女ばかりに拘泥していないで、濃厚な大人の色香を漂わせた、
「文学熟女」
の魅力に気づくべきなのかもしれません。

では、文学熟女の魅力とは何でしょうか。
単に、文学少女の熟女版、というのでは、二番煎じでつまらない気がします。自宅のリビングで紅茶を飲みながら本を広げる文学熟女、空港のベンチで搭乗時間までのひとときを読書にひたって過ごす文学熟女、バーのカウンターでカクテルを片手にひとり本を広げる文学熟女などなど、
「総勢63人の文学熟女たちの写真集」
ということになったとしても、まあもちろん、これはこれで、
「ごはん3杯は軽くいけます!」
と力強くうなずく男子も多いかもしれませんが、しかし文学少女と同じように、
「文学熟女に萌えて萌えてしょうがないすべての文学熟女ファンと、そうでないすべての人々」
のハートをギュギュッとわしづかみ、というわけにはいかないでしょう。

ならば、どうするべきなのでしょう。思うに、眺めているだけで楽しめる文学少女と違って、文学熟女に対して我々は、もっとインタラクティブな楽しみを求めるべきなのではないでしょうか。インタラクティブ、つまり、会話をしたり触れ合ったり、です。
何しろ、その身体を幾多の本たちが通り過ぎていった文学熟女は、それら過去の本たちから教えられたさまざまな知識と知恵、手練手管を備えているのです。そんな文学熟女に巧みにリードされながらの、めくるめくような文学バナシ‥‥。
「あら、何読んでるの、『狭き門』、いいじゃないの。こう見えても、私も昔はけっこう、狭き門だったのよ」
何気ないひと言にも、秘められた深い意図が隠されているかもしれなくて、スリルに満ちた水面下の駆け引きにも、思わずゾクゾクです。こんな大人の楽しみは、経験の浅い文学少女には望むべくもありません。

考えてみれば17世紀のランブイエ侯爵夫人から、サブレ侯爵夫人やマチルド皇女、戸川昌子まで、優雅なマダムの主催するサロンは、文学が生まれる場のひとつでした。そして、サロンを訪れる男たちの目的は、仲間との議論だけではなかったはずです。マダムの機知や言葉に陶然となり、マダムに手玉に取られ、もてあそばれること、そんな歓びが、これら文学サロンの興隆をもたらしたのでしょう。昔の方が、文学熟女が高く評価されていたのです。

ということで、文学熟女復権のためにも、我々は今こそ、
「文学熟女の文学サロン」
のオープンを期待すべきではないでしょうか。
扉を開けると、みっしり詰まった本棚に囲まれたほの暗い部屋の中で、熟れた姿態をソファの上に横たえながらジョイスあたりを読んでいた文学熟女が、物憂げに目を上げ、
「あら、いらっしゃい、ふふ、今日は何読んでるの」
と声をかけてくれる「文学熟女サロン」があるとしたら‥‥。
おそらく、
「文学熟女に萌えて萌えてしょうがないすべての文学熟女ファンと、そうでないすべての人々」
のハートを、ギュギュッとわしづかみすることでしょう。
posted by 清太郎 at 17:01| Comment(2) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月09日

文学少女写真集

最近、太田出版から『マスク☆ムスメ』という写真集が出たそうです。
『メガネ男子』『スーツ男子』(アスペクト)にはじまって(いや、はじまったのはもっと前からかもしれないけど)、『ガールズメガネ』(太田出版)ときた萌えジャンルの写真集ですが、
「今回それを上回る全く新しい萌えジャンルが登場!それが「マスク萌え」!」
とのことで、
「本邦初、総勢63人のマスクムスメたちの写真集」
なのです。
「マスクをしている女の子に萌えて萌えてしようがないすべてのマスクフェチと、そうでないすべての人々に送る前代未聞の写真集」
をうたっております。これに寄せた、みうらじゅんのコメント、
「マスクは下着である」
というのは、なるほど、みうらじゅんならではのステキ文句ですね。

それはそうと、よく考えてみると、こんなマスクムスメなんかよりもよっぽどありがちで、そして愛好者の裾野も広いと思われる、われらが「文学少女」の写真集が、これまでなかったんじゃないでしょうか(とりあえずGoogleで「文学少女 写真集」を検索してみたけど、それっぽいのが出てこなかった)。

全ページ、すべてが文学少女。
色白で長い黒髪の清楚な感じのセーラー服文学少女から、ちょっとぽっちゃりでメガネをかけてコートをはおった文学少女まで、落ち葉舞う公園の片隅のベンチに腰掛けて文庫を開いていたり(定番!)、グラウンドの片隅で友達を待ちがてら立ったままネットか何かにもたれつつ文庫を開いていたり(これも定番!)、朝の電車の中のドアの脇のところに立って文庫を開いていたり(やっぱり定番!)、昼休みの人影まばらな教室の窓際の席でひっそりと単行本を開いていたり(もちろん定番!)などなど、
「総勢63人の文学少女たちの写真集」
ということになれば、
「文学少女に萌えて萌えてしょうがないすべての文学少女ファンと、そうでないすべての人々」
のハートをギュギュッとわしづかみにすること、間違いないと思います。

すでにアスペクトか太田出版で企画が進んでるのかもしれないけど‥‥。
posted by 清太郎 at 17:13| Comment(7) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月04日

「いじめから守る45冊」で守れるか?

札幌にある本屋さん「くすみ書房」といえば、「本屋のオヤジのおせっかい 中学生ならこれを読め!」をはじめとするエネルギッシュな企画の数々で、本屋業界では知らない人はいない、という本屋さんなんですが、この本屋さんが最近、いじめに苦しむ中高生に読んでほしい本を集めたフェア、
「本屋のオヤジのおせっかい 君たちを守りたい」
を始めたそうで、話題になってます。
「本屋としてできることを」と、選んだのは45冊。
主なものを挙げると、

森絵都「カラフル」
乙武洋匡「五体不満足」
天童荒太「包帯クラブ」
あさのあつこ「バッテリー」
黒柳徹子「窓ぎわのトットちゃん」
梨木香歩「西の魔女が死んだ」
灰谷健次郎「兎の眼」
沖守弘「マザー・テレサ あふれる愛」
林慧樹「いじめ14歳のMessage」
大平光代「だから、あなたも生きぬいて」
よしもとばなな「デッドエンドの思い出」
司馬遼太郎「二十一世紀に生きる君たちへ」
重松清「みんなのなやみ」
宮本延春「未来のきみが待つ場所へ 先生はいじめられっ子だった」
中嶋博行「君を守りたい いじめゼロを実現した公立中学校の秘密」
ローズマリー・ストーンズ「自分をまもる本 いじめ、もうがまんしない」

というようなあたり。なるほど。
この行動力と道義心、そして何より、本屋さんが本屋さんとしてやるべきことをやった!というところは尊敬します。こういう本屋さんが、近所にあったらいいなあ。
とはいえ、このラインナップは、どうもいただけない気がするんですが。ホントに「本屋のオヤジのおせっかい」になってはいないか。

今回はめずらしく真面目でつまんないことを書きますと、いじめられっ子に、たとえば「五体不満足」みたいな、「人間、やろうと思えばできるんだ」とか「がんばれ」とか、その手の元気を出そう的メッセージを送るのって、酷じゃないのかしら。
「私はすごくいじめられて自殺未遂して不良になって極道の妻になったけど、でも思い立って勉強して29歳で弁護士になったの。だから、あなたも生きぬいて」
などといわれても、なんだかなあ。ちょっとねえ。ひきます。
むしろ、「がんばらなくてもいいよ、逃げちゃえ逃げちゃえ。逃げちゃっても、けっこうOKなんだから」という方が、いいんじゃないかしら。あるいは、学校だけがすべてになりがちな子どもの視野を広げてくれる本とか。

それなら一体どんな本がいいんだよ、エッ、ということになるわけなんだけど、えーと、えーと、45冊もとてもじゃないけど挙げられないので、とりあえず思いつくものとして、わりと最近読んだ本を3冊だけ。

まず、
柳 治男『〈学級〉の歴史学―自明視された空間を疑う』講談社、2005

学級の歴史学.jpg

学校に学級があるのって、当たり前のように見えるんだけど、でも所詮、近代になって歴史的に成立したものにすぎないんだよ、という話。サービスとしての教育を大量かつ均質に提供する、いってみればマクドナルドのチェーン・システムと同じ原理のものとして、19世紀イギリスで成立したのが「学級」。そんな効率一辺倒の空間に、子供たちを押し込めて四六時中一緒にいさせるなんて、そりゃストレスがたまっていじめが起こるのも無理ないんであって、そろそろ学級というこのシステム自体、根本から見直した方がいいんじゃないの、という論点で、こういうのをいじめられっ子が読めば、学校という世界をある程度、相対化できるんじゃないかなあ。

それから、
新井 由己『エコロジーショップの働きかた―GAIAという仕事場』 自然食通信社、2007

ガイアという仕事場.jpg

神田にあるエコロジーショップ「GAIA」というお店で働いてるスタッフの皆さんをルポ。別にいじめとは関係ないんだけど、そのスタッフの皆さんというのが、インドを放浪したり服屋さんをやったり農業やったりニートしたりと、とにかくいろんな経歴を持ってるのね。いろいろやって、挫折したり立ち直ったり、の後でたどりついたこのお店で、わりと楽しく仕事してる。こういうのを読んでると、あんまりがんばらない生き方もいいなあ、と思えるんじゃないかしら。
著者は自称「キキガキスト」なんだそうで、スタッフと寝食をともにして長期間にわたって聞き書きした成果が本書。あとがきで足立倫行『日本海のイカ』(新潮文庫。名作!)を尊敬してる、というだけあって、素朴でいい感じです。

えーと、3冊目。
盛口満『生き物屋図鑑』木魂社、2006

生き物屋図鑑.jpg

これも全然いじめとは関係なくて、生き物屋、つまりクモとかゴキブリとかサルとか冬虫夏草とかのオタクの生態をユーモラスにつづったエッセイ。ゴキブリ屋で冬虫夏草屋で骨屋で拾い屋である著者は、以前、埼玉の飯能にある自由の森学園で理科教師をしていて、今は沖縄の珊瑚舎スコーレというNPO法人で講師をしたりしてます。その自由の森学園やら珊瑚舎スコーレやらが、なんだかとてもおもしろそうなのね。こういう学校に行ってみるのも、ひとつの選択肢なんじゃないかなあ、と思ったりもします。

ということで、本と活字をめぐるブログのくせに、今回にして初めて、amazonにリンクを張ってみたのでした。なるほど、こうやってやるのか。
posted by 清太郎 at 23:35| Comment(5) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月02日

ハードボイルドと俳句

大藪春彦とともに日本のハードボイルド黎明期に活躍した高城高(こうじょう・こう)の選集『X橋付近 高城高ハードボイルド傑作選』(荒蝦夷)という本が、最近出たそうです。
日本のハードボイルドは、鬼平のような時代小説も含め、1950年代に紹介されたハメットやチャンドラーなんかを受けて50年代末〜60年代に始まった、らしい(いまWikipediaで読んだ)のですが、小説に限らなければ、それ以前にもハードボイルドな文学があったような気がします。
俳句です。
とりわけ、種田山頭火や尾崎放哉。彼らの作品を見ていると、何となく、ハードボイルド小説の一節のように感じることがあります。いや、逆に、ハードボイルドの名文句は俳句に近づく、ということなのかもしれないけど。
たとえば、チャンドラーの、
「強くなければ生きていけない、やさしくなれなくては生きていく資格はない」
に勝るとも劣らない名台詞、
「ギムレットには早すぎる」
なんていうのは、まるで自由律俳句のようです。

さて、そうなると。
荻原朔太郎が探偵役を務める鯨統一郎『月に吠えろ!』、森鴎外が探偵になる海渡英祐『伯林一八八八年』、ダーウィンが主人公の柳広司『はじまりの島』など、歴史上の人物を探偵に据えた推理小説はいろいろありますから、これらと同様に、山頭火や放哉を探偵に仕立てたハードボイルド小説があってもいいんじゃないでしょうか(ただし、フィリップ・マーロウ的ダンディー系なハードボイルドではなく、フロスト警部的ヨレヨレ系ハードボイルドであるが)。
ということで、さっそく、シミュレーションしてみました。


俺は尾崎放哉。孤独に、ハードボイルドな日々を送っている。ゴホゴホ。咳が出た。む、一句できたぜ。
「咳をしても一人」

探偵なんて肩書きはあるが、依頼人がなけりゃ、一日黙って酒を飲んでるだけ。ただの飲んだくれと変わりがねえ。そんな生き方もいいか、と思っていたところで、おやおや、久しぶりにお客さんのご登場ときた。思わず一句浮かびやがった。
「一日物云わず蝶の影さす」

ふふ、久々に手ごたえのある仕事になりそうだ。今日もハードな一日だったぜ。路地裏で殴り倒したあの男、死んじまっただろうか。いや、そんなのは、俺の考えることじゃないぜ。俺は布団の上に横たわると、一句詠んで、眠りに落ちた。
「ころりと横になる今日が終つて居る」

浜辺を歩いていると、どこからか一匹の野良犬が、ついてきやがった。ふ、俺はハードボイルドな男。おまえの面倒なんて見れねえぜ。だが、それでもついてきたかったら、勝手にしな。一句詠んでやるぜ。
「いつしかついて来た犬と浜辺に居る」

む、あの男が言っていた墓というのは、ここか。この墓に、何か手がかりがあるというのか。俺はその苔むした墓を、子細に調べてみた。やっ、ここで、またも一句。
「墓のうらに廻る」

どうやら俺は徐々に真相に迫りつつあるらしい。依頼人の女が、何か隠し事をしているようだ。俺は罠と知りつつ、女の部屋をたずねた。ふ、俺の手にかかれば、女なんて、ちょろいもんだぜ。余裕がある証拠に、ここでも一句。
「すばらしい乳房だ蚊が居る」

そして、すべてが解決した今。すがりつく女。ハッ、俺はハードボイルドに生きる男。女なんて、必要ないぜ。さあ、さっさと、約束の報酬をいただこうじゃねえか。大粒の涙をこぼしながら、鞄を開く女。そして俺は、女が差し出した札束を、
「入れものが無い両手で受ける」

‥‥やっぱり尾崎放哉でハードボイルドは、無理かな。
posted by 清太郎 at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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