2006年01月28日

論語の序文

ここしばらくのトイレ本が、『論語』です。で、トイレの中で論語について、しょうもないことを考えたりします。
たとえば、いちばんはじめのところ。
「子曰く、学びて時にこれを習う、亦説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり遠方より来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。」
ですね。
この言葉が、なんで論語の冒頭にあるのか。考えてみれば、それにはぜったい意味があるはずです。論語って、とくに序文とか前書きとかがあるわけではないので、この一節が序文的な意味合いも含んでいるに違いない。

ところが、一般的には、この章の解釈は、
「勉強して、それを復習して身に付ける。喜ばしいではないか。友達が遠くからやってきて語り合う。楽しいではないか。人が自分を認めてくれなくても不満を持たない。君子であるなあ。」
というような感じで、まあそれはそれで冒頭にふさわしいような立派な内容なのだけれど、でも、だからといって、この内容の文章が、ここになくてはならない必然性、となると、ちょっと弱いような気もします。

で、勝手ながら思うに、これは、違うんですよ。「学びて」といってるその学ぶ対象は、論語の他の部分と同じような学問とか道とかそういう漠然としたものなんではなくて、この章だけは、実は「論語」そのものなんです。
「この本を、論語を学ぼう。学んで復習しよう。楽しいよ!
 友達が来たら、ぜひすすめよう。友達も論語を読んでるなら、一緒に語り合おう。楽しいよ!
 でもキミが論語を勉強してるってことをみんなが知らなくても、いじけちゃだめだよ。それが君子ってことさ!」
というようなことなんです。ホントは。こう解釈すると、なんだか序文っぽいでしょ。(いや、正確には、こういうのは「序文」とはいわないかもしれないけど。)
論語のこの章だけは、論語自体のことを語ってるわけですね。メタなんです。

ただ、そうなると、最初の最初の「子曰く」が、ちょっと余分な気もするのだけど(孔子の死後に編纂された論語について、孔子自身が「論語読もうぜ!」というのは、ちょっとおかしい)、それはたぶん、後世の人が間違えて、「あれ? ここの最初のところ、“子曰く”が抜けてるじゃん。直しとこ」と、おせっかいなことをして、それがそのまま伝えられちゃったのか、あるいは、この最初の2文字こそが、実は論語のホントのタイトルだった、ということなのかも。

あ、でも、しかしこれが序文だとすると、次の章はいきなり「有子曰く〜」だもんなあ。有子は弟子のひとりなのだけど(論語ファンの間では、「ユー子ちゃんと呼ばれてます)、弟子の言葉から始まっちゃうっていうのは、どうなのか。
いや、でも、有子は論語編纂者のひとりなのだそうで、そういう人から始まるのは、それはそれでアリとも思えるし、有子の言葉は孔子のひととなりを表すような内容だし‥‥。

と思ったりもしたのですが、しかし論語ができてから二千何百年か経っているわけだから、このくらいのことは、とっくの昔にいろんな人が何度も何度も言ってるんだろうなあ。まあ、その文献を探しだすのは大変なんだろうけど。

ということを考えていると、トイレの中で充実した時間が過ごせます。
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2006年01月24日

文芸まちづくり

正岡子規や秋山兄弟のふるさとである松山市では、司馬遼太郎の作品にあやかった「坂の上の雲まちづくり」が進められているそうです。安藤忠雄設計(いいかげん、食傷気味)の「坂の上の雲記念館」が設立されて、よくわかんないけど行政と市民が一体になったまちづくりが行われるとのこと。

こうした文芸作品にあやかったまちづくり、いろいろありそうですね。時代小説なら、藤沢周平にあやかって鶴岡市が思い切って「海坂市」に改名しちゃうとか。
別に時代小説じゃなくていいなら、馬籠のある(越境合併したんだよね)岐阜県中津川市は、
「夜明け前まちづくり」
なんていうのはどうでしょう。ぜんぜん意気が上がらなさそう。
岩野泡鳴にあやかった国府津で、
「耽溺まちづくり」
というのもいい。まちづくりに淫してます、みたいな響きでステキです。
最近の作品では、仙台を舞台にした伊坂幸太郎の「砂漠」にちなみ、杜の都・仙台で、
「砂漠まちづくり」
というのも、なかなかシュールです。

マンガでもいろいろできそうですね。境港あたりでは地元出身の水木しげるを押し立てたまちづくりをしているから、いっそのこと、
「ゲゲゲのまちづくり」
などと称すればいいと思います。鉄腕アトムに特別住民票を発行した埼玉県新座市で、
「鉄腕まちづくり」
というのも、よさそうです。よくわかんないけど、お茶の水博士の研究所を誘致したりして。
そうそう、地元出身の永井豪記念館をつくる計画が進んでいるという輪島で、
「ハレンチまちづくり」
なんていうと、話題性があっていいかもしれません。輪島塗はもう古い、これからは永井豪先生のキャラクターを生かして、
「ハレンチ塗」
を地域の特産品に!ということになると、小学校の社会の時間が少しだけ楽しくなりそうです。

いや、別に「ハレンチ学園」にこだわらなくとも、
「マジンガー塗」
でも、
「デビル塗」
でもいいのですが。
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2006年01月19日

サラダ街道

仕事で長野県に行ってきたところ。塩尻市。

駅からのタクシーの中で、同行のO氏曰く、
「ここからずっと、サラダ街道という道がのびている。沿道が野菜や果物の産地だから、そういう名前がついた道路。正月を温泉宿で過ごした帰りに、かみさんが『変な名前の道だから、行ってみたい』と言ったから、わざわざそのサラダ街道を通ってみた」
O氏の細君のことは知っているのだが、いかにも思いつきでそういうことを言いそうな人なのである。そしてO氏は、なんだかんだ言いつつ、細君にはめちゃんこ甘いのである。

「この道がいいねと君が言ったから 1月2日はサラダ街道」
そのまんまだ。
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2006年01月14日

くじらぐも + ちいちゃんのかげおくり

ハイブリッド文学小品です。
 
 
「くじらぐも + ちいちゃんのかげおくり」
 
 
四時間目のことです。
一年二組の子どもたちが校庭で体操をしていると、空に真っ白い雲のくじらが現れます。
体操をする子どもたちと一緒になって、くじらも、
「一、二、三、四。」
と体操を始めます。
「あのくじらは、きっと学校が好きなんだね。」
そう思ったみんなは、
「おうい。」
と、くじらに大きな声で呼びかけます。
くじらはそれに答えて、
「ここへ おいでよう。」
と、みんなを空へと誘います。

   *      *      *      *

「よし きた。くもの くじらに とびのろう。」
男の子も、女の子も、はりきりました。

みんなは、手を つないで、まるい わに なると、
「天まで とどけ、一、二、三。」
と ジャンプしました。でも、とんだのは、やっと 三十センチぐらいです。

「もっと たかく。もっと たかく。」
と、くじらが おうえんしました。

「天まで とどけ、一、二、三。」
こんどは、五十センチぐらい とべました。

「もっと たかく。もっと たかく。」
と、くじらが おうえんしました。

「天まで とどけ、一、二、三。」

その ときです。

いきなり、かぜが、みんなを 空へ ふきとばしました。体がすうっとすきとおって、空にすいこまれていくのが分かりました。

一面の空の色。一年二組のみんなは、空色の花畑の中に立っていました。見回しても、見回しても、花畑。

「きっと、ここ、空の上よ。」

と、一年二組のみんなは思いました。
「ああ、あたしたち、おなかがすいて軽くなったから、ういたのね。」
みんなは、きらきらわらいだしました。わらいながら、花畑の中を走りだしました。
 
 
夏のはじめのある朝、こうして、小さな子どもたちの命が、空に消えました。
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2006年01月12日

メイドの清

メイドカフェやら何やら、メイドがもてはやされている昨今。せっかくなので、文学作品にも登場させてはどうか。流行を取り入れてリメイクである。
ただし、あまり大胆なことをしてはいけない。『吾輩は猫である』の猫が、猫じゃなくてメイドになって、拾われたメイドの少女が名前もつけられぬままに苦沙弥先生のところで飼われていたりしたら不謹慎であるし、あるいはまた『走れメロス』がメロスではなくて『走れメイド』では、最後のところで公衆の真ん中で素っ裸になってしまってこれまた不謹慎である。

もうちょっと当たり障りのなさそうなところでメイドを導入したい。いちばんよさそうなのが、
『坊っちゃん』
である。といっても、もちろん坊っちゃんがメイドになっちゃうのではなくて(メイドの少女が親譲りの無鉄砲で、二階から「いやぁん」とかいってスカートを翻して飛び降りたりすると、それはそれで萌えではあるが)、
「清(きよ)がメイド」
なのである。もとは由緒ある家柄だったのだけど、零落してメイドとして仕えることになった少女、清。などと、設定だけでもけっこう萌え。
坊っちゃんのことをとても大切にして、「いつの間にか寝ている枕元へ蕎麦湯を持って来てくれる」とか。これがみすぼらしい婆さんではなんだか哀れを誘うが、同じことをしてもメイドなら萌えである。
坊っちゃんの松山への赴任が決まって、出発の日、停車場のプラットフォームでの別れの場面。いつまでも汽車を見送っているメイド少女。
「汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。何だか大変小さく見えた。」
このシーンも、相手がメイドなら、ずいぶん印象が違う。
そしてラスト。
「おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。」
ああ、もう、いきなり、苦難を乗り越えて身分違いの純愛が成就!である。胸きゅんである。
「やっぱり、君が一番なんだ!」
ということなのである。メイドの清も、坊っちゃんが自分の元へ戻ってくるのを、何も言わず静かに待っているのだ。いいねえ。
この展開、ちょっとモームの『人間の絆』っぽいような気もする。
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2006年01月03日

有能な執事のいる執事カフェ

執事カフェについて。
セバスカフェ推進委員会の高殿円がさらに詳しく推進しているようです。
http://zigzagbooks.jp/topics/column/c_08.html
執事がいいのは「ツンデレ」だから、というのは至言だと思います。

ただ、惜しい。もう一点。もう一歩踏み込んで有能な執事であってほしい。
「チリン(鈴を鳴らす)」
「何用でございましょう、お嬢様」
「カフェオレを」
「そうおっしゃるだろうと思いまして、ここに用意しております、お嬢様。どうぞ」
こうあってほしい。P・G・ウッドハウスの小説に出てくるジーヴスのような。

しかしそうなると、そこらへんのリストラされちゃうような五十男にはできないだろうなあ。ハードルが高くなりすぎるか。
posted by 清太郎 at 00:00| 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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