2005年02月28日

読書感想文

「出版ニュース」にあった、2月28日付けの北海道新聞のコラム「卓上四季」より。

「読書感想文」
本を読んで感動したことが多い人ほど、考え方に幅や深みが出てくるのではないか。人間や世の中に対する見方も豊かになる。手応えのある生き方にもつながる▼二十五回目の「絵と文による冬休み読書大賞」(北海道学校図書館協会、北海道新聞社主催)の大賞作品を見て、そんな思いを新たにした。小中高生が本の印象や感想を絵と文で表現している。どの作品もみずみずしい感性が光る▼大賞一席の高岡尚加さん(中二)は盲導犬の本を読んで「ユーザーの方と盲導犬との絆(きずな)は想像していたものよりはるかに深いものだ」と書いた。その印象を表現した水彩画がすばらしい。ユーザーを守る犬のりりしさが伝わってくる▼二席の山崎悠さん(小二)は絵本を読んで「自分のやりたい事や、言いたい事を少しだけがまんして友達の話を聞く事が大切だと思う」と記した。意味が深い発見である。大人も耳を傾けるべき言葉である▼ニホンオオカミの本で「人間の自分勝手な行動で、また何かの生物が絶えてしまうことのないように」という主張を感じとったのは三席の小笠原悠君(小四)だ。同じ三席の岡本悠さん(小五)は、自己犠牲が固い友情をはぐくむことを的確に見通している▼審査委員長の鈴木文夫・札幌稲陵中校長は「子どもたちはもっと本に親しんでほしい」と言う。このコンクールが読書の大切さを具体的に示している。

というのだが、
「ユーザーの方と盲導犬との絆は想像していたものよりはるかに深いものだ」
も、
「自分のやりたい事や、言いたい事を少しだけがまんして友達の話を聞く事が大切だと思う」
も、
「人間の自分勝手な行動で、また何かの生物が絶えてしまうことのないように」
も、見事に紋切り型で、深みのない言い草。(ついでに、「子どもたちはもっと本に親しんでほしい」という校長先生の言葉も。)
どこに、
「みずみずしい感性」
が光っているのかしら。
これではぜんぜん、
「本を読んで感動したことが多い人ほど、考え方に幅や深みが出てくるのではないか。人間や世の中に対する見方も豊かになる。」
という推論の証左にならないではないか。むしろ、これを見る限りでは、「人間や世の中に対する見方」が貧しくなりそう。

やっぱ読書感想文の存在意義について、ちゃんと考えるべきなんじゃないかしら。
posted by 清太郎 at 00:00| 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月18日

文学は細部に宿る

『あらすじで読む日本の名著』『あらすじで読む世界の名著』『あらすじで読む日本の古典』というと、売れているけど「良識派」の人からは評判の悪いシリーズです。
私もいちおう良識派なので、あらすじなんか知ったところで、しょーもないでしょ、とつねづね思っていたわけですが、先日、はずかしながら初めて『ジェイン・エア』を読んで、あらためて、その思いを深くしました。やっぱ、筋がわかってたところで、しょーもないわ。
『ジェイン・エア』のあらすじというのは、ようするに、
「出会って、別れて、またくっついた」
というもの。そこに、実は奥さんが‥‥とか、実は親戚で‥‥といった多少の粉飾があるのですが、まあとにかく、そうした「あらすじ」を事前にわきまえたうえで、読んだのです。で、その結果が、どげしゃーっ! めちゃんこおもしろいわあ〜、と思わず手に汗握る大興奮。あらすじを知ってることと、作品を知ることとは、さして関係があるわけではないんですね。

「あらすじで読む〜」シリーズ肯定派の意見としては、
「別に、作品の感動を味わいたいわけではない、とりあえず、知ったかぶりをしたい」
ということもあるんでしょうが、だとしたら、なおさらです。あらすじなんか知ってたところで、どこで知ったかぶりをしようというんでしょう。たとえば合コンの席で文学的素養のあるところを示そうとした場合などに、作品のあらすじを滔々と述べ立てたところで、変人と思われるだけです。
どっちかというと使えそうなのは、全体のあらすじよりも、ごく一部、ひとつの文章や台詞ではないでしょうか。『嵐が丘』の込み入った人間関係がわからなくても、キャシーの台詞「I am Heathcliff!」を知っているほうが、よほど文学ツウに見えることでしょう。
「神は細部に宿る God is in the details」
と建築家のミース・ファン・デル・ローエは言ったそうですが、文学もやはり、細部に宿るんじゃないかと思う次第なのです。

ちなみに、「あらすじで読むポルノ小説」という本があったとしたら、ぜったい売れないと思います。
posted by 清太郎 at 00:00| 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ひとりめがね

「ひとりめがね」
と、こうしてひらがなで書いてあると、なんだか秋の午後、静かな公園の片隅のベンチで、ひとり本を読んでいるメガネの美少女、などという感じで、メガネっ子ファンは、もう、
「たまらぬ」
ということになりそうなのだけど、あいにくこれはそういう方面とは一切かかわりのない言葉です。
漢字で書くと、
「火取眼鏡」
読んだばかりの『ジェイン・エア』(遠藤寿子訳・岩波文庫)に出てきました。火取眼鏡のような眼が云々、というので、なんじゃこりゃ。広辞苑を引いてみたところ、この「火取眼鏡」そのものは出てこなかったけれど、「火取玉」が載ってました。火を取るためのレンズ、ということで、まあようするに、虫眼鏡。なるほど。
岩波文庫の『ジェイン・エア』は昭和32年の初版。当時の読者には火取眼鏡でじゅうぶん通じたのでしょうが(ちなみに、新潮文庫のほうは昭和28年の初版で、「火取レンズ」となっていた)、いまとなってはすっかり失われた言葉。
ただ、「ひとりめがね」という語感には、なかなか捨てがたい風情を感じるので、メガネっ子方面でいいから、流行らせてほしい気がします。
posted by 清太郎 at 00:00| 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月15日

メイドでメガネで‥‥

森薫『エマ』(ビームコミックス)を読みました。
いまどき珍しいような(というか最近流行りの、というか)直球ストレートな恋愛ものなのね。階級の違いを超えて、ああ!という感じで、けっこうこういうの、好きです。
正直言って、どっちかというと、オバァならぬ「おばあさま」ファンにはたまらぬ作品のような気がするのだけど、ともあれメイドファンにはたまらぬということになっているこのマンガ。
メイドであるばかりでなく、ヒロインのエマが「メガネっ子」であるところが、さらにコアなファンに人気だという話で、物語そのものはしごくまっとうなのに、必ずしもまっとうな読まれ方ばかりをされてるわけではないようなあたりが、まあいいのか悪いのか。

この調子で物語が展開して、実は、ああ、なんと、エマは腹違いの妹であった、なんてことになって、
「おにいちゃん‥‥」
などということになれば、さらにさらに大興奮、メイドでメガネで「おにいちゃん‥‥」ですか、ぐはー、という人もいることでしょう。
そうして、その腹違いの母親が実は人間ではなく化け猫か何かで、ほら、その証拠に、わたしの頭には‥‥、と髪の毛をかきわけると、そこには、
「ネコ耳」
ということになれば、ああ、もう、どひー、たまらん、メイドでメガネで「おにいちゃん‥‥」でネコ耳ですか、ぐわははー、ということになる人も多いはず。
そこに追い討ちをかけるように、そのうえ実はわたし、母親譲りのちょっとした魔法を使えるんです、ほら、テケリコテケリコ、ラッタラランランラン、などとステッキ片手に呪文を唱えたりして、ああ、なんと、
「魔法少女」
であった、ということになれば、ああ、ぐわー、むふー、メイドでメガネで「おにいちゃん‥‥」でネコ耳で魔法少女ですかー、んががが、と感涙にむせぶ人も出てくるでしょう。
そうして、でもわたし、ときどき魔法が暴走しちゃうこともあるんです、そんなときには、これで私を縛ってください‥‥、と差し出されたのが、
「縄」
ということになると、あひー、むぐはー、メイドでメガネで「おにいちゃん‥‥」でネコ耳で魔法少女で緊縛ですくわー、ずももも、と卒倒する人もあらわれるに違いありません。が、おそらくそのころには、そんなコアなファン以外に読む人はいなくなっていそうなので、やっぱりこんな展開はダメそうです。
posted by 清太郎 at 00:00| 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月10日

さようなら南セントレア市

愛知県の「南セントレア市」が白紙撤回になったとのこと。
当然といえば当然、なのだろうけど、しかし愛知県には、
「挙母(ころも)市」
という美しい名前を持った市を、すごい企業の本拠地だからということで豊田市にしちゃった、などというような過去もあったりするので、個人的には「南セントレア、やめました」という結末は、やや意外でもある。

それはそうと、その南セントレアにかわってどうするのかというと、「住民アンケートの結果をもとに」なのだそうで、どっちにしたところで、ろくな市名になりそうもない。
(あるいは、無難に「南知多市」なのかな?)
posted by 清太郎 at 00:00| 雑録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月09日

島田雅彦のすべり棒

仕事もかねて、島田雅彦『衣食足りて、住にかまける』(光文社)を読みました。
何年か前に新築した自宅にまつわる話に加え、隈研吾なんかの当代一流の建築家との対談やら建築・都市論エッセイやらがおさめられたもの。もっと自宅自慢の本かと思っていたらそういうわけでもなくて、ちょっと残念でもあります。

その島田雅彦の自宅には、一部のファン(多くの島田雅彦のファンと一部の建築ファン)にはよく知られているように、3階から1階までを結ぶ「すべり棒」があるのです。消防署のような、上から下へスルルル〜とすべりおりる、あの棒です。
どこかで読んだ対談かインタビューでは、「スカート姿の女の子なんかがあの棒をすべりおりるとパンツが見えちゃったりするのね」などといういかにも島田雅彦らしい露悪的なコメントをくわえていたのだけど、パンツが見える見えないにかかわらず、すべり棒って、うらやましいです。
さーて、出かけようか、なんて思って、階段を下りるのではなくて、おもむろに棒につかまってスルルルルル〜。
うーん、あこがれ。
以前お邪魔したことのある静岡のある先生のお宅も2階から1階へとすべり棒が設置されていて、いいなあ、と思いました。しかもその家では、吹き抜けの天井からブランコもぶらさがっていて、もう大興奮。
このあたり、女性の多くは「バカじゃないの」と思うかもしれないのだけれど、こんな「すべり棒がある家」「ブランコがさがっている家」というのは、ある意味、男のロマンなのです。
いや、男の子のロマン、なのかな。ガキっぽいといわれれば、その通りなのだけれど‥‥。

ちなみに、すべり棒が‥‥、などという話を聞いて、ちょっとヒワイなことを連想してしまった人は、岩井志麻子の読みすぎだと思います。
posted by 清太郎 at 00:00| 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月06日

花よりも花の如く

成田美名子『花よりも花の如く(3)』(花とゆめCOMICS)を読みました。
能マンガです。能楽師のマンガ。などというと、わー、すごく地味な感じ。
で、ふと思ったのだけど、「歌舞伎マンガ」とか「文楽マンガ」とかって、ないものなのか。
歌舞伎は、小説ならば『傾く滝』(杉本苑子)とか何とかいっぱいありそうだけど(とかいいつつ『傾く滝』以外は思いつかない)、マンガでは思いつかない。少なくとも能よりは派手で、絵になりそうなのに。
文楽の方は、人形が主人公ということであれば、『あやつり左近』とか「私の人形はよい人形」とか(違うか)いろいろあるのに、文楽小説とか文楽マンガというのはきいたことがない。
マンガや小説のネタ、というのはちょっと描きつくされてしまった感があるように思っていたけれど、日本の伝統芸能の世界には、まだまだ未開の大地が広がっているのではないでしょうか。

たとえば、
「茶道マンガ」
などというのは、なかなかいいかもしれない。
裏千家やらなんとか流やら、適度に流派もあって、対立やら抗争やらが生まれそうだし。
それに、茶室の中で、一対一で対峙する、というのがなかなか絵になる。
「な、なんという華麗な手さばき‥‥!」
「こ、このお茶は‥‥!」
「ななな、なんと、この茶碗は、あの幻の‥‥!」
などと、ドラマのネタにも事欠かない。ジャンプあたりで連載がはじまらないものでしょうか。

と思ったところで、念のため「茶道漫画」でググってみたら、すでにありました。茶道マンガ。
「コイ茶のお作法」(桜城やや)
だそうです。
イーエスブックス(というか、もう7&Yなんだけど)の紹介から抜き出すと、
「熱血で無防備でかわいい受と一見物静かで大人な印象だが本当はドロドロした感情を持っている二枚目の攻。」
とのことで、はやりの言い方でいうと、ボーイズラブ。
うーむ、侮りがたし、やおいの世界‥‥。
posted by 清太郎 at 00:00| 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月03日

男子高校生の初体験相手の先生は?

山田詠美の『ご新規熱血ポンちゃん』に、男友達としゃべっていたら、
「彼の初体験は、高校の古文の教師だった」
ということが判明して、まあなんと素敵な背徳の美!「祇園精舎の鐘の声」とか言いながらしたの?とか何とかいう一節があって、古文の先生だからって祇園精舎はないでしょ、
「あな、をかし」
くらいは言ったかもしれないけど。

なんだか品がないですね。
品がないついでに、男子の初体験の相手としては、どの科目の先生がいいのか、ちょっと考えてみました。

・英語教師
「先生にまかせてくれればいいのよ‥‥」のイメージでいうと、やっぱり英語でしょうか。しかもメガネで白いブラウスで、黒のタイトスカートで、
「英語で言ってごらんなさい、ここは‥‥?」
「shoulder」
「ここは‥‥」
「‥‥breast」
なんて感じで、ムフー。

・物理の先生
イメージ的に、理科を教えている女性の先生、というのは地味そうであまり色っぽくなさそうだけど、案外、白衣の下はすごかったりもして、
「先生っ、先生の肌の弾性係数を知りたいんですっ」
ということになるのかもしれない。でも、あんまり「先生にまかせてくれればいいのよ‥‥」って感じではなさそうだ。

・数学の先生
その点、数学の教師の方が、うまくリードしてくれそうで、
「うふふ、あなたのカラダ、因数分解しちゃおうかしら」
などと、いっぺん言われてみたい。

・情報処理の先生
案外、情報処理関係の先生がすごいのかもしれない。
「そろそろインストールしてみる‥‥?」
あっ、そんな、先生、だめです。
posted by 清太郎 at 00:00| 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月02日

夢見る頃を過ぎても

先日東中野のブックオフ(ブックオフのくせに、ふつうの、というか、いい古本屋みたいな、いいブックオフ)で買ってきた昔の岩波文庫のハーディ短編集『幻想を追ふ女』(リヴァイバル復刊のもの)の表題作を読み始めたところ、どうも読み覚えがある。この設定は、ぜったいどっかで読んだ! でも重複して買ったはずはないし、以前読んだ『ハーディ短編集』(いま岩波文庫から出ているもの)には「幻想を追う女」なんてタイトルの話はなかったし‥‥。と思って調べてみたら、現今の『ハーディ短編集』に、同じ話(原題はAn Imaginative Woman)が、違うタイトルで新訳されていました。
「夢見る頃を過ぎても」
‥‥ぜんぜん違うじゃん!
まあ内容は、いい年した奥さんが見たこともない詩人にあこがれて、ちょっとストーカーっぽくなちゃって‥‥、という話(ずいぶん乱暴なまとめだが。オチは、いかにもハーディらしい、ぶへー、という感じ)で、まあたしかにいわれてみれば「夢見る頃を過ぎても」というのがぴったりなような気もしないではないんだけど、でもねえ。
ハーディといえば、『ダーバヴィル家のテス』であり『日陰者ジュード』であり『塔上の二人』であり、ようするに、そんなに技巧的なタイトルの作家ではないのである。それを、なんとなく内容にふさわしいからといって、An Imaginative Womanを「夢見る頃を過ぎても」にしちゃうのは、ちょっとどうなのか。ファンは怒っているのではないか。

これって、たとえば、太宰治の「走れメロス」が外国語に翻訳されたらタイトルが変わっちゃって、
「いま、会いにゆきます」
になるようなものなんじゃないかしら。まあたしかにそういう話ではあるんだけど‥‥。
posted by 清太郎 at 00:00| 本ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。