2004年08月26日

高句麗問題をわかりやすく読み解く

高句麗は中国なのか朝鮮なのか。古代の王朝をめぐる帰属問題が韓国と中国の間で争われています。
日本人にとっては高句麗なんて、日本史の授業の最初のほうで新羅やら百済やらと一緒に出てきただけの国です。668年に唐に滅ぼされた(覚え方は「ロックな老爺だ、高句麗滅亡」)という程度の知識しかなくて、「なんで今ごろそんな昔のことにこだわるわけ?」と不思議でしかないですよね。常識的に考えれば、今の中国東北部と北朝鮮あたりに広がっていて、427年まで中国側に、それ以後は平壌に首都があったのだから、「朝鮮と中国、どっちの国でもないし、どっちの国でもある」というべきなのかもしれません。
しかし、です。

たとえばここに、仲の良い友達同士であるところのC子とK美がいるとして、あるとき2人で飲んでいて、過去の男遍歴の話になったとしましょう。
C子「そのときのカレ、あたしに隠れてぇ、浮気してたんよー。もーマジむかつくー」
K美「えー、うそ、サイテー。なんでわかったん?」
C子「ケータイの履歴。ヤツったらこざかしくてさぁ、相手の女の名前、「山田太郎」で登録してあんのー」
K美「ぎゃはは、山田太郎! ヤバッ」
C子「でさぁ、あるときさぁ、ケータイちょっと見してみそ、って履歴のところみたらぁ、山田太郎、山田太郎、山田太郎、山田太郎、C子、山田太郎、山田太郎‥‥」
K美「ぎゃはは、そりゃバレルっしょ」

C子「あたしもぉ、チョー激怒してぇ、ヤツとはソッコーわかれてぇ、で、名前はわかんないけど、番号わかってるからさぁ、毎晩その山田太郎に無言電話かけてやったの」
K美「ぎゃははは、チョーヤバイよ、それぇ。あーでも、あたしもぉ、昔、1カ月くらい無言電話かかってきたことある」
C子「えー、やだ、どうせ恨まれることでもしたんじゃないのぉ?」
K美「かもねー、まあ、あたしもさぁ、そのころ3マタとか平気でしてたしぃ」
C子「きゃはは、ひどい女〜、魔性〜! ね、ね、ね、もしかしてぇ、その無言電話の女、あたしだったかもぉ」
K美「ぎゃはは、やだあ、マジヤバ〜。ちなみに、そのときの男、なんて名前だったん?」
C子「タカシ。あーもう、思い出すだけでマジむかつく〜」
K美「‥‥」
C子「なにー、どうしたの、何、マジな顔して」
K美「タカシって、栗田タカシ?」
C子「えーっ、なんで知ってるのぉ? え‥‥、もしかして‥‥」
K美「‥‥」
C子「‥‥」
ということになった場合、どうでしょうか。

どうせ栗田タカシなんて双方にとっても過去の男のひとりでしかないのですし、はた目から見ればどうでもいいような問題かもしれません。しかし、当事者たるC子とK美にとっては、その栗田タカシが、
・平気で3マタかけるようなヒドイ女にだまされて去っていった、C子の元カレ
であるのか、あるいは、
・相手のケータイの履歴をチェックして、夜中に無言電話かけてくるようなネクラ女から逃れてきた、K美の元カレ
であるのか、これはもう、何としてもハッキリ白黒つけねばならぬ重大問題なのでありまして、
「ふたりにとっての元カレで、どうせ今となっては、過去の男よ」
などと笑って済ませるわけにはいかないはずです。
高句麗問題もこれと同じで、当事者の中国と韓国にとっては、思わず感情的になってしまう、切実な問題なのだと思います。
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2004年08月23日

野球では国際化できない

アテネオリンピック、「長嶋ジャパン」の金メダルが有望視されているわけなのだけど、しかしアメリカも韓国も出場しないトーナメントで、プロ選手選抜からなるチームが優勝したところで、それってちょっとどうなのか、と思わないでもない。
そのあたりのことがあえて強調されないのは、あるいはマスコミのあざといところなのかもしれないし、あるいはまた条件がどうだろうととにかく日本野球の強いところを見たい見せたい!という国民感情のあらわれかもしれない。なにしろ、みんな野球が大好きなのだ。 寿郎社 WEB SITEのコラム「北大路公子の「ハム」が来てから」第3話にもある通り、ふだんの暮らしの中でも、
・自分好みのラーメンを食べては「直球ド真ん中の味」
・気乗りしない仕事に向かう日は「消化試合で敗戦処理のロッテ5番手ピッチャーみたいな気分」
と、「野球でいう」人があふれていることからも、それは明らかだ。

とはいうものの、その一方で世間には、野球に興味がないどころかルールだって全然知らない人も案外多いわけで、今年の高校野球で騒がれた東北高校のダルビッシュ有が、
「ダルビッシュ有ります、って何かしら」
と疑問に思われたりすることも、珍しくはない。(詳しくは、 こちらの8/19の日記をご覧ください。)

そもそも、サッカーなどに比べればまだまだマイナー競技でしかない野球なんて、広く世界に目を向ければ、知らない人の方が圧倒的に多い。『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンス(イギリス人)も、近著『悪魔に仕える牧師』の中で、よきライバルだったスティーヴン・ジェイ・グールド(アメリカ人)の『フルハウス 生命の全容―四割打者の絶滅と進化の逆説』を批判して、「野球のことについて書かれても、並んでる用語の意味がさっぱりわからん。私がクリケットについて書いたら、君にはわかんないだろう」というようなことを書いている。(ちなみに、世界のクリケットの競技人口は、サッカーに次いで2番目といわれているらしいです。)

ということで、ビジネスのグローバル化がますます加速する今、われわれはいつまでも一国のみの野球中心主義に閉じこもっているわけにはいかない。いくら英語がペラペラになろうと、西アジアやアフリカでは、
「営業に行ってきたんですけど、空振りでした」
「こないだの合コンの彼女、ツーアウト満塁ってところまで口説いたんですけどねえ、もう一本が出なかったッス」
「もう、ベッドの中の彼ったらすごいんです。ど真ん中を突いてくると思ったら、次はじらすようなスローカーブで‥‥。全盛期の今中みたいなんです」
などという発言は、意味をなさないのだ。それらの国々に行っても日常会話に困らないように、せめて「サッカーでいう」ことができるよう、ふだんから心がけてはどうだろうか。
「いやあ、隙あらば口説いてるんですけどねえ、彼女って、ホントにカテナチオ。イタリアみたい」
「ちょっと、あんたったらどうして、そんなにロングボール放り込むばっかなのよ。あたしはもっと、細かくパスをつなげてほしいの。んーもう、そんなのオフサイドなんだから!」
と、ふだんの会話の中でも自然に言えるようになったら、もう一流の国際人である。
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2004年08月19日

あるいは、さかゆめジャパンが雪辱を果たす!

考えてみれば、花とペアになるものとして、いきなり、
「花と蛇」
などというのは、いささかいかがわしいような気もします。
オリンピックの会場で、ガイジンの人から、
「どうして、花と蛇の組み合わせなのですか」
と尋ねられた代表選手などは、
「えーと、ミスター・オニロク・ダンが‥‥、ロープ・テクニックで‥‥」
と、しどろもどろになってしまうことでしょう。

ということで、ここは穏当なペアとして、
「花とゆめ」
といったあたりもよさそうです。男子チームは、夢で揃えます。
・はつゆめジャパン
・まさゆめジャパン
・さかゆめジャパン
・こちょうのゆめジャパン
・まなつのよのゆめジャパン
なんだか儚い感じで、弱そうです。やっぱり、まむしジャパンの方がいいかも。
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2004年08月18日

北京オリンピック、まむしジャパンがメダルを狙う!

前から疑問なのですが、オリンピックの団体競技、なにゆえ女子サッカーチームだけが「なでしこジャパン」なんていう愛称なんでしょうか。チームの愛称を募集するなら、ほかの競技もそうすればよかったのに。このあたり、いかにも「縦割り」という感じで、日本スポーツ界の硬直性がまざまざとあらわれているような気がします。

その「なでしこジャパン」が、1勝1敗ながらも決勝トーナメントにコマを進める一方で、男子サッカーは予選敗退、女子バレーとソフトボールはもうあと1敗もできないところまで追い込まれており(なのかな?)、やや明暗を分ける形になっています。やはり愛称はあった方がいいのでしょうか。
ということで、その反省から、次の北京オリンピックでは、すべての団体競技チームに愛称がつけられることになるでしょう。
女子チームは、サッカーの「なでしこ」にあわせて、すべて夏の花で揃えます。
・ひまわりジャパン
・りんどうジャパン
・ひがんばなジャパン
ということになります。
対する男子チームですが、女子が花であるからには、やはりそれと対になるようなものじゃないと美しくありません。
で、花とペアになるようなものは何か、ということを考えると、誰でも思い浮かぶのが、
「花と蛇」
でしょう。
したがって男子チームの愛称は、蛇の名前で統一です。
・まむしジャパン
・あおだいしょうジャパン
・こぶらジャパン
・にしきへびジャパン
いやあ、なかなか強そうですね。今から北京オリンピックが楽しみです。
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2004年08月16日

オリンピックに思うこと

鍛え上げられた肉体が躍動する、超人たちの祭典、オリンピック。その超人たちの頂点に立つのが、金メダリスト。
ということで、オリンピックのたびに考えるのだけど、すべての競技の金メダリストの中で、いちばん強いのは、どの競技の選手なんでしょうか。かりに、各種目の金メダリストがそれぞれの得物を手に(たとえば、野球選手はバットとグローブを持ち、カヌーの選手はボートに乗って)、バトルロイヤルをおこなったら、誰が勝ち残るのか。公平を期すために、団体競技は代表1人の参加とします。
やはり、武器としてバットを持ち防具としてヘルメットをかぶった野球選手が有利なのか、いや水の中に引き込んでしまえば水球の選手に勝機があるのか、あるいは遠距離から攻撃できる射撃やアーチェリーの選手が強いのか、いやでも弾切れになったら白兵戦には弱いのか、あるいは自転車の選手がスピードと持久力を活かして最後まで逃げ回るのか、あんがい馬術の選手が人馬一体となって乱闘を制するのか、などと興味は尽きません。
国ごとにメダルの数を競うのもいいですが、最後にバトルロイヤルを開催して、勝った選手が金メダルを総取りする、というようなルールにすると、とても盛り上がると思います。
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2004年08月13日

惜しみなく読書感想文(3)世界の中心で、愛をさけぶ

読書感想文のテクニックのひとつとして、
「他の作品のことを織り込む」
というものがあります。
それによって、なんとなくたくさん本を読んでいるような印象を与えることができますし、1冊のことについてだけでは規定の分量に足りない場合に、2冊以上の本を書くことで、内容を水増しできるのです。以下がその例です。

「世界の中心で、愛をさけぶ」を読んで

「世界の中心で、愛をさけぶ」というこの作品を読んで、すぐに思い浮かんだのが、東浩紀「動物化するポストモダン 〜オタクから見た日本社会〜」である。
この本の中で東浩紀はまず、特にオタク系文化において顕著な、ポストモダン社会のふたつの側面を整理する。ひとつは、ボードリヤールのいう「シミュラークル」の増殖である。ポストモダンにおいては、オリジナルとコピーの間の区別が弱くなり、かわりにその中間形態であるシミュラークルが支配的になる。
第二に、リオタールのいう「大きな物語の凋落」である。振り返れば近代は、国民国家や革命のイデオロギー、人間や理性の理念、生産の優位といったもの(大きな物語)が社会の成員をひとつにまとめ、その働きを前提に社会が運営されていた。だが、ポストモダンにあってはそうした大きな物語があちこちで機能不全を起こすようになり、社会全体のまとまりが弱体化する。
シミュラークルの増殖と大きな物語の凋落、それらが進行したポストモダンにおける世界像として、著者が提示するのが「データベース・モデル」である。そこには、近代におけるような、世界の表層にあらわれるさまざまな物事を決定している、深層における中心(大きな物語)は存在しない。かわりに深層には、情報の集積として決して物語性を持たないデータベースとしての「大きな非物語」があるのであり、表層はその読み込み次第でいくらでも異なった表情をあらわす。

そうなると、もはやオリジナルとコピーの区別は、意味をなさなくなる。オタクたちの二次創作が端的に示す、ポストモダンにおける作品のありかたには、匿名的につくられた深層における設定(データベース)とそれをもとに具現化された表層におけるシミュラークルという区別しかない。同人誌などの二次創作は、オリジナルのコピーではなく、そこから原作が紡ぎ出されたのと同じデータベースを共有しながら生み出されたシミュラークルなのであり、むしろ原作ですらそんなシミュラークルのひとつでしかない。
ただ、ボードリヤールの予見に反して、こうしたシミュラークルが無秩序に氾濫するわけではない。よいシミュラークルと悪いシミュラークルは区別しうるのであり、消費者の萌えを効率よく刺激する「萌え要素」がきわめてうまく組み合わされたシミュラークルは、消費者から「深い」「泣ける」という判断が下される。裏を返せば、個々の作品(シミュラークル)に消費者が求めるのは、もはや旧来の物語的な迫力ではない。世界観もメッセージもない、ただ効率よく感情が動かされるための方程式なのである。

こうしたポストモダンにおける人間のありかたを、コジェーヴの言葉を借りて著者は「動物」と呼ぶのだが、さて、そこで「世界の中心で、愛をさけぶ」である。
この物語には、東浩紀のいう「萌え要素」であふれかえっているかのようである。
・不治の病(白血病)
・同級生
・神社でのデート
・山の上の公園
・夏の海
・交換日記
・クラス演劇
・無人島の一夜
・逃避行
・気のいい柔道部の友達
・シャンプーかリンスのほんのり甘い香り
・二人で見る蛍 などなど

それらを陳腐と呼ぶのはたやすいが、しかし、一見したところ陳腐に思えるこれらのディテールが組み合わされた「世界の中心で、愛をさけぶ」が、何百万の人々の心をとらえたのである。このことは、本作品が、陳腐なディテールの組み合わせというよりもむしろ、消費者の嗜好にマッチし、彼らの感情を的確に動かしうる萌え要素(恋愛小説に関する萌え要素)の実に巧妙な組み合わせによってつくられたシミュラークル、というべきものであることを示しているのではないか。手軽に「泣ける」ことを求める「動物」的な消費者が求める商品、「効率よく感情が動かされるための方程式」という意味において、この作品はたいへんすぐれたシミュラークルなのである。「世界の中心で、愛をさけぶ」は、きわめてポストモダン的な作品なのだ。
したがって、旧来の近代的な価値観に立ったうえで、この作品を「陳腐」と切り捨てることは、おそらく間違った態度ということになろう。ポストモダンを切り拓く先鋭的な作品として、積極的に評価するべきなのである。

(注)これだけで終わってもいいのですが、これだと単に2冊の本を並べただけなので、最後にもうひとこと、何かを付け加えると効果的です。いわゆる「正・反・合」の「合」の部分です。

ところで、そうなると、この「世界の中心で、愛をさけぶ」によって人々が得た感動とは、東浩紀がいうところの「動物的」な欲求の充足、ということになる。泣こうと欲してこの作品を買って読んで泣けて満足した、という、いってみればきわめて即物的で、浅薄な感情ということになる。
人生観を根底から覆されるような、圧倒的な感動というものを、ポストモダンに生きるわれわれは、もはや経験することができないのだろうか。しかし、それはそれで、しかたがないかもしれない。そもそも、人生観を根底から覆すといっても、覆すことができるほど凝り固まった人生観などというものを、「大きな物語」を失ったわれわれが持っているはずもない。大きな価値転換に遭遇することなく、自分の嗜好や欲求にあった商品をその場その場で消費しながら流されていく。それはそれで、別にいいではないか、と思う。

とはいうものの、ここでひとつの問題が持ち上がる。そのような動物的な欲求充足のための商品としての小説を読んで、「読書感想文を書きましょう」ということは、果たして当を得ているのか、ということである。

手軽に感動したくて読んだ本というのは、いってみれば、のどが渇いたので飲んだ水と同じようなものだ。「その水について、感想文を書きましょう」といわれたら、誰だって困るに違いない。「のどの渇きが癒されて、よかったです」「これだけではのどの渇きが癒されません」という以外には何もないわけで、それがもし「微妙なアルカリイオンが‥‥」とか「水流がのどを通るときの微妙な感覚は遠い子ども時代のある思い出を呼び起こし‥‥」とかいうことになると、動物的な欲求の充足とは異なる次元の話になってしまう。
同様に、動物的な欲求充足のために読んだ本の感想文は、「感動したいという欲求が満たされてよかったです」か、あるいは「感動したいという欲求が満たされなくて残念でした」のふたつにひとつしかないのである。もはや、従来の読書感想文があるべき姿として求める「感想」などというものは、原理的に存在しえないのだ。内容に踏み込んだ微妙な議論を展開できるとしたら、それはすなわち、すぐれてポストモダン的な商品である作品をポストモダン的に消費することに失敗した、ということを意味する。ありていにいえば、間違った読解をした、ということになる。

となると、である。ここでまたしても大問題が発生してしまった。「世界の中心で、愛をさけぶ」について、原理的に読書感想文が成立しえないとすれば、ではいったい、私が今まで書いてきたこの文章はいったい何なのであるか。エッ、どうなのだ。これは読書感想文であってはならないのだ。読書感想文だとしたら、私は間違った読み込みをした阿呆ということになってしまうではないか。読書感想文ではなくて評論なんです、というわけにもいかない。宿題として求められているのはあくまで読書感想文なのであるから、評論といってしまった時点で、この文章とは別に、正しい読書感想文を用意しなくてはならないことになる。ああ。

ということで、そんなわけであるから、これまで述べてきたことは、じつは前置きである。「世界の中心で、愛をさけぶ」については、以上のような見方があるのだけれども、私はこの作品を正しくポストモダン的に消費しました。そして、とても感動して泣けてよかったです。以上。おしまい。
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2004年08月10日

「よさこい」の伸長により消えつつある「いか踊り」

夏祭りの季節です。うちの最寄り駅でも、先週末、「よさこい祭り」があったようです。土佐でもないのに、よさこいです。
最近は、地域の伝統や歴史と関係なく、いろんなところでよさこいやってるよね。阿波踊りも、阿波でも何でもないのに、あちこちで踊られています。そのうち、全国の踊りは、よさこいと阿波踊りだけになってしまうんじゃないかしら。
「二大踊り制」
というか何というか、二大政党制への潮流が顕著となった現代日本にふさわしい現象かもしれませんが、なんだかちょっと寂しい気もします。

とくにこの流れに対して憂慮しているのが、函館の「いか踊り」関係者です。伝え聞くところによると、最盛期には1万5千人もの人々が、
「いっかいっかいっかいっか、いっかおっどり〜」
と群舞したというこのいか踊りが、昨今は衰退著しいというのです。
これに取って代わろうとしているのが、よさこいです。小学校の運動会において、みんなで踊るダンスも、これまではいか踊りだったものが、次々とよさこいになっているとか。
まあ正直言って、
「いっか刺っし、しっおかっら、いっかソーメンっ」
などと剽げた仕草で踊るよりは、よさこいの方がよほど勇壮でかっこいいので、理性的に比較すればよさこいに軍配が上がるに決まっているのですが、しかし伝統や民俗とは、そういうものではないのであって、近代的理性で測り知ることのできない奥深さを持っているものなのです。

とはいえ、1981年につくられたというこのいか踊り、当初からよさこいや阿波踊りに対抗しうる、もっと恥ずかしくないような踊りにできなかったものなんでしょうか。それだけが悔やまれますが、しかしいか踊りの制定にあたったのは、市内の飲食店に集まった酒飲み仲間の人たちで、しかもいかをモチーフにした振り付けは酒の勢いにのってエイヤッとつくったらしいので、それもしかたがないような気もします。
posted by 清太郎 at 00:00| 雑録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月03日

ちょっと怖い話

知り合いのWさんが、「できるかな」ののっぽさんを見たそうです。
「お店でごはん食べてたら、いきなり後ろにいたからびっくりした」
だそうです。
「帽子もかぶってないのに、よくのっぽさんだってわかったねえ」
ときいたら、
「わたし、のっぽさん大好きで、いつもじっとじっと見てたから、わかったの」
と自慢気にいわれました。
もうのっぽさんではないのっぽさんは、寡黙にハサミを動かすこともなく、ふつうの人のように、食べたりしゃべったりしていたそうです。

ところで、のっぽさんといえば、ごん太くんですよね。
でも、その場には、
「ごん太くんは、いなかった」
とのこと。残念です。
しかし考えてみれば、ごん太くんがあの姿のまま町なかを歩いているわけがないわけで、もうごん太くんではないごん太くんの人が、もしかしたらそこにいたのかもしれません。誰にも気づかれることなくごん太くんは、ふつうの人のように、ごはんを食べたりしゃべったりしているはずなのです。
そう、ごん太くんは、あんがい身近にいるのかもしれないのです。ほら、あなたのすぐそばにも‥‥。
posted by 清太郎 at 00:00| 雑録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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