2004年07月30日

東京三菱か三井住友か

UFJ銀行、すんなり東京三菱に吸収されると思っていたら、割って入った三井住友フィナンシャルグループが経営統合を申し入れているそうで、さて、どちらのものとなるのか、UFJの命運やいかに。
これが銀行ではなくて人間であれば、
「先に手を放したほうが勝ち」
という大岡裁きを参考にできるのでしょうが、そういうわけにはいかないのが現代資本主義社会の難しいところです。

こういうときに、裏の寝業師みたいな人がプロ野球方面に話をつけて、
「UFJを獲得した側は、近鉄の面倒を見ること」
といったような抱き合わせが実現すれば、いろんな問題が一挙に解決して、いいと思うのだけど。
あ、でも、
「東京三菱バッファローズ」
「三井住友バッファローズ」
どっちもちょっとイヤかも。
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2004年07月27日

高校生の3分の2が「拝啓」を使えないそうだけど

ニュースによると、
「手紙の書き出しで使われる「頭語」を書かせる問題で、「拝啓」などと正しく解答できた高校生が、想定正答率65%を大きく下回る35%だったことが27日、国立教育政策研究所が発表した2002年度の教育課程実施状況調査(学力テスト)の報告書で分かった。」
とのことです。
続けて、
「実社会で使われる表現が意外と身に付いていないことがうかがわれる。」
などとコメントがありましたが、ふつうの高校生はまず「拝啓」で始まる手紙を書く機会がないでしょうから、そんなことに目くじら立ててもしかたがないよね。就職したからって、使うわけでもないんだし。
「拝啓〜敬具」なんていう正しいルールに則っているけど字が汚い手紙と、拝啓も敬具もないけどきれいな字で書かれた手紙とでは、後者の方がよほど好印象なんだし。

そういえば、私が生まれた名古屋ではかつて、名古屋マイソングだかなんだか、そういうご当地ソングがあって、
「拝啓 ここは名古屋です」
で始まって、どうやら名古屋に転校してきた少年が以前の学校の友達に手紙を出した、という設定らしくて、
「野球の話になると いつもケンカしてるけど」
と、地元の中日ファンにすっかりとけ込むことはできないけれど、とはいえ、
「仲間 仲間 名古屋の仲間に 僕も入れてもらったよ」
でもって、最後は、
「仲間 仲間 名古屋の仲間は ステキな ステキな ステキな な・か・ま」
で終わっていて、はじまりが「拝啓」なのに、終わりが「敬具」ではありませんでした。NHKの名古屋放送局の歌だというのに、こんなマナー違反ではいけません、ということにはならなかったみたいです。

昨今、「拝啓」なんかよりもむしろもっと気を遣うべきは、Eメールの書き方でしょう。
知り合いのH君は、微妙な大人の関係にある彼女に対してのメールの末尾に、葛西善蔵の詩を書いて送ったそうです。
「椎の若葉に光あれ」
というのね。
「僕って意外とロマンチストなんです」
とH君はいいますが、
「でも、それっきり、返事がないんですよね」
とのこと。
簡単に送れてしまうメールは、それだからこそ、なかなか難しいものだと思います。
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2004年07月26日

小学校国語教科書の問題点について

朝日新聞のサイトにあった記事によると、

経済の先行きを心配する――この文は、小学5年生の国語の教科書では「経ざいの先行きを心ぱいする」となる。

というので、国語教科書の漢字の見直しが進められているそうです。「環(かん)境」「冒(ぼう)険」「経済(ざい)」と、学年で習わない字をルビ付きで記載しようというのですね。でも文部科学省の見解としては「そうしたルビ付き漢字は、学年で習う漢字数の3割程度に」とのことで、教科書の出版社は、「密着→ぴったりくっつく」「視聴者→テレビを見ている人」「精巧→よくできた」などと、言い換えによって漢字数を減らしたのだとか。

そんな話を聞くと、別にこんなことに神経磨り減らさなくてもいいのに、とつくづく思います。書く方はともかく、読むことに関しては、教科書しか読まない子どもなんていうのはまずいないわけで、そこらへんの本やマンガをみんな読んでるわけです。学校では「金」の字しか習っていなくても、「鋼の錬金術師」という文字をちゃんと読めるんですよね。
そもそも、子どもの漢字力・国語力をアップさせるには、本を読ませるのがいちばんの早道で、本を読ませるには、親が日常的に本を読むような家庭であることがいちばんの早道です。国語の時間をぜんぶ取っ払っちゃても、身近な人間がみんな本を読んでいれば、子どもにはちゃんと国語力がつくはずです。(親が日常的に机に向かって算数の問題を解いている家庭では、子どもも算数の問題が大好きだと思います。)

で、そんな枝葉末節のことにこだわるよりも、ネット上に野放しの暴力やポルノから子どもを守ることについて活発に議論されている現在にあっては、
・実は恐ろしい殺人事件の記録かもしれない「やまなし」
・実はとんでもない野心と暴力と殺戮の物語かもしれない「スイミー」
・顔中クリームを塗ったうえでパックリ食べちゃいたいなんていう、よく考えるとたいへんいやらしいかもしれない「注文の多い料理店」
などの作品をそのまま掲載してしまっていいのか、という問題をこそ、検討すべきだと思います。
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2004年07月22日

惜しみなく読書感想文のネタ(2)夏目漱石『こころ』

ネタ、といいつつそのまんま読書感想文な感じです。もうちょっとキチンとまとめて、「本読みHP」のコラムとしてちゃんと載せた方がいいように思うのだけど、まあとりあえず、ここに載せてみました。
感想文としての実用度は中くらいです。

「こころ」を読んで
〜悪女の物語としての「こころ」〜

先日、秦恒平の『名作の戯れ』という本を読んで、目から鱗が落ちる思いを味わった。そうだったのか!と。【※このように、メインとして論じる作品以外の本を提示すると、いかにも本を読んでいる人のような印象を与えることができます。おすすめのテクニックです】
同書によると、夏目漱石の「こころ」で、書き手たる「私」がこの作品を書いている時点(つまり、先生が遺書を残して自殺してしばらくの時間が経過した後)において、「私」は「先生」の「奥さん」である静と結婚している、というのである。先生にとって「私」はいわば「K」の再来だったのであり、愛する静を託せる「私」という後継者を見いだしたゆえに、先生は安心して自殺をしたのだ、と。
なるほど。そういわれると、すべてが腑に落ちる。あるべきところにすべてがおさまるように思える。なぜ先生は愛する奥さんを残して自殺したのか、なぜこの時期を選んで自殺したのか、それらの疑問がすべて氷解するように思える。
同書では言及されていないが、乃木希典の自殺を機としているのも、わかる気がする。明治の精神に殉じるような素振りを見せることで、「私」が妙なわだかまりを持たないように牽制したのかもしれない。

さて、そうして鱗が落ちた目でもって、この夏、あらためて「こころ」を読んでみた。以前読んだときには何やら小難しい印象を得たのだが、今回は違う。さまざまな細かな点が、「私と静の結婚」という隠された結末へ向かっての伏線のようで、ゾクゾクとしたスリルを感じながら、一挙に読み上げてしまった。【※このように、初めて読んだのではなく、二度目、三度目の読書を印象づけるのも、読書感想文のひとつのテクニックです。いかにも本を読んでいる人!って感じでしょ】
ただ、そこであらためて、腑に落ちない点が出てきた。先生は、静を託せる相手も見つけたし、自殺によってようやく罪から解放されて、よかっただろう。「私」も静を手に入れられて、よかったはずだ。しかし、当の静はどうなのか。男たちのエゴに振り回されて、自分では何もできぬまま、たらい回しにされただけなのではないか。彼女の存在をきわめて尊重しているように見えて、実はその尊重とは、人間である彼女という人格への敬意ではなく、大切なモノを扱うような尊重だったのではないか。先生は、自分の考えはたいへんナイスだと思ったのかもしれないけれど、やはり静は先生の自殺によって不幸になったのではないか‥‥。

と思ったのであるが、いや、しかし、ちょっと待てよ待て。静という女性をめぐって、かつてKが自殺し、そして今、先生が自殺したのである。二人の男を自殺に追いやった女。世間一般には、そういう女のことを、
「悪女」
「魔性の女」
と呼ぶのではないのか。
よく考えてみよう。まずKの自殺である。下宿先のお嬢さんである静の前に現れた二人の男のうち、ひとりは充実した学生生活を送っている先生で、もうひとりは修行僧のような暗い性格のK。女として、どちらかを選べと言われたら、ふつうは前者だろう。Kの自殺に対して静が何かしらの関わりを持ったわけではないが(少なくとも文中には何も書かれていない)、結果として静は、より条件のよい男を手に入れたことになる。
そして次に、先生の自殺。今度は、就職もせず世間から身を遠ざけるようにひっそりと生きている先生と、対するは前途洋々たる学生の「私」。モラルやしがらみを脇において、純粋にこれら二人の男を比較するとしたら、女として選びたいのは、「私」の方ではないか。

しかも、先生との間には子どもがないのである。もしかしたら、「私達は世界で最も幸福たるべき二人なのです」などと持って回ったようなことをつぶやく先生は、夜の方はちょっと頼りなかったのかもしれない。それに対して、若さに満ちた「私」である。
「夜の方はさぞ‥‥」
と静が思わなかったとは言い切れないわけで、やはりこの度も、結果的に静は、よりよい男を手に入れたことになる。
悪く言えば、「まんまと乗り換えた」ということだ。ううむ、やはり、
「悪女」
である。
「魔性の女」
ではないか。
「こころ」というこの作品は、「先生とKと私」を軸にした物語のように見えて、実は静という一人の女を中心とした物語なのかもしれない。これは、先生の物語でもない、「私」の物語でもない、一人の悪女の物語なのだ。

が、しかし。そうなると、ここでまた疑問が沸き上がる。そこに何の意味があるのか、と。これが悪女の物語であるとすると、この作品は、いったい何を言おうとしているのだ、と。

ここで生きてくるのが、この小説のスタイルである。「私」の手記になっている、という体裁である。その「私」というのは、小説の外部に生きる完全な第三者ではないのだ。その悪女である静と、今は結婚している「私」なのである。
その「私」が、自分の妻である静の物語を書いた。しかも、そうであるとは一見したところわからぬように書いた。そこには、何の意味があるのだろうか。
答えは、ひとつしかないように思われる。

妻は悪女だ、静は魔性の女だ、と声高に告発したいのではない。彼女に対する非難の気持ちは、ここには感じられない。ただ、静が悪女であることを、それとなく、伝えたかったのである。
伝える? 誰に?
読者に、である。ただし、その読者とは、この「こころ」という「小説」の読者ではない。「私」が書き記した手記の読者である。つまり、漱石ではなく「私」が読者として念頭に置いている特定の相手に、なのである。
それは誰なのか。もちろん、作品中には出てこない。Kと先生の物語に、「私」が出てこなかったように‥‥。

そうなのだ。「私」がこの手記を読ませたい相手とは、K、先生、「私」の次に来る男、第四番目の男なのである。この手記を書いている時点にあって、「私」は静と結婚しているばかりではない。その静を、かつて先生が「私」にしたように、次の男に託そうとしているのだ。先生が遺書とともに「私」に静を残したように、今「私」は、この手記とともに静をまた誰かにゆだねようとしているのだ。この手記は、「私」の「遺書」なのである。
悪女というその本来の定義からして、静は「私」と結婚することで充足し、落ち着いたわけでは決してない。末永く仲良く暮らしましたとさ、では悪女にならない。先生から「私」に乗り換えたように、必ず「私」から次の男に乗り換える時がやってくる。いや、その時はすでに来ているのだ。
それは、「私」にとっては、寂しいことではあったであろう。しかし、それだけでは決してない。結婚した当初と違って、今や「私」は静を必ずしも満足させてはいないのだろう。だが目の前に現れた次なる男、手記を託すべき相手である男は、自分に代わって静を幸せにしてくれる‥‥。かつて先生が「私」を見たのと同じ瞳、寂しいけれど安心感に満ちた瞳で、今「私」は次の男を見ているはずなのだ。

静を託すべき男を見つけた「私」のすべきことは、何か。当然、静と男の前から立ち去ることである。消えていなくなることだ。それが自殺という形をとるかどうかは、わからない。先生の場合は、罪の意識からの解放をかねての自殺であった。「私」に、そこまでの動機はない。
肝心なのは、次の男が自ら納得する形で、静を彼の手にゆだねることだ。そして、静が悪女であることをそれとなく伝えるこの手記は、そのための道具となるのではないか。つまり、こういうことだ。「きみは僕から静を奪うことになる。でもきみはそれに対して自らを責めることはない。なにしろ、静は悪女だからだ。きみが悪いんじゃない。悪いのは静の方だ。きみは何も考えずに、ただ静を幸せにしてやればいいんだ。いつか、第五番目の男が現れるときまで‥‥」。そんなメッセージが、この手記には込められているのである。

さて、そんな手記であるところの「こころ」を、フィクションとして私が読んでいる。そうして、「こころ」というこの作品の中にはまったく文字で書かれていないことについて、思いを巡らせている。いわば、文字で書かれた文章の外に、本当の小説としての「こころ」がある、とでもいえるだろうか。「こころ」という小説は、その意味で、文字で書かれているように見えながら、文字で書かれていない作品、というべきか。
ああ、そうか、だから「こころ」なんていうタイトルが付けられているのかもしれない‥‥。
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2004年07月20日

知らざあ言って聞かせやしょう

今、本屋さんの絵本のコーナーに、『知らざあ言って聞かせやしょう』という作品が置いてあります。歌舞伎「白浪五人男」より、弁天小僧の有名な啖呵ですね。ちょっと違うかもしれませんが、こんな感じです。
  知らざあ言って聞かせやしょう
  浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の
  種は尽きねえ七里ヶ浜
  その白浪の夜働き
  以前を言やあ江ノ島で
  年季勤めの稚児が淵
  百味講で散らす蒔き銭を
  あてに小皿の一文字
  百が二百と賽銭の
  くすね銭せえ段々に
  悪事はのぼる上の宮
  岩本院で講中の
  枕捜しも度重なり
  お手長講と札付きに
  とうとう島を追い出され
  それから若衆の美人局
  ここやかしこの寺島で
  小耳に聞いた爺さんの
  似ぬ声色でこゆすりたかり
  名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだ
わずか二、三百字程度の台詞ではありますが、これがちょっとこわい感じの絵がドカンドカンと一緒になって、1冊の絵本になっています。

「声にだすことばえほん」というのがサブタイトルなのですが、さて、この本はどんな人を対象としているのか。絵本のコーナーに置いてある以上は子ども向けなのかもしれないけれど、しかし、これを実際にお母さんが子どもに読み聞かせたとしたら、必ず子どもから、
「ねえ、ママ、美人局って何?」
と問われるに違いないと思います。

私は子どもがいないので、そういうとき咄嗟にどう答えるべきかについてはよくわからないのですが(おそらく、育児雑誌には、「こう聞かれたら、こう答えよ! 子どもの微妙な質問に対処するテクニック100」などの特集があると思います)、こういうときにこそ、親の度量が発揮されるのでしょう。

経験を積んだベテランのママなどは、
「たとえば、ママが、パパじゃない男の人とチューして‥‥」
と、子どもにもわかりやすく、かみ砕いて説明してあげられるでしょう。
ついでに、
「タカシくんも、つつもたせには、気をつけようね」
と、それとなく、躾にも役立てることも忘れません。

とはいえ、しかし日本の古典はやはり一筋縄ではいかないのであって、そんなベテランママも、
「じゃあ、若衆のつつもたせって、なあに?」
と訊かれたら、さすがに答えに詰まると思います。
ゲイに対する差別感情を芽生えさせることなく、子どもを納得させることができれば、あなたはもう、ママ卒業です。
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2004年07月14日

惜しみなく読書感想文のネタ(1)小公子

日本の近代女性史を語るにあたって欠かせない人物のひとりに、若松賤子がいる。旧会津藩士の娘として生まれ、フェリス女学院の第1回の卒業生となった彼女は、卒業後すぐに母校の教師となって後進を指導、そのかたわら創作や翻訳を発表するとともに、女性の社会的地位向上にも努めた。

現在、一般に知られている賤子の業績は、『Little Lord Fauntleroy』の不朽の翻訳を通じてのものだ。『小公子』である。格調高くも平易な口語体でつづられたこの作品は、「女学雑誌」に連載当初から、読者から圧倒的に支持された。現在にいたるまで、『小公子』の最良の翻訳は、この賤子のものである、と私は思っている。

ところで、数ある英米の文学作品の中で、何ゆえ賤子はこの『小公子』を選んだのだろう。この点については、教育家としての彼女の立場と、少年ながらも賢く気高く心優しい主人公・セドリックの人物像とが安易に結びつけられ、これまで深く追及されることがなかったのではあるまいか。冷静に考えると、この物語の通低音となっているものは、必ずしも教育万能論と合致するわけではない。お母さんの躾のたまものであるとはいえ、「氏より育ち」というよりはむしろ「育ちより氏」がテーマなのである。主人公セドリックが、間違いなく侯爵殿の実の孫であるという大前提があってこそ、この珠玉の物語が成立しているのだ。

したがって、賤子の関心は、この物語のテーマ以外のところにあったと見るのが正しいであろう。それは何か。私は、ここに断言しよう。
「萌え」
である、と。教育やら何やら、そんな大文字の言葉はいったん脇に置いて、純な瞳でこの物語を見つめてみよう。そこに見いだされるのは、「萌え」以外の何ものでもないはずだ。

たとえば、セドリックことフォントルロイは、
「いかにも、ばッちりした、涼しさうな、あどけない瞳」
の美少年なのである。萌えー。
侯爵殿に向かって恥ずかしそうに、
「エー、丁度、あなたの様になり度いンです。」
などと言うのである。萌えー。
召使いのドウソンに対して、
「どうも有りがたう。ボタンをかける時、ちッと六か敷いですからね。その時は誰かに頼まなくツちや。」
と言うのである。萌え萌えー。

賤子は、萌えたであろう。いくたびもいくたびも、翻訳の手を休めて、萌え萌えな妄想にひたったであろう。
「きゃーん、侯爵殿ったら、ダメよダメっ」
「やーん、セドリックってば、ぜったい誘ってるー」
と、目を輝かせながらつぶやいたであろう。賤子をして『小公子』翻訳へと突き動かしたのは、高邁な精神などではなく、もっと生々しい欲動、32歳にして夭逝した彼女の凝縮した生の蠢動とも呼ぶべきものであったのだ。

教育者、文学者としての賤子の側面を称揚するのもよいが、後世の我々は、賤子の全人格を、美点もあれば欠点もある人間として、女としての賤子の姿を直視せねばならぬ。不滅の児童小説たる『小公子』には、賤子の好み、人前で公言するにはちょっと恥ずかしいような偏った好みが如実に反映していると見て、間違いはないのだ。
その意味で『小公子』には、たとえば「コバルト文庫のような小説を書こうと思ったら、なぜか英国の代表的文学作品のひとつになってしまった」というオースティンの『高慢と偏見』にも似た性格を内在させているといってもよい。「萌え萌えな物語を紹介したら、なぜか正しい児童文学の代表になってしまった」のである。

さて、以上のように私が『小公子』における「萌え」にこだわるのには、理由がある。賤子の隠れた趣味を言い立てようというのではない。賤子が『小公子』に対して感じた「萌え」は、近代日本文学史の中で、重要な(不可欠な、というほどではないにせよ)役割を担ったのではないか、と思うのである。
文学史という大所高所から見ると、『小公子』はその「萌え」なところにこそ、最も注目すべき意義があるのではなかろうか。

こころみに、彼女が「萌え」以外の、もっと崇高な使命感から『小公子』を翻訳したとしよう。その場合、果たして現にあるような『小公子』、あの美しく澄み切った、なおかつ平易な口語体でつづられた『小公子』が生み出されえたであろうか。
否、と私は考えたい。そんな教導的な立場に立っていては、堅苦しい「候文(そうろうぶん)」は書きえても、このようなかわいらしい文章にはなりえなかったであろう。賤子が『小公子』のうちに実現した文体は、ほかならぬ、めくるめくような「萌え」を十全に表現しうる文体として、彼女が選び取り、練り上げた文体なのだ。すなわち、「萌え」があったからこそ、この文体が生まれたのだといってよい。

若松賤子の『小公子』は、「女学雑誌」読者の子女のみならず、坪内逍遥や森田思軒、石橋忍月ら当代の文学者たちの注目するところとなり、折しも草創期であった口語体の文章に、少なからぬ影響を与えたという。明治期に確立され、現代の我々がその系譜を引いている口語体の文章には、賤子が『小公子』に見いだした「萌え」のDNAが、ひそかに受け継がれているのである。
その意味で、一般的には良質の児童文学とされるこの作品から我々が引きだしうる本当の教訓は、おそらく、次のようなものである。
「萌えを侮るべからず」
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2004年07月09日

プロ野球の新リーグ名(2)

前項の続きです。実際に、Aから順に検討してみましょう。

・A:脈絡もなくいきなり「A」を名乗るのは、ちょっとおこがましいように思います。
・B:二流っぽくてダメ。
・C:三流っぽくて、さらにダメ。
・D:なんだかC以下って感じ。
・E:「E」は「いい」に通じて、いかにも「経営改善します」という前向きな雰囲気。IT時代にもふさわしいです。
・F:フットボールみたいでダメ。
・G:ゴルフみたいでダメ。それに「ジーリーグ」って、「ジェイリーグ」がなまったみたいだし。
・H:なんだかよくわかんなけど「ハレンチ大会」みたいです。
・I:「i-mode」のようで、今ふうかも。
・M:あまり知られていませんが、「プロ野球マスターズリーグ」の略称なのでダメです。
・N:「エヌリーグ」って、ちょっと発音しづらいです。それに、「N」は「得ぬ」「獲ぬ」に通じるし。
・O:「Oリーグ」って、字面がマヌケっぽいです。
・P:「プロ野球」の「P」です。パリーグがあったんだから、ピーリーグがあってもいいでしょう。
・Q:おばけのQ太郎みたいでちょっとヘンテコですが、「ヤキュー」の「Q」だと思えば、しっくりきます。
・R:「アールリーグ」というのは、ちょっとまどろっこしいですね。
・S:「スーパー」「スペシャル」の「S」ですからね、かっこいいかもしれません。ただし、シンガポールのプロサッカーリーグは「Sリーグ」といいます。
・T:年配の人は「ティーリーグ」ではなくて「テーリーグ」と発音します。
・U:「Uボート」みたいで、ちょっとかっこいいです。
・Y:「野球」の「Y」ということで、正攻法です。
・Z:「ドラゴンボールZ」「フェアレディZ」のように、「Z」がつくと、かっこいいですね。どうせだから、「リーグZ」「プロ野球Z」などというのもいいかもしれません。

こうして見てみると、
・Qリーグ
・Yリーグ
・Zリーグ
といったあたりが、候補になりそうですね。

あるいは、英字のアルファベットではなくて、ギリシャ文字を使うのも一案です。
たとえば、一部のガンダムファンにしか馴染みのない文字ではありますが、
「νリーグ(ニューリーグ)」
なんていうのも、いかにも新リーグっぽくて、いい気がします。
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プロ野球の新リーグ名(1)

なし崩しのうちに、プロ野球は来期から1リーグ制になりそうです。これまで、プロスポーツの中でもなぜか野球だけが2リーグ制で特権的な地位にあったのですが、これからはサッカーやバレーボールや大相撲と同じになるわけです。
そこで、今考えるべきは、統一された新たなリーグの名称です。サッカーはJリーグ、バレーボールはVリーグ、大相撲は、えーと、大相撲ですが、プロ野球はどうなるのか。
無難に「日本プロ野球リーグ」あたりにおさまる可能性もありますが、サッカーなどに習って、アルファベットの1字をつけることになるかもしれません。その場合、26文字のうちのどれがいちばんふさわしいか、ちょっと考えてみたいと思います。
ただし、すでに他のスポーツで定着している、次の文字は使えません。
・J(男子サッカー)
・L(女子サッカー)
・V(バレーボール)
・X(アメフト)
・K(韓国プロサッカーリーグ)
・W(ワールドリーグ、の略称っぽい)

次項で、Aから順に見ていきましょう。
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2004年07月07日

美人保険

昨日のつづきなのだけど、ところで、美人であるあまりに相手の胸を引き裂いてしまった娘さんは、何らかの罪に問われないのだろうか。文字通り、
「美しいって、罪ね」
ということにはならないのか、気になるところである。

あるいは、有罪にはならないにせよ、何らかの賠償責任を負うことにはならないのか。治療費・入院費だけでも、けっこうな金額である。
美人の人(もしくは、自分が美人だと思っている人)は、誰かの胸を引き裂いて内出血させないように、これからはじゅうぶん気をつけないといけない。
そういうことになっても大丈夫なように、そのうち、
「美人保険」
などが発売されるかもしれない。自動車保険などと同じように、これに加入しておけば、万が一、誰かの胸を引き裂いてしまっても、お金の面では心配しなくてもいい。第一生命の「堂堂美人」などに、みんなが飛びつくことになるわけである。

そしてそうなると、
「おやっ、お嬢さん、お美しい、いやあ、わたし胸が張り裂けるかと思いましたよ。美人保険には、ご加入は…、おやっ、まだ。お嬢さん、それは、いけません。お嬢さんのような美人の方でしたら、この先、誰の胸を引き裂いてしまうか、わかりません。ちょうど、我が社の保険がですね…」
などと、女心をくすぐりながら言葉巧みに勧誘するあやしい保険勧誘員が跋扈することになりそうで、それはそれでちょっと心配でもある。
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2004年07月06日

美人を見て胸が張り裂けた人

今日のニュースによると、中国・安徽省の大学生の男性、方さんはこのほどインターネット上で熱愛していた広東省のガールフレンドと初対面、想像以上に相手が美しいのに仰天し、感激のあまりショック性の胸腔内出血を起こし、危うく命を落としかけたそうです。
出血量は2000ccを超え、病院では気管を切開して除去したうえ輸血、9時間後にようやく意識を回復したとか。

「美人に会って、ショックで胸が張り裂けた」などということが、本当にあったわけです。すごい。さすが中国です。
中国人の大げさなところを揶揄して、李白の詩の「白髪三千丈」が引用されることが多いのですが、こういうニュースを聞くと、
「いや、実際に、三千丈くらいの白髪だったんじゃないかしら」
という気分にもなります。
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2004年07月05日

幽霊の出るホームページ

このまま更新がとだえたりしたら、
「このサイトの管理人は、アメリカに行ったまま消息を絶ってしまったらしい…」
ということで、ちょっと話題のサイトになるかも、と思ったりもしたのですが、更新を再開します。

しかし考えてみると、ネットで日記をつけて公開していたのだけどある日突然事故か何かで死んでしまう、という人もいっぱいいるはずですよね。身内や友人の人はたいてい、その彼女なり彼なりがネットで日記なんかやってるなんて知らないだろうから、書き手が失われた日記は、その日を境に、放置されたまま。
「この人の日記おもしろいなあ、早く更新しないかな。何やってるんだろう」
というその人が、実は一人暮らしのマンションの一室でのたれ死んだまま腐敗している、ということも、ないとはいえません。
広いネットの世界のことですから、
「あのサイトには幽霊が出るらしいぞ」
と不気味な噂が立つサイトが、どこかにはあるのでしょうね。
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